第十五話
二郎の傷に応急処置を施した後、広間には重苦しい沈黙が横たわっていた。二郎は青白い顔で肩を押さえ、自らの「未来」がもたらした衝撃に項垂れている。私は、美鶴の隣に座り、彼女の様子を伺った。
美鶴は、莉月から奪い返した研究ノートと、二〇二四年の二郎先生から託されたあの手紙を交互に読み込んでいた。広間を支配する緑色の脈動が、彼女の瞳を奇妙な色に染めている。
「この手紙、まだ先があるわ」
美鶴が断言し、ライターを取り出した。彼女の指先は微かに震えていたが、その動きに迷いはない。彼女は慎重に、手紙の裏面に火を近づけた。じわりと、紙の繊維から新たな文字が滲み出してきた。それは、校長・太郎による、実の弟への凄まじい執念が込められた告発状だった。
そこには、二郎が兄の研究を「時空を私物化する技術」と見做し、それを強奪するために密かに企てていた背信の記録が、具体的な日付入りのメモとしてあぶり出されていた。一九九九年十二月の消印で、二郎が外部の機関に「兄の精神状態は不安定であり、研究を引き継ぐ用意がある」と虚偽の報告をしていた書簡の写しまでが、そこには記されている。
「先生、本当なんですか」
私の問いに、若き二郎は顔を覆い、震える声で絞り出した。
「兄さんは……兄さんは天才だった。だが、私はただの凡庸な弟だ。あいつの研究成果さえあれば、私は時間を操り、この退屈な人生から抜け出せると思ったんだ。だから、兄さんを事故に見せかけて排除し、データを強奪しようと画策した。あぶり出された通りだよ」
その告白を聞いた瞬間、田口の瞳から光が完全に消失した。二郎はもはや、救うべき善人ではなかった。
「最低。どいつもこいつも、自分のことしか考えてない」
田口の冷え切った声が広間に突き刺さる。その時、それまで沈黙を守っていた小野丞莉月が、冷ややかな笑みを浮かべて一歩前へ踏み出した。彼女はシャツのポケットから、黒いベルベットの小袋を取り出し、その中身をテーブルの上に転がした。
「……見苦しいわね、二郎君。でも、あなたのその浅ましい執念のおかげで、私はこれを見つけることができたわ」
テーブルの上で、親指ほどの大きさの赤い結晶が、ドロリとした紅い光を放って鎮座していた。
「これは……第九話で小野さんが言っていた……」
私の言葉に、莉月は産業スパイ特有の事務的な手つきで小型の検知器を石にかざし、数値を読み取った。
「そう。第二の紋章――エネルギー増幅用触媒、通称『赤い心臓』よ。タキオンの虚数質量が生み出す不安定な出力を、この多面体結晶が共鳴し、強制的に安定したエネルギーへと変換する。これがなければ、タイムリープを起動した瞬間に因果律の反動で肉体が霧散するわ」
莉月はピンセットで結晶を持ち上げ、美鶴の顔の前に突きつけた。その瞬間、美鶴のうなじにある赤龍の紋が、これまでにない激しさで紅く明滅した。
「っ……あ……!」
美鶴が胸を押さえ、その場に膝をつく。彼女の肌からは陽炎のような熱が立ち上り、濡れたワンピースの隙間から覗く白い肌が、熱に浮かされたように赤らんでいく。
「美鶴! 大丈夫か!」
私は彼女を支えたが、その身体は焼けるように熱い。莉月はそれを見て、確信に満ちた笑みを深めた。
「やっぱりね。この『赤』にこれだけ過敏に反応する。三島美鶴、あなたの身体そのものが、この触媒を動かすための生体アンテナになっているのね。宇曽口の『緑の箱』が空間を固定し、この『赤の結晶』がエネルギーを供給する。……役者は揃ったわ」
「そうよ。この洋館に集まった大人たちは、どいつもこいつも同じ穴の狢だわ」
美鶴が私の腕を借りて、ふらつきながらも立ち上がった。推理の昂ぶりか、それとも館に充満するタキオン熱のせいか、彼女の頬は林檎のように赤く染まっている。湿り気を帯びた黒いワンピースの胸元が、激しい呼吸に合わせて上下していた。
汗の滴が彼女の白い鎖骨を伝い、胸元の谷間へと吸い込まれていく。そのあまりに無防備で、それでいて生命力に満ちた扇情的な姿に、私は一瞬だけ息をすることを忘れた。
「校長の研究を盗み見る者。時空を操ろうとして兄を裏切る者。そして、ただの金目当てのスパイ。全員、太郎さんの魂を食い物にしようとしているハイエナに過ぎないわ」
美鶴の冷徹な宣告が、広間に響き渡る。若き二郎は教え子である彼女からの蔑みに耐えかね、惨めに頭を垂れた。
「誰も救われないわ。この館自体が、欲望を増幅させて食い尽くす時空の檻なのよ」
雨足はさらに激しさを増し、窓の外では落雷が空を裂いている。二郎の醜悪な本性が露呈し、莉月が第二の紋章を手にしたことで、私たちの間に残っていた僅かな「信頼」という名の盤面は、修復不可能なほどに粉砕された。
暗闇の中から次に現れるのは、あの不自然な影なのか、それとも、誰かの剥き出しの殺意なのか。私は美鶴を守るために竹刀を固く握り締めたが、私たちの足元にある床さえも、今や不確かな時空の渦に飲み込まれようとしていた。




