第九話
洋館の階段を降りると、広間の隅で北山乙子、アマチュア将棋選手の小野丞、そして宇曽口史郎の三人が、獲物を分ける獣のようにひそひそと話し込んでいた。ただならぬ空気に、私は思わず足を止めてその会話に耳をそばだてた。
「おい、校長が死んだってことは、例の『タキオン』の研究はどうなるんだ。あんた、数日前に校長が一人でブツブツ言ってるのを盗み聞きしたんだろ?」
宇曽口の下卑た問いに、小野丞が冷ややかな笑みを浮かべて答える。
「ええ。時間を超えるタイムリープの技術が完成間近だって。でも、それを実際に稼働させるには『三つの触媒』が必要らしいわ。第一、第二、第三の紋章って呼んでいたわね」
「触媒の正体は分かってるのか?」
「確かなことは言えないけれど、独り言の中で『赤』と『緑』、それに『将棋の駒』に関係しているって聞こえたわ」
宇曽口の目が強欲にぎらついた。
「緑、だと? 俺が昨日山で見つけたあの古い箱……あれがその一つに違いねえ!」
大人たちの間に渦巻く異常な欲望に、私は背筋が寒くなるのを感じた。その時、美鶴が私の横をすり抜けようとしたので、手を引っ張り先程の宇曽口と小野丞の会話を伝えた。
美鶴は、何かを考えたかと思うと真っ直ぐ洋館の重い扉を押し開けた。
小雨に落ち着いたかに見えた空は、再び狂ったような土砂降りに戻り、叩きつける雨音が鼓膜を震わせる。視線の先、豪雨に霞む場所に、巨大なパラボラアンテナを備えた四輪駆動車が停まっていた。
「あの車なら、衛星回線が生きているはずよ」
美鶴は傘も差さず、若い頃の滝音二郎や私を置いて濁流のような雨の中を駆け出した。薄着の彼女は私の手を強く引き、私は跳ね上がる鼓動を自覚しながら、彼女に遅れまいとその手を握り返した。
滝が先行して車のドアを開け、エンジンキーを差し込む。反対側のドアから、美鶴に引きずられるようにして私も車内へと滑り込んだ。
滝が運転席に陣取り、キーを回してエンジンを始動させる。助手席には美鶴が座り、私はその後部座席から、助手席との僅かな隙間に身体を乗り出すようにねじ込んだ。
密閉された車内。美鶴の背中と私の胸板が、逃げ場のないほど密着する。雨に濡れて透けた彼女のブラウスが、肌に吸い付くように貼り付いていた。
見てはいけない。そう思えば思うほど、視線が奪われる。
ブラウスの下に、あるはずの下着の輪郭がない。雨に濡れた素肌が白く透け、背中のなめらかな曲線があらわになっていた。私の心拍数が暴力的に跳ね上がり、狭い車内にその音が響き渡る。その瞬間、美鶴のうなじにある「赤龍」の紋章が、私の脈動に呼応して服越しに鮮烈な紅い光を明滅させた。
美鶴が小さく身悶えし、熱を帯びた吐息を漏らす。共鳴している。私の興奮が、彼女の身体に何かがエネルギーを注ぎ込んでいるかのように、密着した皮膚から伝わる熱量で理解した。
「ほら、WiFiのアンテナが立ったわ」
美鶴が熱に浮かされたような声で言った。彼女は上半身を捻り、手に持った携帯電話を私の方へと向けた。濡れた生地が胸の膨らみに張り付き、その先端の突起が隠しようもなく浮き上がっている。私は意識を保つために、必死で画面へと目を向けた。
「どこかへ繋がるのか。通話はできるのか」
滝がアクセルを吹かし、発電量を上げながら問いかける。
美鶴はスピーカーモードで幾つかの番号を試したが、どれも無機質な話し中か、接続不能の信号音しか返さない。
「通話は安定しないわ。でも、一部のニュースサイトなら……重いけれど、読み込める」
読み込みゲージがゆっくりと進み、表示された記事の日付に私たちは息を呑んだ。
『二〇二四年八月。山中で高校生四名と顧問一名が行方不明。また、数日前にも女子高生が行方不明に。警察はヘリを投入し捜索している』
「君たちは本当に、二〇二四年から来たのか。そして、その時の顧問というのは……私なのか」
滝が、野心と恐怖が混ざり合った複雑な表情で唸った。
「通話発信は時代のタイムラグがあるせいか、弾かれてしまう。でも、ソウ、SNSなら……」
美鶴は私と自分を動画モードで写し、SOSの文字と共にショート動画をアップロードしようと試みた。しかし、画面には非情な送信エラーの文字が並ぶ。二〇〇〇年という時代の壁が、未来への情報を遮断している。
滝は燃料を惜しむように車をゆっくりと動かし、消失した吊り橋の付近まで近づいた。
「ガソリンが心許ない。一度戻るしかないようだな」
「待って。あのアンテナが見える?」
美鶴が窓の外、吊り橋の手前にある小さな中継アンテナを指差した。
「ソウ、あなたが言っていた、あの保養施設の診療所の番号。内線代わりに使われていたという、局番の『一二三四五六七八』を試してみるわ」
それは、かつて剣道部の知人が口にしていた、ふざけた番号だった。
美鶴が震える指で数字を打ち込む。
プルルル……という発信音がスピーカーから響いた。話し中ではない。
「もしもし、聞こえますか!」
美鶴が叫ぶ。
その時、ノイズの向こう側から、掠れた、絶望的な男の声が聞こえてきた。
『……そこに、誰かいるのか。美鶴か、ソウか』
それは、二〇二四年の世界で、今まさに死の淵に立たされているはずの顧問・滝音二郎の声だった。
『逃げろ……あいつが来る。赤い……の、あいつが……。因果が、殺意が……ガッ……ピーーーー』
凄まじい電子ノイズと共に、通信は途絶えた。
美鶴の赤龍の紋が、これまでで最大の輝きを放っているのを私は見た。




