第二十ニ話
情報のブラックホール現象は、洋館をわけのわからない迷宮へと変えていた。廊下を真っ直ぐ歩いているはずが、気づけば先ほどいた書庫の扉の前に戻っている。階段を上がれば、そこには昨日見たはずの夕食の残りが置かれた広間が現れる。空間が重なり合い、二十四年の時間が地層のように混ざり合っていた。
壁の一部は新しく輝き、その隣の壁は数百年経ったかのようにボロボロに崩れている。天井からは重力を失ったホコリが星くずのように舞い、私たちは上下左右の感覚さえも奪われそうになっていた。広間に集まった生き残りたちの顔には、狂気と疲れがにじんでいた。
「もう限界だ。若いころの二郎を、今ここで殺せばいい。そうすれば、未来の俺たちが犯した罪も、受けた傷も、すべて最初からなかったことになるはずだ」
大内がうつろな目でつぶやき、自分の腰に手をやった。しかし、そこにあるはずの重さを感じられず、彼は目を見開いた。
「ない。カッターナイフが、ないんだ。美鶴さん、あんたが持っているはずだろう」
その時、二階の客間から、この世のものとは思えない叫び声が響き渡った。私たちが重なり合った空間を必死に駆け抜け、その部屋へと辿り着いた時、そこにはむごい景色が広がっていた。若いころの滝音二郎が、右腕を押さえている。その下には、血が流れている。よく見ると一本の鋭い刃物が落ちている。その柄には、私たちがよく知る特徴的な傷があった。
「そんな、まさか」
美鶴が息をのみ、自分のワンピースのポケットに手をやった。そこにあるはずの、大内から取り上げて彼女が肌身離さず持っていたはずのカッターナイフが消えていた。
「犯人は、私の意識がはっきりしていなかった隙に、あるいは空間が混ざり合った瞬間に、これを奪ったのだわ」
美鶴は震える声で言った。若い二郎がうわ言を言っている。
「信じられない。あの空間からナイフが飛び出してきた」
若き二郎の瞳には、信じられないものを見たような驚きと悲しみが浮かんでいる。意識はあるようだ。
美鶴は、上着を脱ぎ捨て二郎の右腕にかけ、止血の応急処置として縛り上げた。
「運命が無理やり指し直された。未来で悪いことをする人間を、まだ罪を犯していない過去の時点で消してしまうのは救いではなく、新たな矛盾を生むはず。滝音二郎さんは、二〇二四年の世界で、報いと償いをしないといけないのよ。殺されてはいけないのよ」
美鶴の言葉は、冷たい風となって室内を吹き抜けた。彼女の上半身は、ブラジャーだけになりその奥にある胸の形が、赤い血の色とは対照的な白さで、あまりにも美しく浮かび上がっている。冷え切った空気の中で、彼女の乳首はさらに硬く尖り、薄い布を押し上げていた。彼女の豊かな乳房が、呼吸に合わせて激しく揺れ、その白さと先端の紅色のコントラストが、この恐ろしい殺害現場において不謹慎なほどに強い命の力を主張し、私の視線を釘付けにする。
「大内君、あなたがやったのか。隙を見て美鶴さんからナイフを盗み出し、この男を刺したのか」
莉月が冷たい声で問い詰める。彼女の視線は獲物を追い詰めるヘビのように鋭いものだった。
「違う、僕は何もしてない。ずっと田口と一緒にいたんだ。ナイフは美鶴さんが持っていたはずだ。あんたが刺したんじゃないのか」
大内の叫びは、犯人が巧妙に仕掛けた疑いの罠に飲み込まれていく。
私の胸の中で、先ほど見た「龍王」の駒の残像が激しく疼いた。黒い龍の上に配された、血のような赤文字の王。そして今、美鶴が持っていたはずのナイフが、決定的な殺害の道具として目の前にある。
(彼女が因果を操っているのではないか? 自分の正体を隠すために、あるいは新たな歴史を創るために……)
私は、腕の中で熱に浮かされている少女の顔を覗き込んだ。密着した彼女の柔らかな胸の感触が、服越しに私の腕へと伝わり、硬くなった乳首が不規則に私の肌を刺激する。その快感さえも、彼女が仕掛けた「時空のノイズ」のように思えてくる。
「美鶴……君がやったのか。君なら、空間をずらして誰にも気づかれずにナイフを使い、ここへ戻ることも可能なんじゃないのか」
私はついに、堰を切ったように言葉を吐き出した。美鶴はハッとしたように顔を上げ、私を見つめた。その瞳には、疑われたことへの怒りではなく、深い、底知れない悲しみが浮かんでいた。彼女は何も言わず、ただ静かに唇を噛み締めた。その沈黙が、さらに私の疑念を煽り立てる。
美鶴は二郎のそばにひざまずき、血に濡れたカッターナイフをじっと見つめた。
「犯人はこの状況さえも、未来から受け取った決まった手順として計算に入れている。誰が誰を疑い、誰が絶望するか。それ自体が、犯人の描いた計画の一部なのよ。私じゃないわ」
窓の外では、緑色の雷光が降り注ぎ、洋館の壁が灰色のちりとなって崩れ始めていた。空には二つの月が重なり合うように浮かび、世界の崩壊が最終段階に入ったことを示している。美鶴は私の腕の中で、再び上がり始めた熱にうなされながらも、次の一手を読み解こうと、必死に考え続けていた。彼女の柔らかな胸が私の腕に押し付けられ、硬くなった乳首の感触が伝わるたび、私はその熱と快感を通じて、かろうじて現実の世界に繋ぎ止められていた。
二郎の顔は青ざめている。出血は酷いが二郎の命は助かるみたいだ。




