第11話:忘却の森の巨蜘蛛
グランポートの街から北へ数街区。陽の光を遮るほどに鬱蒼とした巨木が立ち並ぶ『忘却の森』の奥深くへと、二人は足を踏み入れていた。
湿った腐葉土を踏み締める足音が、静まり返った森に微かに響く。
ブラッドは背中の双剣の柄にいつでも手をかけられる姿勢のまま、周囲の僅かな殺気すら聞き逃すまいと神経を研ぎ澄ませていた。
その後ろを、リーネは神官服の裾を両手で少し持ち上げながら、遅れまいと静かについてくる。
不意に、上空の木々が激しく揺れ、不快な衣擦れのような音が森に響き渡った。
「――来ます、ブラッドさん! 上です!」
リーネの鋭い警告と同時に、巨大な影が頭上から猛烈な勢いで落下してきた。
ドォン! と凄まじい地響きを立てて地面を穿ったのは、並の馬よりも遥かに巨大な禍々しい蜘蛛――『鉄甲の巨蜘蛛』だ。
その名の通り、鈍い鉄の光沢を放つ黒漆の頑強な外殻が、全身を強固に鎧っている。
巨蜘蛛は着地と同時に、前方のブラッドを目がけて太く鋭い鉄の脚を槍のように突き出した。
――キィィン!
ブラッドは瞬時に引き抜いた『血喰双刃』でその一撃を受け流す。
しかし、生身の腕に伝わってきたのは、まるで本物の鉄塊を叩いたかのような重い衝撃だった。
普通の剣士なら、今の衝撃だけで手首の骨を砕かれるか、剣を弾き飛ばされていただろう。
(なるほど。Eランクの錆びた大剣程度では、傷一つ付けられずにへし折られるわけだ)
ブラッドは冷徹に敵の硬度を測り、地を蹴った。
瞬時に巨蜘蛛の懐へと潜り込み、外殻の隙間、柔らかい関節の肉を狙って目にも留まらぬ速さで刃を振るう。
――ガキィィン!
だが、巨蜘蛛もさるもの。異様な反応速度で危険を察知し、別の脚を盾のように割り込ませてブラッドの刃を完全に弾き返した。
そればかりか、弾かれたブラッドの僅かな隙を逃さず、その巨大な顎から粘着性の高い、真っ白な糸の塊を至近距離から吐き出してきたのだ。
空中、回避不能の間合い。
「――『プリズム・シェル』!」
背後から響いたリーネの凛とした詠唱と同時に、ブラッドの目の前に多面体の美しい金色の結界が展開された。
巨蜘蛛が放った強粘着の糸は、その結界の表面に激突し、激しい火花を散らしながら完全に遮断される。
「……上出来だ」
ブラッドは結界の影から一気に飛び出した。
リーネの完璧な防御のおかげで、一歩も退くことなく、むしろ巨蜘蛛との間合いをさらに詰めることに成功する。
しかし、巨蜘蛛の鉄甲は想像以上に厄介だった。
生身の剣技だけでは、関節の隙間を狙うにしても決定打に欠ける。
確実に一撃で仕留めるためには、あの頑強な外殻そのものを叩き割るほどの『破壊力』か、敵の動きを完全に止める一瞬の隙が必要だった。
(……ここで、奴を使うか?)
ブラッドの脳裏に、己の内に眠る禁忌の力――使うほどに精神を狂わせる『血気術』の存在が過る。
だが、今はまだその時ではない。まだ、この身体は生身で動く。
ブラッドは跳躍し、巨蜘蛛の鉄脚を足場にするようにしてその頭上へと駆け上がった。
「リーネ! 奴の視界を奪え!」
「はい! ――『ホーリー・フレア』!」
ブラッドの短い指示に、リーネは寸分の遅れもなく応じた。
彼女の掲げた銀の聖印から、巨蜘蛛の複数の複眼の真ん前で、文字通り太陽の欠片のような強烈な閃光が爆発する。
「ギシィィィッ!?」
視界を完全に白刃に染められた巨蜘蛛が、狂ったように巨体を震わせ、苦悶の声を上げて大きくのけ反った。
その動きに伴い、強固な胸殻と腹甲の境目――最も脆い『急所』が、完全に無防備に晒される。
「終わりだ」
ブラッドの瞳が、凍りつくような冷徹さで細められた。
重力に従い、逆さに落下しながら、両手に握った双剣を逆手に持ち替える。
体重のすべてと、生身の膂力の限界までをその両腕に込め――無防備な急所へと、漆黒の刃を深く、深く突き立てた。
ズブゥッ! と、肉を裂き骨を砕く確かな手応えが、双剣を通じてブラッドの五体に伝わる。
「ギ、ジ……ッ……」
心臓部を正確に貫かれた巨蜘蛛は、激しく数回痙攣したのち、その場に力なく頽れ、二度と動かなくなった。
静寂が森に戻る。
ブラッドは巨蜘蛛の巨体から飛び降りると、双剣を引き抜き、流れるような動作で刃の血を払って鞘へと収めた。
「……お見事です、ブラッドさん」
リーネが小さく息を吐きながら、駆け寄ってくる。
その碧眼には、ブラッドの尋常ならざる剣技への驚嘆と、無事に戦いを終えられたことへの深い安堵が滲んでいた。
「お前のおかげだ。指示への反応も悪くない」
「お役に立てて良かったです。……ですが、やはり少し、無茶が過ぎます。次はもう少し、私を頼ってくださいね?」
物腰柔らかに、しかし少しだけ不満そうに眉をひそめるリーネ。
ブラッドはその言葉には答えず、巨蜘蛛の死骸へと歩み寄り、Cランク昇格の証拠となる討伐部位の回収を淡々と始めるのだった。




