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9/30

旅の宿にて、君は近すぎる

「ちょっとだけ、近くにいてください」


 ロキシーはそう言った。


 月影荘。


 夜十時を少し回った頃。


 薄暗い和室には、座卓と二組の布団。


 窓の外からは川の音が聞こえている。


 そして。


 浴衣姿のロキシーが、朗のすぐ隣に座っていた。


「……近くって」


 朗は少し身体を引いた。


「これくらい?」


「遠くなりました」


「いや、これでも十分近いと思うけど」


「足りません」


「何が」


「安心感」


「数値化できるの?」


「できます」


「できるんだ」


 ロキシーは真顔で頷いた。


「今、三十パーセント」


「低いな」


「もう少し近づけば七十パーセント」


「どういう計算だよ」


「そして」


 ロキシーが。


 すっと身体を寄せてきた。


「これで九十パーセント」


「近い!」


 肩。


 腕。


 身体が触れる。


 朗は反射的に後ろへ逃げようとした。


 だが。


「逃げないで」


 浴衣の胸元を掴まれた。


「……」


 動けない。


 ロキシーは顔を上げる。


 温泉上がりの頬が少し赤い。


 青い瞳。


 長い金髪。


 いつもの大学で見る彼女とは、雰囲気が違う。


「アキラ」


「何」


「顔、赤いです」


「温泉のせい」


「もう一時間前ですよ」


「部屋が暑い」


「涼しいです」


「……」


 逃げ道が全部塞がれる。


 ロキシーが小さく笑った。


「アキラ、嘘が下手ですね」


「君が近すぎるんだよ」


「タイトルみたいですね」


「何のタイトルだ」


「私たちのお話」


「そんなものない」


「残念」


 ロキシーは笑った。


 でも。


 その表情はすぐ、少しだけ寂しそうなものに変わった。


     ◇


「……今日」


 ロキシーが言う。


「二〇三号室に入ったとき、本当は怖かったです」


「うん」


「エリザベスの宿泊カードを見つけたときも」


「ああ」


「手紙を読んだときも」


 ――もし私が今夜戻らなかったら。


 ――大学を信じないで。


 ――葛城先生を信じないで。


 ――そして、写真を守って。


 朗も思い出す。


「なんだか」


 ロキシーは膝の上で手を組んだ。


「エリザベスが、急に他人じゃなくなった気がしました」


「同じ留学生だから?」


「それもあります」


 少し考える。


「でも」


 ロキシーが朗を見る。


「十九歳でしょう?」


「ああ」


「知らない国へ一人で来て」


「うん」


「知らない文化を勉強して」


「うん」


「好きなものを追いかけていた」


 ロキシーは小さく息を吐く。


「私とあまり変わらない」


 朗は黙って聞いた。


「もし私だったら」


「……」


「怖かったと思います」


「ロキシーでも?」


「私でもです」


「君、何でも突っ込んでいくから」


「それと怖くないことは違います」


「そっか」


「はい」


 少し沈黙。


 川の音。


 風。


 古い旅館の柱が、どこかで小さく鳴った。


 ロキシーが朗の袖を掴んだ。


「……また音」


「古い建物だから」


「幽霊?」


「言うな」


「アキラも怖い?」


「だから得意じゃないって」


 ロキシーが少し笑う。


 そして。


 朗の肩へ頭を預けた。


「……ロキシー?」


「少しだけ」


「さっきから少しだけが長い」


「日本人は細かいです」


「国民性にするな」


「でも」


 ロキシーは離れない。


「こうしてると、本当に安心します」


 朗は。


 何も言えなくなった。


     ◇


 数分間。


 二人とも黙っていた。


 朗にとっては数時間くらい長く感じた。


 心臓がうるさい。


 絶対聞こえている。


 そう思う。


「アキラ」


「何」


「心臓、速いですよ」


「……聞こえる?」


「はい」


「最悪だ」


「どうして?」


「恥ずかしいから」


「私は嬉しいです」


「なんで」


 ロキシーが頭を上げる。


 目が合う。


「私だからでしょう?」


「……何が」


「ドキドキしてるの」


 朗は答えられない。


「違います?」


「……」


「アキラ」


「君さ」


「はい」


「そういうこと、真正面から聞く?」


「聞きます」


「普通聞かない」


「日本人は?」


「少なくとも僕は聞かない」


「だから」


 ロキシーが笑った。


「私が聞きます」


 また少し顔が近づく。


 朗は思わず後ろへ下がる。


 布団。


 背中が壁に当たった。


 逃げ場。


 なし。


「ロキシー」


「はい?」


「近い」


「知っています」


「分かってやってる?」


「もちろん」


「質が悪い」


「アキラが逃げるからです」


「普通逃げるだろ」


「どうして?」


「だって」


 朗は言葉に詰まる。


「女の子がこんな近かったら……」


「女の子だから?」


「そう」


「私だからではなく?」


 まただ。


 逃げ道を塞ぐ質問。


「……」


「アキラ?」


「ロキシーだから」


 小さな声。


 でも。


 聞こえた。


 ロキシーの目が少し大きくなる。


「もう一回」


「言わない」


「聞こえませんでした」


「絶対聞こえた」


「聞こえません」


「嘘つけ」


 ロキシーが笑った。


 だが。


 その頬は朗より赤かった。


     ◇


「アキラ」


「何」


「一つ聞いていいですか?」


「内容による」


「私が」


 少し間。


「日本に一年しかいないこと、知っていますよね」


「……うん」


 交換留学。


 一年間。


 当然。


 最初から分かっていた。


「来年には帰ります」


「そうだな」


「寂しい?」


 以前にも聞かれた。


 そのとき。


 朗は「かなり」と答えてしまった。


「……寂しいよ」


 今回は。


 逃げなかった。


 ロキシーが静かになる。


「かなり?」


「かなり」


「……」


「何だよ」


「嬉しいです」


「帰る話で嬉しそうにするな」


「違います」


 ロキシーが小さく笑う。


「アキラが寂しいと思ってくれることが」


 その笑顔を見て。


 朗は思う。


 もしかしたら。


 これはもう。


 自分が勝手に勘違いしているとか。


 外国人だから距離感が違うとか。


 そういう話ではないのかもしれない。


 ロキシーは。


 自分を。


 でも。


 口に出す勇気はなかった。


 まだ。


     ◇


「ところで」


 朗は話題を変えた。


「二〇三号室で気になったことがある」


 ロキシーが頬を膨らませる。


「逃げました」


「事件の話」


「アキラはすぐ事件に逃げます」


「逃げてない」


「さっきまで良い雰囲気だったのに」


「言うな!」


「はいはい」


「日本語うまくなったよな……」


「アキラのおかげです」


「そう?」


「特に悪い言葉」


「教えた覚えない」


 ロキシーが笑う。


「それで?」


「あの手紙」


 朗はスマートフォンに撮っておいた画像を開いた。


 エリザベスの手紙。


「ここ」


「写真を守って?」


「その前」


 ロキシーが英文を見る。


「Do not trust Professor Katsuragi」


「葛城先生を信じるな」


「ああ」


「それが?」


「ちょっと引っかかった」


「何が?」


「エリザベスは葛城と一緒に山へ行った」


「はい」


「でもその前に『葛城を信じるな』って手紙を書いてる」


 ロキシーの表情が変わる。


「分かっていて一緒に行った」


「そう」


「なぜ?」


「そこなんだ」


 朗は手紙を見る。


「騙されてついていったわけじゃない」


「自分から?」


「あるいは」


 朗は考える。


「何かを取り戻すため」


「写真?」


「可能性ある」


 消えた四枚。


 エリザベスは「写真を守れ」と書いた。


「葛城先生が写真を持っていた?」


「もしくは、写真に写った何かを消したかった」


 ロキシーが黙る。


「アキラ」


「何?」


「頭いいですね」


「急に褒めるな」


「本当です」


「偶然気づいただけ」


「また謙遜」


「違う」


「日本人らしい」


「それ第1話から言ってるだろ」


     ◇


 そのとき。


 コト。


 何かが鳴った。


 二人。


 同時に扉を見る。


「……今の」


 ロキシーが朗の腕を掴む。


「廊下」


 朗は立ち上がった。


「ここにいて」


「嫌です」


「じゃあ後ろにいて」


「はい」


 扉へ近づく。


 開ける。


 廊下。


 誰もいない。


「また?」


「待って」


 朗が下を見る。


 扉の前。


 一枚。


 何か落ちている。


「写真」


 古い白黒写真。


 朗は触らずにスマートフォンのライトを当てた。


 裏面。


 数字。


 218


「……二枚目」


 ロキシーが囁いた。


 消えた四枚。


 二一七。


 二一八。


 二一九。


 二二〇。


 その二枚目。


     ◇


 宮原教授と女将を呼び。


 安全を確認してから。


 写真を調べた。


 撮影時刻。


 十月二日。


 二十二時十六分。


 二一七番の写真から二十五分後。


 場所。


 山道。


 エリザベス。


 葛城宗一郎。


 そして。


「これ」


 朗が指差す。


 エリザベスの手。


 何かを持っている。


「箱?」


「小さいですね」


 木製の箱。


 資料を入れる箱のように見える。


 葛城は、それを渡せと要求しているような姿勢。


「拒んでる?」


 二一七番。


 裏面。


 ――She refused.


「これを渡すのを拒否した?」


「たぶん」


 さらに。


 写真の奥。


 石碑が写っている。


 ロキシーが文字を読む。


「月……姫?」


「月姫大神?」


 女将の顔色が変わる。


「月姫様」


「知ってるんですか?」


「山の祠です」


 やはり。


「どこに?」


 女将は。


 窓の外の山を見た。


「ここから歩いて一時間ほど」


「明日行けますか?」


 ロキシーが聞く。


「駄目です」


 女将が即答した。


「どうして?」


「道が荒れています」


「それだけ?」


「……」


「女将さん」


 朗が言う。


「何かあるんですよね」


 長い沈黙。


 やがて。


「五十年前」


 女将が答えた。


「エリザベスさんが最後に目撃された場所です」


     ◇


 深夜。


 調査はいったん終了した。


 明日。


 安全を確認した上で。


 月姫の祠へ向かう。


 ロキシーは自分の部屋へ戻ることになった。


 扉の前。


「アキラ」


「何?」


「今日はありがとう」


「何が」


「一緒にいてくれて」


「僕も一人だったら怖かったよ」


「本当?」


「本当」


 ロキシーが笑う。


 それから。


 少し迷って。


 朗へ近づいた。


 手を伸ばす。


 浴衣の胸元を軽く掴む。


「……ロキシー?」


「アキラ」


 顔が近い。


 さっきより。


 もっと。


「私」


 一瞬。


 言葉を止める。


 朗の心臓が跳ねる。


「日本に来て」


 青い瞳。


「アキラに会えてよかったです」


「……」


「本当に」


 朗は。


 答える。


「僕も」


「本当?」


「ああ」


「どのくらい?」


「それ聞く?」


「聞きます」


「……かなり」


 ロキシーが笑った。


「また『かなり』」


「便利なんだよ」


「もっといい言葉がありますよ」


「何?」


 ロキシーは。


 答えなかった。


 ただ。


 いたずらっぽく笑う。


「まだ教えません」


「なんだよ、それ」


「アキラが自分で言うまで」


 そして。


 ようやく離れる。


「おやすみなさい」


「おやすみ」


「夢で会いましょう」


「それ前も言ったな」


「今回は旅館編です」


「何編だよ」


 扉が閉まる。


 朗は一人。


 廊下に残った。


「……自分で言うまで、か」


 何を。


 とは。


 聞かなくても。


 たぶん分かっていた。


 でも。


 事件の謎より。


 それを口にするほうが。


 ずっと難しかった。


     ◇


 同じ頃。


 月影荘の外。


 暗い山道。


 一人の人物が。


 スマートフォンを耳に当てていた。


「二一八を渡した」


 電話の向こう。


 低い声。


『余計なことを』


「もう止められない」


『まだ二枚ある』


「……ああ」


『二一九だけは』


 声がさらに低くなる。


『絶対に、あの二人へ渡すな』


 人物は。


 暗い山を見上げる。


 その先。


 月姫の祠。


「遅いよ」


 小さく答えた。


「たぶんもう」


 月明かり。


「二人とも、真相のすぐ近くにいる」


第9話 旅の宿にて、君は近すぎる 了

挿絵(By みてみん)

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