第ニ話
乱暴に入り口のドアが破られて開き、クラスメイトの二人、田口と大内が激しい雨音と共に広間へ駆け込んできた。
「部屋の中は真っ暗じゃない。ソウ、どうしたの。一体、何が起きたのよ」
田口が悲鳴に近い声を上げる。大内も肩を荒らげ、壊れたドアのノブを見つめた。
「洋館の入り口が開かないし、中から悲鳴が聞こえたから体当たりしてこじ開けたんだ。ここは一体どうなっている」
三島美鶴が混乱する二人に、鋭く、しかし冷静な声を飛ばした。
「顧問が倒れているの。誰か、すぐに警察と救急車を。誰かスマホ持っている」
大内が青ざめた顔で首を振る。
「顧問から、合宿は対局の不正防止のためにスマホ厳禁と言われただろう。俺たちの分はさっきの診療所のロッカーに預けたままだ。それに美鶴、この書庫の扉は内側から閂が掛けられていたはずだぞ。完全な密室だ」
美鶴の顔が、懐中電灯の光に照らされて蒼白に染まる。
「つまり、誰も出入りしていないということ。ならば犯人はまだ、この洋館の闇の中に潜んでいるというの」
美鶴は懐中電灯の光を、書庫の奥にある唯一の窓へと向けた。
「大内君、この窓を見て。クレセント錠は内側から確実に閉まっているわ。けれど、おかしいと思わない。この錠前には、まる二十四年間一度も手を触れずに放置されていたかのような、不自然に厚い埃が積もっている。指一本触れた形跡すらない。建物自体はこれほど新しく見えるのに、この埃の堆積だけが、膨大な時間の経過を物語っているわ」
科学的に見て、沈降した埃の層がこれほど均一に成長するには数十年単位の停滞が必要だ。新しい洋館の中に「未来の埃」が共鳴している。美鶴の指摘に、現場は異様な緊張感に包まれた。
その直後、洋館を物理的に粉砕せんばかりの巨大な雷鳴が轟いた。
次の瞬間、洋館全体の建物が揺れるほど大きな音がした。壁には緑色の渦が、生き物のように巻いて見えた。気の所為ではない。空間そのものが熱を帯び、ねじ曲がっている。
私は、落雷の音に驚愕して思わず美鶴に抱きついた。私の胸板に美鶴の乳首の感触を感じ、そのあまりの気持ちよさと生々しさに意識が飛びそうになる。
恐怖と興奮で、私の心拍数が跳ね上がる。その瞬間、美鶴のうなじにある赤龍の紋が、私の鼓動に呼応するように、衣服の下で紅い光を明滅させ始めた。私の心拍と彼女の痣が完全に同期し、共鳴の萌芽がエネルギーを増幅させている。彼女の身体から立ち上る熱気が、雨に濡れた私の肌を直接焼いた。
美鶴が落ち着いて私の身体をゆっくりと遠ざけて、何事もなかったかのように声を出した。
「近くに雷が落ちたようね」
私が洋館の外から橋を見ると、吊り橋が消えていた。
洋館の外へ飛び出した私たちは、消失した吊り橋を前に茫然と立ち尽くした。田口と大内が橋が落ちた方向を見て、どうしようと叫んでいる。令和の八大タイトルを取った中学生棋士に憧れて将棋に興味を持ったという、従兄妹同士の彼らの顔から余裕が消え失せていた。
大きな稲光が再び上空で光り、すぐに雷鳴がした。
空一面が不思議な緑色の雲に覆われている。世界からデジタルのノイズが剥ぎ取られたような、不気味なほどの静寂が辺りを支配していた。洋館の中に戻ろうとした美鶴は、私を見て不思議そうな顔をしていた。
「ほらソウ、洋館の壁が古びていないわ。緑の壁がまだ新しい。さっき着いた時は、壁が古びていて灰色がかっていたような気がするの」
確かに洋館が新しい気がする。古びた気配が消えていた。
田口が後ろから話しかけてきた。
「顧問なら、スマホを持っているんじゃないかしら」
四人は一斉に、息をしていない男性が横たわっている部屋に戻った。
大内が服のポケットを探ると、一台の端末を取り出した。それはスマートフォンではなく、銀色の折り畳み式携帯電話だった。
「顧問には申し訳ないが、借りるぞ」
田口が震える指でボタンを押した。
『お掛けになった番号は電波が届かない場所か電源が入っていないため繋がりません』
携帯電話からそのような自動音声が聞こえてくる。
「そんな馬鹿な。ここは圏外なの」
田口が携帯電話を持って外へ飛び出していった。私は自分のポケットからスマホを取り出したが、その液晶画面は単なる圏外表示ではなく、激しい砂嵐に支配され、デジタルな死を告げていた。
美鶴は独り、横たわっている男性の顔をじっと見つめている。
「ソウ、今横たわっている男性の髪の毛だけれど全部綺麗な白髪よ。顧問は定年間近だけれど白髪交じりで黒髪も混じったグレーの髪だったはずよ。この人、顧問に似ているけれど、顧問じゃない気がするわ。それにこの横たわっている人の口から将棋の駒みたいなのが見えるわ。飛車の駒か」
美鶴がとんでもないことを言い始めた。
じゃあ、この横たわっている人は誰なのか。ここは本当に、さっきまで私たちがいた場所なのか。
田口が戻ってきた。
「外に出てもやっぱり警察に繋がらないわ。吊り橋も落ちたし、どうやって連絡したらいいの」
美鶴が田口から携帯電話を預かると、冷徹な声で告げた。
「携帯電話の日付が、二〇〇〇年八月一日になっているわ。今は二〇二四年のはずなのに」
緑の渦が巻いたあの瞬間、私たちは令和という時代から切り離され、二十四年前の惨劇の夏へと指し込まれたのだ。




