第十話
三島美鶴が震える手で衛星携帯電話を耳に当てた瞬間、激しいノイズの向こう側から、掠れた、しかし聞き覚えのある声が返ってきた。
「もしもし、聞こえるか。三島、ソウ」
スピーカーモードから漏れ出たその声に、私は息を呑んだ。それは、二十数年後の未来で私たちをこの合宿に誘い、吊り橋の手前で姿を消した、あの老いた顧問、滝音二郎先生の声だった。だが、その声は異常に荒く、苦悶に満ちている。
「先生、どうしたんですか。今どこにいるんですか」
美鶴が必死に叫ぶ。だが、返ってきたのは絶望的なノイズの嵐だった。
「私は現代、二〇二四年で。あいつだ。あいつが。二十年前、兄さんを殺した、影が。そこに、まだ」
「あいつって誰なんですか。先生、答えてください」
美鶴の問いかけも虚しく、ノイズはさらに激しさを増した。
「逃げろ。全ては、あの時から。三枚の、紋章を、揃えては」
そこでプツリと、通話が完全に途絶えた。液晶画面には、Out of Range、の文字が無機質に浮かび上がる。車内に、叩きつけるような雨音だけが戻ってきた。
「今の、顧問なの」
後部座席から、田口の震える声がした。振り返ると、彼女は顔を真っ青にさせ、激しく肩を揺らして立っていた。その瞳に宿っているのは恐怖だけではない。もっとどろどろとした、煮え滾るような何かだ。彼女は運転席に座る、若き日の二郎を、まるで汚物を見るかのような、凄まじい嫌悪の眼差しで凝視していた。
「先生、今の声は」
私が隣の運転席に座る、二〇〇〇年の若き顧問、二郎を振り返ると、彼は幽霊でも見たかのような顔で硬直していた。
「今の、老人の声。あれが、未来の私だというのか。嘘だ。そんな馬鹿なことが」
二郎は動揺を隠すように、無理に教育者然とした笑みを浮かべ、田口の方を向いた。
「田口さん、大丈夫だ。未来がどうあれ、今の私は君たちの味方だ。先生を信じなさい。君たちの将来は有望なのだから、私が責任を持って守ってあげるよ」
その、将来は有望だ、という何気ないはずの言葉が、田口の精神を粉砕する引き金となった。
「ヒュッ、ヒッ……」
田口の喉から、奇妙な音が漏れた。彼女は自分の喉元をかきむしり、激しく身悶えを始めた。過呼吸だ。彼女の瞳は焦点が合わず、目の前の二郎を拒絶するように身体を丸め、座席に頭を打ち付けた。
未来の二郎が彼女に行った「何か」が、今の二郎の言葉によってフラッシュバックしたのだ。読者にも、この男が未来で犯す罪の重さが、田口の震えを通じて伝わるはずだった。
若き二郎の困惑を遮るように、後部座席の大内がゆっくりと身を乗り出してきた。その手には、いつの間にか厨房から持ち出したと思われる、鋭いカッターナイフが握られていた。
「ソウ、三島。お前らにはわからないだろう。この男が、この男の存在そのものが、どれほど醜悪な未来を招くか」
「大内君、何を」
私が止めようとしたが、大内の視線は若き二郎の頸動脈に固定されていた。
「これは指し直しだよ。将棋でいう、同じ指し手を双方が繰り返す千日手のように勝敗がつかない局面を回避するための、唯一の手段だ。ここで根源を断てば、あの忌まわしい未来も、田口が受ける、あの屈辱も、全て無かったことにできる」
田口は何も言わず、ただ嗚咽を漏らしながら、若き二郎を睨みつけ続けていた。彼女の沈黙が、逆に言葉以上の何かを物語っていた。今の私たちには、彼女が具体的に何をされたのかを知る由もない。だが、その絶望の深さだけは、雨に濡れた彼女の背中から痛いほど伝わってきた。
「やめて、大内君。盤面をひっくり返しても、問題は解決しないわ」
美鶴が冷静な、しかし冷徹な声で告げる。狭い車内、私の隣で美鶴の身体が熱を帯びるのがわかった。私の心拍数が跳ね上がるのに呼応して、彼女のうなじにある赤龍の紋が、薄暗い車内を紅く照らし出す。
「今のこの時代の顧問を殺せば、未来そのものが消滅するかもしれない。それは救済ではなく、ただの心中よ。ソウ、行きましょう。洋館に戻って、盤面の外側にある真実を暴くのよ」
雨足はさらに強まり、洋館の壁を覆う緑色の光が、呼吸をするように不気味に脈動し始めた。
二十四年後の世界で、顧問を刺したのは誰なのか。そして、田口が抱える、言葉にできないほどの憎悪の正体は何なのか。
謎は解けるどころか、霧のように深く、私たちの足元にまとわりついてきた。二〇〇〇年と二〇二四年、二つの時代を跨ぐ殺意の連鎖が、今、最悪の形で動き出そうとしていた。




