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開かずの二〇三号室

 ――二〇三号室を開けてはいけない。


 その紙を見つけてから、十分ほど経っていた。


 けれど。


 高瀬朗は、まだ二〇三号室の前に立っていた。


 隣にはロキシー。


 少し離れて宮原教授。


 そして、月影荘の女将。


 誰も話さない。


 古い木造旅館の廊下に、夕暮れの光が差し込んでいた。


 つい先ほど。


 確かに。


 この部屋のドアノブが動いた。


 内側から。


「……女将さん」


 朗が口を開く。


「本当に、この部屋は使ってないんですよね?」


「ええ」


「鍵もない?」


「そう聞いております」


「でも」


 ロキシーが扉を見る。


「中で音がしました」


 女将は答えない。


 顔色が悪い。


 宮原教授が穏やかな声で言った。


「無理に話していただく必要はありません。ただ、安全確認はしたほうがいいでしょう」


「……そうですね」


 女将はしばらく迷った末、頷いた。


「合鍵を探してみます」


「鍵はないんじゃ?」


 朗が尋ねる。


「今使っている鍵がない、という意味です」


 女将は小さく息を吐いた。


「昔のマスターキーなら、残っているかもしれません」


 朗とロキシーが顔を見合わせた。


「あるんじゃないですか」


 ロキシーが言う。


「ロキシー」


「だって」


「今は責めるところじゃない」


「はい」


 女将は何も言わず、階段を降りていった。


     ◇


「アキラ」


「何?」


「さっきの音」


「ああ」


「人ですか?」


「分からない」


「動物?」


「旅館の二階だぞ」


「猫」


「可能性はあるけど」


「幽霊」


「それは考えない」


「どうして?」


「今夜寝られなくなる」


 ロキシーが朗の袖を掴んだ。


「アキラも幽霊怖い?」


「得意ではない」


「よかった」


「何が」


「同じです」


「喜ぶところ?」


 ロキシーは少し笑った。


 その笑顔を見て、朗も少し緊張が緩んだ。


 事件が始まってから。


 怖いときほど、ロキシーは冗談を言う。


 最近になって。


 ようやくそれが分かってきた。


     ◇


 十五分後。


 女将が古びた鍵束を持って戻ってきた。


「ありました」


 鉄製の大きな鍵。


「かなり昔のものですね」


 宮原教授が言う。


「祖父の代から使っていたものです」


「女将さんのお祖父さん?」


「はい」


 ロキシーが反応する。


「五十年前の女将さんですか?」


「主人でした」


 女将は鍵を握る。


「当時、私は十二歳でした」


 朗は女将を見る。


「エリザベスを覚えているんですね」


 沈黙。


 そして。


「覚えています」


 初めて。


 女将がはっきり認めた。


「きれいな人でした」


「どんな人?」


 ロキシーが尋ねる。


「明るくて、日本語を一生懸命話して」


 女将の口元に、かすかな笑み。


「私にもよく話しかけてくれました」


「私みたい?」


 ロキシーが聞く。


 女将は彼女を見る。


「……少し」


 その答えに。


 ロキシーは嬉しそうな顔をした。


 だが。


 女将の笑顔はすぐ消えた。


「だからこそ」


 鍵を見つめる。


「今でも忘れられないんです」


「何を?」


 朗が聞いた。


 女将は答えず。


 二〇三号室の鍵穴へ鍵を差した。


 ギィ。


 錆びた音。


 回らない。


 もう一度。


 ガチャ。


「固いですね」


 宮原教授が言う。


 女将が力を込める。


 ガチャン。


 鍵が回った。


 その瞬間。


 ロキシーが朗の腕を掴んだ。


「……」


「大丈夫?」


「はい」


「握りすぎ」


「少し我慢してください」


 女将が扉へ手をかけた。


 ゆっくり押す。


 ギィィィ――。


 五十年間。


 誰も入っていなかったという部屋が。


 開いた。


     ◇


「……普通?」


 ロキシーが呟いた。


 朗も同じことを思った。


 六畳ほどの和室。


 古い座卓。


 布団。


 箪笥。


 壊れた扇風機。


 段ボール箱。


 埃は積もっている。


 だが。


 想像していたような異様なものはない。


「物置ですね」


 宮原教授が言う。


 女将は頷いた。


「父の代から、古いものを置いていました」


 朗は部屋の中を見る。


「さっき音がしたなら」


 何か落ちているはず。


 全員で確認する。


「これでは?」


 教授が指差した。


 床。


 小さな木箱。


 棚から落ちたらしい。


「これが音?」


「可能性はあるね」


 朗は棚を見る。


 確かに、木箱が置かれていたと思われる跡がある。


「でも」


 ロキシーが言う。


「どうして今落ちたんでしょう」


 誰も答えられない。


 風?


 振動?


 偶然?


 それとも。


     ◇


 箱の中には。


 古い旅館の備品が入っていた。


 鍵。


 帳簿。


 便箋。


 マッチ箱。


 絵葉書。


「あ」


 ロキシーが一枚の葉書を手に取ろうとする。


「触るなって」


「忘れてました」


「忘れるな」


 宮原教授が手袋を借り。


 中身を一つずつ取り出した。


「昭和のものだね」


「旅館の昔の絵葉書」


「こっちは宿泊カード」


 朗が反応する。


「宿泊カード?」


 紙束。


 宿泊者が住所や名前を書いたもの。


「五十年前の?」


「年代はそのくらいだろうね」


 ロキシーが目を輝かせる。


「エリザベス!」


「探してみよう」


 女将も止めなかった。


 むしろ。


 どこか覚悟を決めたような顔をしていた。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 日本人名。


 学生。


 会社員。


 家族。


 そして。


「あった」


 朗の声が低くなる。


 英字。


 Elizabeth Walker


 大学名。


 年齢。


 十九歳。


「本人だ」


 ロキシーが息を呑む。


 宿泊日。


 十月一日。


 退館予定。


 十月三日。


「普通なら三日に帰る予定だった」


 朗が言う。


「はい」


「でも大学では十月十二日に帰国したことになってる」


「九日あります」


「その間、何があった?」


 宿泊カードの端。


 赤い鉛筆で。


 小さな印。


 203


「この部屋」


 ロキシーが呟いた。


     ◇


「女将さん」


 朗が尋ねる。


「エリザベスは、この部屋に泊まったんですよね」


「はい」


「十月三日に出ました?」


 女将は。


 長い間黙っていた。


 やがて。


 首を横に振った。


「いいえ」


 朗の心臓が跳ねる。


「いつ?」


「十月二日の夜」


 ロキシーが息を呑んだ。


 写真の日。


「どこへ?」


「分かりません」


「一人で?」


 女将の目が揺れる。


「……男性と」


「誰です?」


 朗が聞く。


「久世誠一?」


「違います」


 意外な答え。


「では誰?」


「知りません」


「写真に写っていた中年男性?」


 女将が朗を見る。


「写真?」


 朗はスマートフォンに保存していた二一七番の画像を見せる。


 女将の顔色が変わった。


「この人」


 ロキシーが中年男性を指す。


「知っていますか?」


 女将は震える指でスマートフォンを持った。


「……葛城さん」


「葛城?」


「大学の先生だったはずです」


 二人が顔を見合わせる。


「名前は?」


「葛城……」


 女将は記憶を探る。


「葛城宗一郎さん」


 朗はすぐにメモする。


「その人とエリザベスが?」


「夜、二人で旅館を出ました」


「久世誠一は?」


「あとから追いかけました」


 朗の背筋が冷たくなる。


「どこへ?」


 女将が窓を見る。


 その向こう。


 山。


「山です」


     ◇


「月の姫の祠」


 女将が言った。


「山の中にあります」


 ロキシーが聞く。


「エリザベスは、その祠を調べていた?」


「はい」


「葛城先生も?」


「分かりません」


「その夜、何があったんです?」


 女将は答えない。


「見ていないんですか?」


「私は旅館にいました」


「では翌朝?」


 女将の表情が歪んだ。


「久世さんだけが帰ってきました」


 部屋が静まり返る。


「エリザベスは?」


 朗が聞く。


「帰ってきませんでした」


「葛城は?」


「その人も」


「警察には?」


「大人たちが何か話していました。でも私は子どもでしたから」


「事件にならなかった?」


 女将は頷く。


「数日後、エリザベスさんは帰国したと聞かされました」


 朗の脳裏。


 展示ケースの文字。


 ――She did not go home.


 彼女は帰国していない。


「女将さん」


 ロキシーが真剣な声で言う。


「あなたは、信じていないんですね」


「え?」


「エリザベスが帰国したって」


 女将は。


 目を伏せた。


「信じられませんでした」


「どうして?」


 震える声。


「あの人」


 一度止まり。


「荷物を全部、この部屋に置いたままだったんです」


     ◇


 朗は周囲を見る。


「荷物?」


「ええ」


「今も?」


「いいえ。大学の人が後で持っていきました」


「誰が?」


「覚えていません」


「葛城先生?」


「違います」


 教授が尋ねる。


「久世誠一さんですか?」


 女将は首を振る。


「違いました」


「では?」


「知らない大人が二人」


 大学関係者。


 おそらく。


 何かを隠した。


「だからこの部屋を閉じたんですか?」


「父が」


「なぜ?」


「二度と貸すな、と」


「理由は?」


「教えてくれませんでした」


     ◇


「でも」


 ロキシーが部屋を見回す。


「全部持っていったんですよね?」


「はい」


「ではこれは?」


「?」


 ロキシーが壁際を指差す。


 古い箪笥。


 床との隙間。


 何か白いものが見える。


 朗も気づいた。


「紙?」


 教授が慎重に箪笥を少し動かした。


 一枚。


 いや。


 封筒だった。


 埃まみれ。


 明らかに古い。


 女将が息を呑む。


「こんなもの……」


 封筒の表。


 英語。


 ロキシーが読む。


「To Seiichi」


「誠一へ」


 久世誠一。


 差出人。


 Elizabeth


 全員。


 動けなくなった。


「手紙……」


 朗が呟く。


 エリザベスが。


 久世誠一へ書いた手紙。


 五十年間。


 この部屋の箪笥の下に残っていた。


     ◇


 宮原教授が慎重に封筒を開いた。


 便箋。


 英語。


 ロキシーが読む。


 途中。


 彼女の表情が変わった。


「どうした?」


 朗が聞く。


「これ……」


「何が書いてある?」


 ロキシーは。


 ゆっくり訳した。


「誠一へ」


 声が静かになる。


「もし私が今夜戻らなかったら」


 朗の呼吸が止まる。


「大学を信じないで」


「……」


「葛城先生を信じないで」


 女将が口元を押さえる。


 ロキシーは続ける。


「そして」


 文章の最後。


 彼女は。


 朗を見る。


「写真を守って」


 朗は息を呑んだ。


 四枚の写真。


 二一七。


 二一八。


 二一九。


 二二〇。


「エリザベスは」


 ロキシーが言う。


「写真を撮られていることを知ってた」


「あるいは」


 朗が答える。


「何かが起きることを予想していた」


     ◇


 そのとき。


 部屋の外。


 ギシ。


 床が鳴った。


「誰かいる!」


 朗が振り返る。


 廊下へ飛び出す。


「アキラ!」


 ロキシーも続く。


 廊下の突き当たり。


 人影。


 黒い服。


「待って!」


 相手が走る。


「ロキシー、来るな!」


 朗が追う。


 階段。


 一階。


 玄関。


 外。


 夕暮れ。


 だが。


 人影は。


 温泉街の雑踏に消えた。


「くそ……」


 朗は息を整える。


「アキラ!」


 ロキシーが追いつく。


「怪我は?」


「ない」


「勝手に追わないでください!」


「君に言われたくない!」


 二人。


 数秒。


 そして。


 同時に笑ってしまった。


「何笑ってるんだよ」


「アキラが私みたいだから」


「似たくなかった」


「嬉しいです」


「僕は複雑だよ」


     ◇


 旅館へ戻ると。


 宮原教授と女将が待っていた。


「これ以上は警察にも相談したほうがいい」


 教授が言う。


 朗も頷いた。


「そう思います」


 もう。


 学生の好奇心だけで済む段階ではない。


 五十年前の失踪。


 現在の脅迫。


 監視。


 そして手紙。


 誰かが今も。


 過去を隠そうとしている。


     ◇


 夕食。


 事件の話は一度置いておくことになった。


 ゼミ生たちには詳しい事情を伝えていない。


 山菜。


 川魚。


 ほうとう。


 ロキシーはすぐ元気を取り戻した。


「おいしい!」


「さっきまで怖がってた人とは思えないな」


「怖いのと、お腹が空くのは別です」


「強いな」


「アキラも食べてください」


「食べてるよ」


「これ」


 ロキシーが自分の皿から料理を朗の皿へ移す。


「自分で食べろよ」


「おいしいので分けたいんです」


「……ありがと」


 ロキシーが嬉しそうに笑った。


     ◇


 食事のあと。


「温泉!」


 事件があっても。


 そこは変わらなかった。


「行ってきなよ」


「アキラも」


「別々にな」


「分かってます」


 ロキシーは立ち上がる。


 そして。


 朗の耳元へ顔を近づけた。


「あとで部屋に行っていいですか?」


「は?」


「話したいことがあります」


「ここで話せば?」


「二人で」


「……事件の?」


 ロキシーは。


 少しだけ笑った。


「それも」


「“それも”って何だよ」


「秘密です」


 去っていく。


「……絶対ろくな予感しない」


 朗は呟いた。


     ◇


 一時間後。


 温泉から上がった朗は。


 浴衣姿で自室に戻っていた。


 髪を乾かし。


 布団の上に座る。


「……疲れた」


 今日だけで。


 情報が多すぎる。


 エリザベス。


 葛城宗一郎。


 山。


 手紙。


 写真。


 そして。


 誰かが今も二人を見ている。


 コンコン。


 扉。


「はい」


『アキラ』


 ロキシー。


 朗の心臓が。


 なぜか事件のときより大きく跳ねた。


「……どうぞ」


 扉が開く。


「お邪魔します」


 ロキシーが入ってくる。


 淡い花柄の浴衣。


 長い金髪。


 湯上がりで。


 頬が少し赤い。


「……」


 朗は固まった。


「アキラ?」


「何?」


「どうしました?」


「いや」


「顔、赤いですよ」


「温泉入ったから」


「私も入りました」


「……そうだね」


 ロキシーが笑う。


「隣、いいですか?」


「どうぞ」


 ロキシーが座る。


 近い。


 やっぱり。


 近い。


「アキラ」


「何」


「今日は怖かったです」


「……うん」


「だから」


 少しずつ。


 距離が縮まる。


「ちょっとだけ」


「何が?」


「近くにいてください」


 朗は。


 何も言えなかった。


 事件とは違う意味で。


 逃げ場がない。


 月影荘の夜。


 二〇三号室では。


 五十年前の秘密が開き始め。


 そして。


 別の部屋では。


 もっと厄介な何かが。


 少しずつ。


 始まろうとしていた。


第8話 開かずの二〇三号室 了

挿絵(By みてみん)

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