第十ニ話
一階の書庫で見つかった不可解な壁の「未来」を後にし、私たちは二階の広間へと戻った。外は相変わらずの豪雨だ。叩きつける雨粒が窓ガラスを震わせ、時折走る稲光が、洋館の不気味な緑の壁を白く浮かび上がらせる。
「田口、少し横になった方がいい。顔色が死人のようだぞ」
大内が痛々しそうに田口の肩を抱いた。田口は何も答えない。ただ、視線の先にいる若い滝音二郎を、この世の終わりでも見るかのような恐怖の眼差しで見つめ続けていた。その様子は、単なるパニックを超えていた。彼女の魂はここにはなく、どこか別の、暗く湿った場所に囚われているようだった。
若き日の二郎は、所在なげに部屋の隅で立ち尽くしている。二十四年後の自分が瀕死の重傷を負い、しかも教え子からこれほどの憎悪を向けられている事実に、彼は完全に言葉を失っていた。
「私は、そんな、未来で私は、一体何をしたというんだ」
二郎が絞り出すように呟いた。その声が聞こえた瞬間、田口の身体が目に見えて強張った。彼女の脳裏には、今、二〇二四年の部室の光景が鮮明に蘇っているのだろう。
「あの時、特別指導よ。私は恐怖で身体が動かなかったのよ」
田口があの時の状況を思い浮かべ、目を閉じて話し始めた。放課後の静まり返った将棋部室。「特別指導だ」そう言って、二郎は内側から鍵をかけた。カチリという小さな金属音が、彼女にとっての断頭台の合図だった。顧問という絶対的な立場。推薦入試を控えた彼女の弱みを握り、二郎は逃げ場のない密室でその欲望を剥き出しにした。
「田口、君の将来は私の指先一つで決まるんだよ」
湿り気を帯びた二郎の指が、彼女のうなじを這った。拒絶すれば全てを失う。そう刷り込まれた彼女の肌に、老いた男の不快な体温が吸い付く。嫌悪感で胃の腑が裏返りそうになっても、彼女は声が出せなかった。二郎の指は、彼女の上半身のブラウスをたくし上げた。背中のブラジャーのホックが外れる音が、静かな部室に不気味に響いた。
「これは君の成長の記録だ。私だけの秘密だよ。白い肌、それに綺麗な桃色の蕾が二つだ」
フラッシュの光が瞬く。レンズの向こう側で歪んだ笑みを浮かべる二郎の顔。その記憶が、目の前の若き二郎の顔と重なり、田口の理性を粉々に砕いていく。
「いやあああ!」
田口が叫び声を上げると同時に、その場に崩れ落ちた。異変はそれだけではなかった。彼女の肌が異常な赤みを帯び、触れずともわかるほどの熱気が周囲に放散され始めたのだ。
「熱い! なんだこれは、身体が燃えてるみたいだ!」
抱きかかえていた大内が驚愕して手を離した。田口の身体から立ち上る熱は、単なる発熱ではない。時空の歪みに曝された肉体が引き起こす「タキオン熱」だった。
大内が逆上し、二郎に向かって飛びかかろうとするのを、我に返った私は反射的に制した。
「どけ、ソウ! あの男が生きているだけで田口は壊れるんだ! 奴を消せば、この記憶も、あいつが受けた辱めも、全部なかったことになるんだぞ!」
大内の咆哮が広間に響く。彼の持つナイフの刃が、雷光を反射して鋭く輝いた。
「救われないわ」
美鶴の冷徹な声が、沸騰する空気を一瞬で氷点下まで下げた。彼女は将棋盤の前から立ち上がり、迷いのない足取りで田口の元へ歩み寄った。
「大内君、あなたがここで彼を殺しても、田口さんの受けた心の傷は消えない。それはただの自己満足よ。ソウ、彼女を運ぶのを手伝って。シャワー室で冷やさないと、脳が焼き切れるわ」
私は美鶴と共に、熱に浮かされる田口を抱え、脱衣所へと運び込んだ。
狭いシャワー室。湿り気を帯びた空気が、密室の閉塞感を強調する。美鶴は田口の服を剥ぎ取り、冷水を浴びせ始めた。
「ソウ、あなたは外で待っていなさい」
そう言われたが、私は扉の隙間から目を離せなかった。
そこには、逃げ場のない性が生み出す、濃密で危うい光景があった。
田口を介抱する美鶴自身の肌もまた、タキオンの共鳴によって異常な熱を帯びていた。美鶴の白い肌から立ち上る熱気が、シャワーの水蒸気と混ざり合い、周囲の空気を陽炎のように歪ませている。
美鶴のうなじにある赤龍の紋が、これまでになく鮮烈な紅い光を放ち、タイル張りの壁を禍々しく照らし出した。密着する二人の少女の肉体。熱にうなされ、美鶴の腕の中で喘ぐ田口。彼女の胸元で激しく上下する「桃色の蕾」が、冷水に晒されて硬く尖り、布地のない剥き出しの肌の上で絶望的な生命力を主張していた。
美鶴の肌が発する熱は、もはや物理的な温度を超えていた。その熱が空気を歪め、視界をぐにゃりと曲げていく。この密室そのものが、因果の袋小路となって私たちを飲み込もうとしていた。
「犯人は、田口さんの憎悪すらも駒として利用しているわ」
冷水を浴びながら、美鶴が独り言のように呟いた。その瞳は、歪んだ空気の向こう側にある真実を冷徹に見据えていた。
私は脱衣所の外で、大内と二郎の間を遮るように立ち尽くしていた。剣道で培った間合いの感覚が、大内の殺意の射程を捉えている。しかし、私の背中には、シャワー室から漏れ出してくる、あの逃げ場のない熱気と甘い香りが、消えない刻印のようにへばりついていた。
二十四年前のこの場所で、一体何が起きたのか。降りしきる雨は、血の匂いと人間の醜悪な執念を洗い流すどころか、より深く、濃く、この洋館の深部へと染み込ませていくようだった。




