第十七話
その時、私がリュックの底に仕舞い込んでいた顧問の古い携帯電話が、あり得ない振動を始めた。二〇〇〇年には存在しないはずの電子音が、重苦しい広間に響き渡る。電波など届くはずのない圏外表示の画面に、激しいノイズを伴う動画データが着信していた。
「美鶴、見てくれ。二〇二四年の二郎先生からのメールだ」
私たちは顔を寄せ合い、小さな液晶画面を見つめた。そこには、二〇二四年のあの洋館の書庫で、血を流して倒れている老いた姿の二郎先生が映し出されていた。背後で壁が歪み、空間そのものが砂嵐のように崩壊している。カメラが激しく揺れ、血まみれの床に落ちた三枚目の紋章の欠片が映り込んだ。
「逃げろ、三島。あいつが、因果を書き換えるために、過去の私を消そうとしている。証拠を消去し、歴史を上書きするつもりだ」
通信が途切れる寸前、画面の奥を横切った誰かの姿。それは、今この広間にいる誰かと全く同じ服装をしていたが、逆光で顔までは読み取れなかった。
「未来で何かが起きたのね。犯人は紋章をすべて揃えることで、自分にとって不都合な過去、おそらくは校長を殺害したという確定した事実そのものを消去しようとしているんだわ」
美鶴の唇が震え、私の腕の中で彼女の細い身体が小刻みに揺れる。恐怖と興奮が入り混じった彼女の大きな瞳が、私を捉えて離さなかった。彼女の鼓動が、密着した私の胸板にまで激しく伝わってくる。
異変はそれだけでは終わらなかった。洋館の内壁、あの新しい緑色の塗装が、まるで生き物のように激しく明滅し始めた。一部の壁紙が剥がれ落ち、その下から令和の時代と同じ、古びた灰色のコンクリートが剥き出しになっていく。二十四年の時を隔てた二つの時代が、物理的に混ざり合っているのだ。
「時間が、衝突している。ソウ、しっかり私を掴まえていて」
美鶴が私のシャツの胸元を強く掴んだ。彼女の体温はさらに上昇し、肌が触れ合う部分から火傷しそうな熱が伝わってくる。彼女のブラウスは雨と汗で完全に透け、その奥にある繊細な肌の色を露わにしていた。
彼女のうなじにある赤龍の紋が、私自身の高鳴る鼓動と同期するように、禍々しい紅い光を放ち始める。私は彼女を守るために力を込めたが、その柔らかい感触と、首筋から漂う芳しい香りに、意識が遠のきそうになる。この熱、この紋章。美鶴こそがこの異常事態の核なのではないかという、言語化できない不穏な予感が胸をよぎった。
その瞬間、広間の隅でガタガタと震えていた助手の内藤が、獣のような叫び声を上げた。
「嫌だ。消されたくない。私は、私は何も見ていないんだ。あの人が、校長を――」
内藤は狂ったように笑いながら、制止する声も聞かずに嵐の外へと飛び出していった。
「待ちなさい、内藤さん。外はもう、正常な時空ではないわ」
美鶴の鋭い叫びも、激しい雷鳴にかき消された。内藤の姿は、土砂降りの雨と緑色の光の渦の中に一瞬で吸い込まれていった。
二〇〇〇年と二〇二四年、二つの時代を跨ぐ殺意の連鎖が、物理法則さえも蹂躙して、私たちを破滅へと誘おうとしていた。暗闇に包まれた洋館の奥から、次なる惨劇の足音が確実に近づいているのを、私は本能的に感じ取っていた。
誰かが未来の叡智を盗み、誰かが歴史を殺そうとしている。その王手は、すでに私たちの喉元に突きつけられていた。




