第15話:受付嬢の小さな祈り
『霧鳴き谷』の遠征から戻った二人がグランポートの街へと帰還した頃、空はすでに燃えるような残照を失い、どろりとした夜の帳が静かに街を侵食し始めていた。
冒険者ギルドの内部は、一日を生き延びた荒くれ者たちの熱気と、安酒の饐えた匂いが混ざり合い、奇妙な活気に満ちている。
剥げかけた床板が歩くたびに軋むその空間の片隅で、ブラッドは一人、使い込まれた木製のテーブルに硬貨を並べていた。
窓から差し込む、街灯の鈍い琥珀色の光が、彼の横顔を深く、鋭い陰影で切り取っている。
数える金貨の枚数は正確に遠征の成果を示していたが、彼の心は未だ、あの霧の深淵に置き去りにされたかのように冷徹で、微塵の揺らぎもなかった。
その時、ギルドの喧騒を縫うようにして、受付カウンターの奥からミレイアが小さな声をかけた。
彼女は周囲の冒険者たちが酒に酩酊しているのを見計らい、そっとリーネに手招きをする。
その表情には、いつもの快活な笑顔はなく、どこか夜の冷気に怯えるような翳りがあった。
「リーネさん、ちょっといい……? ブラッドには、内緒で」
リーネは小さく碧眼を瞬かせると、物腰柔らかに微笑み、神官服の裾を揺らして静かに歩み寄った。彼女が動くたび、ギルドの血生臭い空気の中に、ほんのりと清廉な花の香りが溶けていくようだった。
「どうしたのですか、ミレイアさん。そんなに声を潜めて」
「実はね……ギルドの正式な依頼には、どうしてもできない相談があるの」
ミレイアは細い指先で、濁った煤に汚れた西の窓を指差した。その先には、外壁の影に隠れるようにして広がる、この街の病巣――スラム街の歪な屋根瓦が、闇の中に沈んでいる。
「スラムの裏通りに、最近、見たこともない『闇商人』の男たちが紛れ込んでいるみたいなの。彼らが売り捌いている薬……飲むと一時的に、どんな酷い傷の痛みも消えて、身体の底から恐ろしいほどの力が湧き出るらしいんだけど。でも、その後に待っているのは、肉体が急速に腐り落ちるような酷い副作用なのよ。最近、スラムの貧しい子供たちや、怪我をして明日の糧にも困っている若い冒険者が、何人も騙されてその薬に手を出しているって聞いて……」
ミレイアの声が、微かに震えを帯びる。彼女の握りしめた拳は白く強張っていた。
ギルドという組織は、表向きの秩序を守るための天秤だ。そこに住まう法外の者たち、ましてやスラムの私的な揉め事に介入するほどの慈悲は、あの冷徹な規則のどこを探しても持ち合わせていない。
「私、あそこに住む子供たちが心配でたまらないの……。リーネさんなら、スラムの教会の近くで暮らしているから、何かしら事情を知っているんじゃないかと思って。でも、これは私の、ただの勝手な我儘だから……」
ミレイアの言葉を遮るように、リーネは静かに、しかし決然と首を振った。
彼女の碧眼の奥に、かつて信仰を捧げ、そしてその裏切りを知った「聖職者」としての、烈火の如き静かな怒りが灯る。
「いいえ、ミレイアさん。教えてくれてありがとうございます。私の暮らす孤児院の周りでも、最近、酷い悪寒に震えながら虚空を見つめる人々が増えていました。あれは、その毒のせいだったのですね。……元神官として、弱者を喰い物にする不当な悪意を、このまま放っておくわけにはいきません」
「リーネさん……! ありがとう。でも、絶対に無茶はしないでね。もし手に負えないと思ったら、すぐにその……あそこにいる、不愛想な死神さんを盾にしちゃっていいから!」
ミレイアが少しだけいつもの調子を取り戻し、不器用に硬貨を袋に詰めているブラッドを顎でしゃくった。
リーネは「ふふっ」と、微風に揺れる鈴のような声で微笑むと、再びブラッドの元へと戻っていった。
「何か企んでいる顔だな。道具の分際で、余計な感傷に流されるなと言ったはずだ」
ブラッドは顔を上げず、冷徹な声を投げかけた。革袋の紐を引く音が、静かに響く。
リーネは彼を見つめ、夜の冷気に少しだけ身をすくめながら、悪戯っぽく小首を傾げた。
「企むだなんて、人聞きの悪い。……ただ、少しだけスラムの『大掃除』をしようと思いまして。ブラッドさん、私の個人的な我儘に、付き合っていただけませんか?」
「断る。俺はお前の便利屋ではない。俺の刃が血を求めるのは、我が故郷を滅ぼした者たちの首だけだ」
「お礼なら、昨日よりももっと深く、香りの良いハーブティーを、これからの遠征のたびに心を込めて淹れて差し上げます。……それに、ミレイアさんの話では、その闇商人が持っていた薬袋には、あの『神聖教国ルクスリア』の歪な刻印が刻まれていたそうですよ?」
その瞬間、ブラッドの指先がピきりと止まった。
彼の瞳の奥で、決して消えることのない復讐の業火が、一瞬だけギラリと爆発するように燃え上がる。
教国。リーネの過去を縛り、そしてこの世界の光の裏で、あらゆる異端の術理を操る黒幕。その影が、こんな地方都市のスラムにまで伸びている。
「……勘違いするな。お前のお茶に価値などない」
ブラッドはぶっきらぼうに革袋を懐へと押し込み、音もなく立ち上がった。背中の『血喰双刃』が、彼の決意を肯定するように暗闇で鈍く光る。
「お前の拠点が荒らされれば、俺の死角を補う盾が鈍る。ただ、それだけだ。……案内しろ、リーネ」
その低い声の裏には、冷酷でありながらも、決して彼女を一人で行かせはしないという、亡霊なりの不器用な意志が隠されていた。
リーネは「はい、ありがとうございます」と、今度は心からの愛おしさを込めて微笑み、カウンターの奥で祈るようにこちらを見つめるミレイアに、小さく目配せをした。
ギルドの重い木製の扉を押し開けると、夜の冷気と、饐えた溝の匂いが二人を包み込む。
星すら見えない暗雲の下、二人の影は、深く濃いスラムの闇の奥底へと、静かに消えていくのだった。




