第十八話
嵐の咆哮が洋館の古びた窓を叩き割り、剥き出しの狂気が館内を駆け巡っていた。広間の隅で絶叫して飛び出した助手、内藤の足音が遠ざかり、代わりに聞こえてきたのは金属が激しく軋むような耳障りな音だった。
「内藤さん」
私は美鶴の制服の裾を掴む制止を待たず、暗い廊下へと駆け出した。背後からついてくる美鶴の足取りは、いつになく重い。タキオンの過負荷による高熱が彼女の細い肢体を蝕んでいるのだ。廊下の非常灯が不規則に点滅し、脈動する緑色の壁に私たちの影を長く、歪に投げかけていた。
突き当たりにある実験室の重い鉄扉が、わずかに開いている。そこから漏れ出しているのは、これまでの緑色の光とは異なる、刺すような青白い閃光だった。
「待って、ソウ。中に入ってはだめだ」
追いついた美鶴が私の腕を強く掴んだ。彼女の掌は驚くほど熱く、薄いブラウス越しに伝わる体温が私の肌を直接焼く。彼女の肌からは微かな蒸気が立ち上り、激しい熱に浮かされた美鶴の呼吸は浅く荒い。雨と汗に濡れて肌に吸い付いたブラウスは、もはや衣類としての体をなしておらず、露わになった白い背中や、激しく上下する豊かな胸の輪郭、そして硬く尖った乳首の突起までもが生々しく浮き上がっている。彼女のうなじにある赤龍の紋が、獲物を狙う蛇のように紅く脈打ち、禍々しい色香を放っていた。
「でも、内藤さんが」
「見て。扉の隙間から見える空間が、歪んでいるわ」
美鶴の言葉に従い、私は扉を押し開けて目を凝らした。室内の光景は、まさに奇想天外な悪夢であり、同時に悍ましいほどに美しい光景だった。
部屋の真ん中で、内藤が空中に静止していた。いや、静止しているのではない。内藤は部屋の右側の壁に向かって、真っ逆さまに落下したような姿勢で固定されていた。
「これは、何だ」
私は声を震わせた。内藤の体は床から一メートルほど浮いた状態で、目に見えない何かに、まるで透明な串で刺し貫かれたかのように空間に縫い付けられている。足元に転がっているフラスコや試験管も、床ではなく右側の壁に向かって積み重なり、重力の方向が完全に狂っていた。
だが、それ以上の衝撃が私を襲った。内藤は完全に全裸にされていた。時空の捻れによる凄まじい圧力が服を消し飛ばしたのか、あるいは犯人が剥ぎ取ったのか。露わになったのは、誰もが信じて疑わなかった青年助手の姿ではなかった。
剥き出しになった肩のラインは華奢で、驚くほど滑らかだった。内藤は、男装した女性だったのだ。死してなお上気したように見える白い肌。そして、股間の秘所には毛が一本も残っておらず、重力の歪みによってその滑らかな曲線が不自然なほど克明に強調されていた。
さらに、彼女の豊潤な乳房には、鋭利な刃物で刻まれたような文字があった。
「v > c」
光速cよりも早い速度v。博士の研究していたタキオンの数式が、生身の女性の肉体に冒涜的に刻まれている。彼女の首は、生物学的な限界を遥かに超え、百八十度真後ろにねじ曲がっていた。驚愕に目を見開いたままの表情は、理解不能な物理現象に直面した戸惑いに支配されているように見えた。歪んだ重力によって、彼女の長い髪が右側の壁に向かって美しく、かつ残酷に流れている。
「重力偏位だわ。タキオンの異常集積によって、この部屋だけ因果律の軸が九十度回転しているのよ」
美鶴が私の肩に身を預け、喘ぐように説明した。彼女の熱い吐息が耳元にかかり、背筋に戦慄が走る。私は横倒しの重力に逆らうように室内へ踏み込んだ。一歩ごとに胃を掴まれるような吐き気に襲われる。
私は内藤、いや、名も知らぬ彼女の遺体の足元に、不自然に輝くものが落ちているのを見つけた。それは、真っ赤な紐がついた真鍮製のキーホルダーだった。
「これは、大内の」
私はそれを拾い上げ、確信した。大内が大切に持っていた守り袋についていたものだ。私は目の前の光景と、隣にいる美鶴を交互に見た。これほどまでに非人間的な、物理法則を嘲笑うかのような殺しが可能なのか。もし美鶴が、この洋館の力を完全に制御し始めているのだとしたら。この人知を超えた惨劇の演出家が、もし彼女だとしたら。私は美鶴の熱い肌に触れながら、初めて彼女という存在に底知れぬ恐怖を抱いた。
その時、廊下から駆けつけてきた北山乙子と莉月、そして大内と田口が現れた。
「内藤さんが、あんな姿に。嘘、あの方は女性だったの」
田口が悲鳴を上げ、大内の胸に顔を埋めた。莉月が冷ややかな視線で、重力に逆らって浮遊する内藤の肢体を観察し、やがて視線を私の手元へと移した。
「あら、吉川君。あなたが持っているそのキーホルダー、大内君のじゃないかしら。内藤さんの遺体のそばに落ちていたのかしらね」
全員の視線が大内に集中した。
「違う。僕は、僕は部屋にいたんだ」
大内の反論は、恐怖に震える田口の嗚咽にかき消された。内藤の死はあまりにも不可解だった。美鶴は大内のキーホルダーを握りしめたまま、うなじの紋章の熱に耐えるように私の腕を強く掴んだ。彼女の指先が私の肌に食い込み、その圧倒的な熱量が全身を駆け巡る。
「ソウ、これはまだ序盤に過ぎないわ。犯人は重力さえも駒のように操り、私たちの欲望と秘密を盤上へ引き摺り出そうとしている」
美鶴の瞳には、内藤の死という残酷な一手を超えた、さらなる惨劇の予兆が映し出されていた。窓の外では、緑色の雷光が狂った因果の終末を祝うように激しく降り注いでいた。




