第十一話
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大内が握りしめたカッターナイフの刃先が、二〇〇〇年の滝音二郎に向けられたまま、車内の空気は凍りついた。激しい雨音が、私たちの沈黙を塗り潰していく。
「やめて、大内君。今はその手を下ろして」
美鶴の静かな、しかし拒絶を許さない声が響いた。大内は忌々しそうに舌打ちをすると、カッターの刃を引っ込め、それをポケットの奥深くへと隠した。だが、その鋭い視線は依然として隣の二郎を射抜いている。田口は顔を伏せたまま、嗚咽を堪えるように小さく震えていた。
「戻りましょう。このままここにいても、ガソリンを浪費するだけよ」
美鶴に促され、若き日の二郎はおぼつかない足取りで再び車を走らせた。彼は未来の自分から届いた断末魔のような声と、教え子たちから向けられる異常な殺意に、完全に打ちのめされているようだった。
洋館に戻った私たちは、二郎の案内で再び一階の奥、校長・滝音太郎が息絶えていた書庫の前へとやってきた。扉は、先ほど二郎と宇曽口が体当たりで破った時のまま、歪んだ形で半開きになっている。
「ソウ、懐中電灯でここを照らして」
美鶴の指示に従い、私はリュックから取り出したライトの光を部屋の隅々へと走らせた。二〇〇〇年の時間軸において、ここは正真正銘の殺人現場だ。床には校長の遺体が横たわっており、その周囲にはどす黒い血溜まりが広がっている。
「改めて確認するわ。この部屋は完全な密室だったのよね」
背後に立つ二郎が、掠れた声で答えた。
「ああ。扉は内側から閂が掛けられていた。窓も全て、内側からクレセント錠が閉められていたんだ。私が体当たりをして入るまで、誰も出入りできるはずがない」
美鶴は遺体には目もくれず、書庫の壁際へと歩み寄った。そこには、校長が研究に使っていたと思われる古い計算機や、物理学の専門書が乱雑に積まれている。
「変ね」
美鶴が呟きながら、壁の一点に指を触れた。私はその場所を光で強調した。そこは、書庫の入り口から最も遠い奥の壁だった。そこだけが、他の壁紙とは明らかに質感が異なっていた。
「ソウ、よく見て。この壁、何か違和感がない」
美鶴に言われ、私は懐中電灯の光を一点に集中させた。洋館の他の壁は、二〇〇〇年の現在においてまだ新しく、清潔な緑色を保っている。しかし、美鶴が指差したその一角だけは、まるで何十年も風雨に晒されたかのように、色が褪せ、表面が細かくひび割れていた。
「これ、二〇二四年の洋館と同じだ。古びて、腐りかけた質感だ」
私の言葉に、美鶴が頷く。
「そうよ。この一点だけ、二〇二四年の未来の洋館が染み出してきている。まるで、時間の皮が一枚剥がれて、向こう側が露出しているみたいに」
それは、物理的な矛盾だった。同じ部屋の中に、二〇〇〇年の新しい壁と、二〇二四年の古い壁が混在している。二〇二四年の老いた二郎が何者かに襲撃された際、その空間的な影響が二十四年前のこの場所にまで染み出してきた証拠だった。
その時、背後で微かな衣擦れの音がした。振り返ると、大内が田口の肩を抱き寄せながら、私たちから少し離れた位置でじっとこちらを観察していた。彼の右手は、先ほどカッターナイフを隠したポケットの上から、何かを固く握りしめている。
大内の視線の先は、壁の矛盾ではなく、美鶴のうなじだった。そこにある赤龍の紋が、壁の異変に呼応するように、これまでにないほど強く、脈打つような紅い光を放っている。
「三島、お前、本当にそれが見えているのか」
大内の問いは、どこか怯えを含んでいた。
「ええ。この部屋には穴が開いている。犯人は、扉や窓から物理的に入る必要なんてなかったのよ」
美鶴はそう断言すると、床に落ちていた一枚の紙片を拾い上げた。そこには数式とも図形ともつかぬ、歪な線が書き殴られていた。
「因果律の崩壊が、もう始まっているわ。ソウ、私たちは今、世界の壊れ目の中に立っているのよ」
雨音の向こう側で、何かが蠢く気配がした。




