12.絶望と……
石造りの壁にある大きな窓から風が入って来る。熱を帯びる体が冷やされて、心地がいい。タライに入った氷水に浸している右足はたまに外気に晒してみるけれど、冷えが引いてくると痛みがぶり返してくる。
わたし=陽野下耀は、飛竜国内にあるライリーの邸宅に来ている。ここは客室らしく、2台のベッドに2脚の椅子とセットになったテーブルが置かれてあるのみで生活臭のするものはない。わたしは椅子に腰をおろしており、ディモスがベッドの上で眠っている。ディモスの全身には包帯が巻かれていて、とても痛々しい。きゅっと胸が痛むのを感じる。
この2階の窓から見える太陽は完全に西へと移動しており、あと数刻で日没しそうだ。エイデン宅からここへ移動してきて4,5時間くらい経過したことになる。もっと遠い昔のような……逆につい数分前のことのような不思議な感覚がある。テーブルには使用人の女性が用意してくれた暇つぶし用の書物があるけれど、読む気になれない。ただボーっとして……考え事をして……それだけであっという間に時が流れている。
窓の外から馬の駆ける音が聞こえてくる。一瞬エレノア達が宮廷から戻って来たのかと思ったけれど、馬一頭だけの軽い音なので違う。反射的に外を覗き込んでいたけれど、予想通りライリーの従者らしき男性が1人馬から飛び降りている姿が見えた。とても慌てた様子だけど……何があったんだろう。
わたしはタライから右足を抜くとタオルで拭き、靴を履く。かすかに痛む右足を引きずりながら客室を出て、階段を目指して廊下を歩く。角を曲がると階段が見えるあたりに辿り着いた時、階下の方から話し声が聞こえてくる。
どうやら、今しがた戻って来た従者と複数人の使用人の声のようだ。その話の内容を理解した瞬間、わたしは耳を疑った。どうやらエレノアは父である飛竜王に対し、ライリーとの婚約を破棄したいと伝えたそうだ。ライリーは婚約者であり続けゆくゆくは結婚したいと主張したそうだけど、エレノアの婚約破棄への決意は揺るぎない。恐らく婚約破棄は免れないだろうと、従者達は動揺している。
わたしも動揺し、その場にしゃがみ込んでしまう。従者の話ではライリーの乱暴さや豪快さに嫌気がさしていたとエレノアが言っていたそうだけど……そんなはずはない。だって、ライリーといるエレノアはとても幸せそうだったもの。あの笑顔が演技だったなんて思えない。
きっと、あの太った男とタトゥー男に貞操を奪われたせいだ。それを愛するライリーに知られた以上、結婚はできないと思ったんだろう。ああ……もしわたしが酔いつぶれたりせず、予定通り前日にエイデン宅に戻っていたら……こんなことにはならなかったんじゃ……。そんな後悔がぐるぐると渦巻く。
「何かあったの?」
「おい、パット!――すみません。彼は何にでも首を突っ込みたくなるタチで」
従者の声に2つの新たな声が混じる。男性というにはまだ若い、発達途上の少年のような声。従者の反応からして、どうやら彼らもライリーの客人のようだ。わたし達の他にも客人がいるなんて知らなかった。でも今はそんなことどうでもよくって、高い天井をただただ仰ぎ見る。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
ライリーが帰宅してきたのは、完全に落日し辺りが暗闇に包まれた頃だった。彼は早々にわたしのいる客室にやって来ると、食事はこの部屋でエイデンとしてほしいと願い出てきた。というのも、もう一組の客人はエイネブルームの人間だからだそうだ。わたしは直接話していないけれど、黒髪と真っ赤な瞳の持ち主が「イバラテイの魔女」と呼ばれて忌避されているのをライリーは知っている様子だ。エレノアから聞いたのだろうか。彼の元婚約者の……。
しかし、本当に婚約破棄されたのだろうか。そんな悲しいことがあったとは思わせないくらいライリーは明朗で、テーブル上にある本を見ては「女性史か……。歴史の本なんて難しくて、脳筋な俺にはさっぱりだな」とおどけたりしている。「我が家の料理人の腕は天下一品だから楽しみにしていろ」なんて、明るくは振舞えないわたしを元気づけるような言葉も投げてくれて……。
もしかして、ライリーはエレノアのことを愛してはいなかったのだろうか。それなら合点がいくけれど……だったら、エレノアがディモスをライリーに任せるとは思えない。ディモスは、飛竜の姫であるエレノアを護衛すべき戦士だ。守り切れなかった場合どうなるのか……それを案じたエレノアは、ディモスもフォボスと共に亡くなったことにしてライリーの従者にしてほしいと願い出たのだった。ライリーのことを信用していなければ、婚約破棄した上で友人を任せることなんてできない。ライリーだってエレノアを愛しているし、エレノアも彼からの愛を感じていたのだろう。
そう思うと、今退室しようとしているライリーの背中が寂し気に見えた。
「ライリー!」
脊髄反射の如く、無意識のうちに呼び止めてしまった。振り返るライリーの顔はやや驚いている。――どうしよう、なんて話しかけていいのかわからない。明言はしないけれど、ライリーが今ここにいてわたしもエイデンもライリー邸で夕食をとるということは、宴は中止になったということだ。そりゃあそうだ。飛竜王の誕生を祝う宴といえど、一国の姫が襲われたとなっては開催するわけにはいかない。だから、無邪気に「宴はなくなったんですか?」なんて聞けるはずもなく……。エレノアの名前を出すわけにもいかないし……。
「俺は幸せもんでな」
わたしがもじもじとしているからか、突然ライリーが語り出した。
「ガキの頃から両親や兄弟に愛されて育ってきたし、幸いにも好きな女と婚約することもできた。王の信頼を得て宮廷では重要なポストを任されて……だから、どんなことがあっても折れない。たとえ、大切な宝を一つ失くしたとしても立ち直れる。そういう自信がある」
彼の眼差しは明るく、そして強い。確かに、何があっても折れないというような意思を感じる。
「だがな、そうじゃない奴もいる。たった一つの大切な物を失くしたら……ぽきっと折れてしまう奴も」
どうしてだろう。一瞬、エイデンの顔が浮かんだ。星空の下で寂しそうに自分の瞳が嫌いだという彼。襲われたエレノアを見て怒りを爆発させた後、まるで小さな子どものように嗚咽を漏らしながら泣く彼。
「友人として、近くで支えてやってくれないか」
ライリーは固有名詞を口にはしないけれど、誰のことを言っているのかわかる。今後、わたしもエイデンもお互いにどう生活していけばいいのかわからないけれど……躊躇う必要なんてない。ライリーの申し出に縦に首を振って応える。そして、エイデンに関する疑問について聞くのは、今この時だと思う。わたしは、再度退室しようとするライリーの袖を掴んだ。そして、小声で言う。
「エイデンは……どうして、一人離れで暮らしていたの?」
「ああ……。そうか、知らないのか」
ライリーは何事か考えた後、わたしに少しここで待っているよう告げて退室する。数分後に戻ってきたライリーはこの部屋の近くに誰も来ないよう申し伝えてきたのだと言い、椅子に腰を掛ける。わたしもその対面にある椅子に腰を掛ける。どうやら、話は少々長くなりそうだ。
飛竜国には7人の王子と1人の王女がいるらしい。王の妃は4人おり、最年長であり最初の妃がエレノアとエイデンの母親にあたる女性だそうだ。最初の妃ではあるものの、体が弱くてなかなか妊娠できなかったのでエレノアは兄弟の中で2番目に若くエイデンは末子になったのだそうだ。
エレノアとエイデンの母は飛竜王からもっとも愛された女性だった。そして遅くの子どもであることもあり、エレノアもエイデンも飛竜王に大変可愛がられて育った。
しかしある時、エイデンの竜体の育ちの遅さに周囲が異変を感じ始める。飛竜族は人体と竜体の育ちのスピードは一緒だ。人体が少年の大きさならば竜体も少年の大きさであり、人体が成体となれば竜体も成体となる。それなのにエイデンは、人体が14,5歳の姿になっても竜体は7,8歳の姿のままだった。初めこそ異母兄達にからかわれる程度だったものの、人体が17,8歳になる頃には臣下達も眉を顰めるようになっていった。そして、どこかから噂が流れ始める。エイデンの父親は飛竜王ではなく人間なのではないか、と。
魔獣族と人間の間に生まれた子どもは半獣と呼ばれる。どの種族であっても獣の姿は幼いままであり、魔法の力も弱いとされている。エイデンが半獣と噂され始めたのには竜体の姿が幼いせいもあるが、彼の誕生の前から流れていた別の噂も起因している。
その「別の噂」とは、エイデンの母がとある人間の男と親しくしており、男女の関係にあるのではないか、というものだ。その人間の男は約100年前、重傷を負った状態で飛竜国に逃げ込んできた。どうやらエイネブルームで迫害を受けていたらしく、エイデンの母の提案で飛竜国で匿うこととなった。その男は異界に関する知識が豊富で、異界への関心が強いエイデンの母との交流が増えていった。その最中でエイデンの母がエイデンを懐妊したのだから、タイミング的にその人間の男が父親でもおかしくはない。
「そっか。災いを呼ぶとか合いの子とか、そういうことだったんだ……」
「災いを呼ぶ、というのは、エイデンが謁見の間で話していたと思うが……合いの子というのは?」
ライリーにそう尋ねられたので、エレノアとエイデンの異母兄に言われたのだと答える。宮廷の廊下で遭遇した異母兄は、終始エイデンを揶揄するような物言いで……思い出すだけで反吐が出そうになる。
「何か揉めているようだったから彼を飛竜王のもとへ向かわせたが、そんな話をしていたのか。ったく。兄と慕ってくれたエイデンをイジメて、何が楽しい」
ライリーは吐き捨てるようにそう言った。随分いいタイミングに来てくれたとは思っていたけれど、どうやら飛竜王が呼んでいるというのは嘘だったらしい。エイデンやエレノアを守る為の嘘。そう思うと、彼が更に頼もしく見えてくる。ただ……あの後、あの異母兄に嫌味を言われてなきゃいいけど……。
「でも、タイミングや竜体が幼いだけで決めつけるのって早合点ですよね。DNA検査とかしたんですか?」
「でぃー、えぬ、えー?」
あ、しまった。異世界ではさすがにDNA検査なんてハイテクなものはないわよね。
「えーっと、君が言っているそれはよくわからないが……瞳だよ」
瞳。脳裏にエイデンのシーエメラルドの瞳が思い浮かぶ。
「エイデンもその人間の男によく懐いていた。だから、知ってるんだよ。瞳が同じだって」
「その男の人も、綺麗なシーエメラルドの瞳をしていたってこと?」
ライリーが頷くのを見て、わたしはエイデンの気持ちを更に深く理解した。不義の子どもと噂されている自分の瞳が父以外の男性とよく似ているとなれば、父が自分の目を嫌っていると思い込んでしまうのも仕方ないだろう。
星空の下、とても寂し気だったエイデンの横顔が思い浮かぶ。今すぐにでも抱きしめたくなる。
「噂が過熱した末、その男は国外へ追放された。決めたのは王じゃなく、民が追い出した。酷いもんだよな。もう余命いくばくもない老体なのによ」
そしてエイデンの母も病に倒れ、エイデンは独りだけ後ろ指を指されるようになった。どんな時もエレノアはエイデンの味方で異母兄や臣下達から守ってきたけれど、彼女の細腕では守るにも限界があり……エイデンはどんどん暗く淀んだ瞳をするようになっていった。だから、一人離れて暮らすことになったらしい。それが今から10年程前のこと。
ん? エイデンって、人体は20歳くらいに見えるんだけど……10年前から1人暮らしなの? それに、エイデンの母親と父親と思われる人間が親しくしていたのは100年前? この世界の人間って、わたしがいた世界とは時の流れや年齢の概念が違うのだろうか。話を遮っちゃいけないと流していたけれど、気になったわたしはその辺をライリーに尋ねてみた。
どうやら1年は365日あるらしく、その点は地球と一緒だ。人間の寿命も80歳が平均だけど、長寿な人は150歳くらいまで生きるのだとか。まあ、寿命に関しても地球と大きな差はなさそう。だけど、魔獣族は成長や老いがゆるやからしく、5年で1歳成長または老いるイメージなのだとか。つまり、20歳に見えるエイデンは100歳くらいということだ。
長く生きられるのも老いがゆるやかなのも羨ましいけれど、辛いことも長くなると考えると複雑だなぁ。
「エレノアは」
ライリーの口から元婚約者の名前が飛び出た。その響きがどことなく切なげでわたしの胸もきゅんと痛む。
「この期に及んでも……いや、こうなってしまったからこそ、エイデンの味方でいよう近くにいようとするだろう。でも、エイデンがそれを拒むと思う。――だから、ヒカリにエイデンの近くにいて欲しいと思う。兄がわりからの願いだ」
ライリーの真っ直ぐな眼差しを受けたわたしは、こくりと頷いた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
ライリーが客室から退室して数十分後、使用人の女性が二人分の食事を運んできた。その後エイデンがやって来て、2人で食事を始める。わたしはディモスの容態が気になったけれど、彼女は未だ深い眠りについている。
あんなことがあったのだから当然だけど、エイデンの表情が硬い。いつもなら柔和な笑みを浮かべながらその日あったこととか明日何をするとか話しかけてくれるのに、ずっと押し黙ったまま。
何を話せばいいのだろう。宮廷でどんなことがあったかなんて聞けるはずないし、家が壊されたけどこれからどうするのかなんても聞けない。どんな話をしてもエレノアが襲われたことに繋がる気がするし、まったく関係ないこともそれはそれで話題にしにくい。
わたしって、無力なんだな。こうやって落ち込んでる友人を励ますことすらできないし、そもそも力があればあの太った男達に利用されることもなかった。彼らに利用されなければ……一緒に脱獄しなければ、エレノアが被害に遭うこともなかった。この家族の幸せを壊すこともなかったのに……。そう思ったら、食べた物が胃からこみ上げてくるような感覚がしてしまう。
食事を終えると、エイデンは自身の宿泊する客室へと戻った。従者が食事の片づけを終えわたしも寝る準備を整えたのでベッドに潜り込んだ時、ディモスが目を覚ます。彼女は何が起きているのか理解できていないようだけれど、今はまだ説明をするには早いだろう。痛いところがないかとか欲しいものがないかとか尋ねてみる。すると水が飲みたいと言うので、わたしは水を求めて客室から出る。日中ずっと冷やしていたおかげか、右足の痛みはだいぶ引いており幾分歩きやすくなっている。
燭台の明かりが灯る廊下は温かな明るさがあるものの、シンとした静けさがあって怖い。明るい時間帯に通った時は人気があるからかもっと賑やかな印象があったのに……違う場所のように感じる。どうやら2階にはもう従者がいないようなので、階段を下りる。このまま従者を捕まえられなければ、自分で水を汲んで持っていこう。
角をいくつか曲がったところで、食堂らしき扉の前に着いた。扉を開こうとしたところで、その扉の向こうで誰かが話していることに気づいた。扉はわたしが触る前から少し開いていたようで、中を見ることができる。そぉっと覗き込むと、椅子に座っている2人の男性の姿が見えた。身なりが良いように見えるので、従者ではなくもう一組の客人だろう。金髪の彼と銀髪の彼の後姿に見覚えがある気がするんだけど……っと、彼らの対面に座るライリーと目が合いそうになって、わたしは扉の隙間から体を離す。
どうやらライリーはわたしに気づいていないようで、会話を続けている。どうも、今宵の宴が中止になった理由について話しているようだ。すると客人のどちらかが、エレノアの精神状態について問いかけている。ライリーが言い淀んだのを見てか、客人のもう一方が「差し出がましいぞ」と連れのことを制している。制した客人の方が声音が低い。
「俺の国には、忘却の魔法があってね」
先程エレノアの精神状態について尋ねた、声の高い方の客人がそう言った。そして、続ける。
「それは、とある魔女にしか使えないんだよ。とても気難しいとか女の子の血を浴びて若さを保ってるとか悪い噂も聞くけど……果たして、本当に悪い魔女なのかどうか。お願いすれば、快く助けてくれるかも」
「おいそれって」
低音ボイスの客人がそう突っ込むと、高音ボイスの客人がけらけらと笑う。
「うん。イバラテイの魔女だよ」
イバラテイの魔女。わたしがこの世界に来てからの数日間、一番聞いたかも知れない固有名詞。その名で呼ばれるたびにわたしは傷つき怖い思いをしてきたけれど、もしかしたらその人が奇跡を起こしてくれるかもしれないなんて!
わたしは思わず、駆け出していた。ガタンっと椅子の倒れるような音とライリーの声が聞こえた気がしたけれど、今はそんなことどうでもいい。わたしはいくつかの客席の扉を開けて、ようやくエイデンの宿泊する客室を見つける。
瞠目するエイデンに抱き着いて、わたしはとある提案をする。
「イバラテイの魔女を探しに行きましょう!」
絶望の先に光明が見つけられて気がして、わたしの小さな胸が高鳴る。




