第十六話
一階の広間に漂う不気味な静寂を、美鶴の鋭い声が切り裂いた。彼女は莉月から奪い取った研究ノートを、将棋盤の上に力強く叩きつけた。
「滝音二郎先生、あなたは大きな勘違いをしている。校長が研究していたのは、ただの古いおまじないではない。もっと物理的で、もっと残酷な、時間の操作だ」
美鶴の言葉と共に、彼女のうなじにある赤龍の紋が、鮮烈な赤い光を放ち始めた。熱に浮かされた彼女の体温は異常なほどに上昇している。土砂降りの雨に濡れた黒いワンピースが、汗ばんだ白い肌に生々しく張り付いていた。薄い生地越しに、発育途上ながらも確かな弾力を持った乳房の膨らみが浮き上がり、激しい呼吸に合わせて上下する。その先端が布地を内側から鋭く押し上げている様子に、私は息を呑んだ。
「小野丞さん、隠し持っているものを出しなさい。あなたが狙っていたのは、このノートだけではないはずだ」
美鶴の冷たい視線に射抜かれ、莉月は完璧な無表情を一瞬だけ崩した。やがて彼女は諦めたようにため息をつき、和服の懐から赤い結晶を取り出した。これが第二の紋章だ。
私はその瞬間、先ほど廊下の暗がりにいた莉月の姿を思い出した。彼女はその結晶をじっと見つめ、虚空に向かって「2六歩、8四歩、4八銀、3四歩、7八金、8五歩、6八銀……」と、取り憑かれたように小声で指し手を呟いていたのだ。あの異様な光景の正体が、今、目の前で繋がろうとしていた。
美鶴はその結晶を手に取り、広間の中央にある将棋盤のそばに置いた。赤い光が盤面を不気味に照らし、駒の影が意志を持つかのように不自然に伸び上がる。
「ソウ、見て。これが何を意味するか。誰かがこのデバイスを使い、ここではない『どこか別の時間』から届く情報を受信している。この中の誰かが、この時代には誰も知らない未来の指し手――将棋定跡の最適解を手に入れ、この時代の棋界を蹂躙しようとしている。それは盤上における、最も卑劣な裏切り……未来のカンニングよ」
私は耳を疑った。
「未来の指し手。それって、対局中にカンニングをしているっていうのか」
「ええ。この赤い光は、時間の壁を超えてデータが流れてきている証拠よ。莉月さんはこれを使って、まだこの世に存在しない戦術を盗み見ようとしていたのね」
和服を纏った北山乙子は、感情の読み取れない瞳で美鶴を見つめていた。その指先が、盤上の駒をなでるようにゆっくりと動く。その動作は、まるで愛しい者の肌に触れるかのように執拗で、不気味だった。
美鶴の吐息がさらに荒くなり、苦しげに胸元を押さえる。過剰な未来の情報が、彼女の紋章を通じて脳内に直接流れ込んでいるのだ。私はたまらず、彼女の細い肩を抱き寄せた。
手のひらから伝わる彼女の肌の熱さは、まるで火に触れたかのように高く、同時に滴る汗の滑らかな感触が指先にまとわりつく。密着した彼女の背中から伝わる心拍の鼓動が、私の胸板を激しく叩いた。官能的な生命力が、時空の歪みの中で確かな重みとなって私の全身に刻み込まれていく。
「未来のカンニング。それがこの惨劇の引き金になったのなら、校長を殺した動機は一つに絞られるわ」
美鶴は熱に浮かされた瞳で、座を共にする大人たちを一人ずつ射貫いた。雨音の向こうで、誰かの指が駒を弾くような乾いた音が響いた。




