月影荘へ
五月最後の土曜日。
「アキラ!」
早朝の新宿駅。
人混みの向こうから、金色の髪が揺れた。
朗はすぐに見つけた。
というより。
見つからないほうがおかしい。
白いブラウスに薄い青のカーディガン。
小さなキャリーケース。
そして、やたらと嬉しそうな笑顔。
「おはようございます!」
「おはよう」
ロキシーは朗の前で立ち止まった。
「旅行ですね!」
「フィールドワーク」
「温泉ですね!」
「民俗調査」
「お泊まりですね!」
「そこ強調するな」
朗はため息をついた。
今日から一泊二日。
宮原教授のゼミによる山梨県での民俗調査。
参加者は教授を含め八人。
目的は山岳信仰と地域伝承の調査だった。
そして。
宿泊先。
月影荘。
五十年前。
エリザベス・ウォーカーたちが泊まった旅館。
「アキラ」
「何?」
「荷物少ないですね」
「一泊だし」
「私はたくさんあります」
「何持ってきたんだよ」
「服、化粧品、本、カメラ、お菓子」
「最後の二つ以外、調査に関係ない」
「浴衣の下に着るものも」
「言わなくていい!」
通勤客がこちらを見る。
ロキシーが笑った。
「朝から元気ですね」
「君のせいだよ」
◇
電車が都心を離れていく。
窓の外。
ビルが減り。
住宅地になり。
やがて山が見え始めた。
ロキシーは窓側に座りっぱなしだった。
「すごい」
「山なんて珍しい?」
「私の国にもあります。でも」
ロキシーは景色を見つめる。
「日本の山は、なんだか近いです」
「近い?」
「町と山の距離が」
確かに。
駅を出ればすぐ山。
集落の背後にも山。
「だから神様が山にいるって思ったんでしょうか」
「かもしれないな」
「面白いです」
ロキシーはノートを開いた。
真面目にメモを取っている。
「ちゃんと調査するんだ」
「失礼ですね」
「温泉の話ばっかりしてたから」
「温泉も大事です」
「研究対象ではない」
「アキラと入れば研究になります」
「ならない」
「残念」
「何が残念なんだよ」
向かいのゼミ生が吹き出した。
朗は窓の外を向いた。
恥ずかしい。
◇
二時間ほどして。
乗り換え。
さらにローカル線。
そしてバス。
山はどんどん深くなった。
「もうすぐです」
宮原教授が言う。
「このあたりは昔から山岳信仰が盛んでね。修験者が山へ入った記録も残っている」
ロキシーが身を乗り出す。
「先生、この地域に女神の伝承もありますか?」
「あるよ」
「本当ですか?」
「山姫信仰というべきかな。土地によって名前は違うけれど、山を女性神として扱う伝承は珍しくない」
朗が反応した。
第十二号。
民俗研究会報。
五十年前、エリザベスが調査していたテーマ。
――村に伝わる女性の神。
「先生」
「ん?」
「月影荘の近くにも、そういう伝承が?」
「よく知ってるね」
「少し調べました」
「昔、この地域には『月の姫』と呼ばれる山の神の話があったらしい」
ロキシーが朗を見る。
「月影荘」
「ああ」
「関係あります?」
教授が答える。
「旅館の名前は、その伝承に由来するとも聞いているよ」
朗はメモを取った。
また一つ。
五十年前の調査と月影荘がつながった。
◇
午後一時。
バスを降りる。
「わあ……」
ロキシーが声を漏らした。
小さな温泉町。
川。
石畳。
木造旅館。
山。
都心とはまるで違う。
「きれい」
「確かにな」
風が涼しい。
川の音。
どこかから温泉の匂いがする。
「アキラ!」
ロキシーがスマートフォンを取り出す。
「写真!」
「景色撮れば?」
「一緒に」
「僕も?」
「はい」
逃げる間もなく腕を掴まれる。
近い。
いつもの距離。
「もっと寄って」
「もう十分近い」
「笑ってください」
「無理」
「では私が笑わせます」
「何する気――」
ロキシーが突然朗の頬を指で押した。
「やめろ!」
シャッター。
「撮れました」
「今の消して」
「嫌です」
「絶対変な顔だろ」
「かわいいです」
「もっと消せ!」
◇
月影荘は温泉街の一番奥にあった。
古い木造三階建て。
何度か改修されているようだが、外観には昔の面影が残っている。
玄関には。
大きな木の看板。
――月影荘。
朗は足を止めた。
「写真と同じだ」
あの二一七番。
五十年前の写真。
改築はされている。
それでも。
玄関の形。
石段。
看板。
間違いない。
「ここです」
ロキシーも小さく言った。
「エリザベスがいた場所」
「ああ」
その言葉だけで。
急に空気が変わった気がした。
◇
「いらっしゃいませ」
旅館へ入る。
女将らしい高齢の女性が出迎えた。
「○○大学の皆様ですね」
「宮原です。お世話になります」
「お待ちしておりました」
柔らかな笑顔。
だが。
ロキシーを見た瞬間。
女将の表情が止まった。
「……」
ほんの一瞬。
だった。
でも。
朗は見逃さなかった。
「どうしました?」
ロキシーが聞く。
「いいえ」
女将はすぐ笑顔に戻った。
「失礼いたしました」
「?」
「昔、こちらにいらしたお客様に少し似ていたものですから」
朗とロキシーが顔を見合わせた。
「外国人ですか?」
ロキシーが聞く。
女将は一瞬だけ迷った。
「……ええ」
「エリザベス・ウォーカー?」
女将の顔から笑顔が消えた。
教授たちは先へ進んでいる。
玄関には三人だけ。
「その名前を」
女将が低い声で聞く。
「どこで?」
「大学の資料です」
ロキシーが答えた。
女将はしばらくロキシーを見つめていた。
「そうですか」
それ以上は何も言わない。
「知っているんですか?」
朗が尋ねる。
「五十年前ですから」
女将は視線を逸らした。
「私はまだ子どもでした」
それだけ。
だが。
明らかに何か知っている。
◇
部屋割りが発表された。
「男子は二〇五、二〇六」
宮原教授が名簿を見る。
「女子は二〇八、二〇九」
朗は少し安心した。
すると。
「アキラ」
「何」
「残念ですね」
「何が」
「同じ部屋じゃありません」
「当たり前だ!」
ロキシーが笑う。
「冗談です」
「絶対半分くらい本気だろ」
階段を上がる。
二階の廊下。
木の床。
古い柱。
そして。
朗は立ち止まった。
「……二〇三」
一室だけ。
木札が古い。
他の部屋と違う。
「アキラ?」
ロキシーも見る。
扉の前には。
小さな札。
――使用禁止。
「ここ」
ロキシーが囁く。
「もしかして」
朗も思い出した。
五十年前。
エリザベスが泊まった部屋。
二〇三号室。
なぜ。
今も使われていない?
「何してるの?」
仲居が声をかけてきた。
「あ、すみません」
朗が聞く。
「この部屋って使ってないんですか?」
仲居が二〇三号室を見る。
「そこはずっと物置ですよ」
「いつから?」
「さあ……私が働き始めた頃にはもう」
「何年くらい前ですか?」
「二十年以上」
ロキシーが聞く。
「中、見られますか?」
「無理ですよ」
「どうして?」
「鍵がありませんから」
「鍵が?」
「昔なくしたって聞いてます」
仲居は笑った。
「古い旅館だから、そういう部屋もあるんですよ」
そう言って去っていった。
ロキシーと朗は扉を見る。
「鍵がない」
「二十年以上開けてない?」
「本当かな」
「怪しいですね」
「勝手に開けるなよ」
「まだ何もしてません」
「“まだ”って言うな」
◇
午後。
ゼミの調査が始まった。
近くの神社。
古い石碑。
山岳信仰の聞き取り。
ロキシーは驚くほど真面目だった。
「この祭りはいつから?」
「山へ女性が入れなかった時代は?」
「月の姫のお話は?」
地元の老人たちへ積極的に質問する。
「君、本当にこういうの好きなんだな」
帰り道。
朗が言った。
「はい」
「普段と全然違う」
「普段も真面目です」
「どこが」
「恋愛には特に真面目です」
「聞いてない」
ロキシーが笑う。
◇
夕方。
一行は旅館へ戻った。
「夕食まで一時間あります」
ロキシーが言う。
「温泉?」
「正解」
「行ってらっしゃい」
「アキラも行きます?」
「男湯にな」
「壁越しに話しましょう」
「迷惑だからやめろ」
「ではあとで浴衣で会いましょう」
「なんで約束みたいになってるんだ」
「楽しみにしています」
走っていく。
「元気だな……」
朗は自室へ戻ろうとした。
そのとき。
廊下の奥。
二〇三号室。
「……ん?」
何か。
床に落ちている。
白いもの。
朗は近づいた。
紙。
古びてはいない。
新しい。
四つ折り。
「またかよ……」
触らずにロキシーを呼ぼうと思った。
その瞬間。
紙の表。
文字が見えた。
――高瀬朗へ。
「僕?」
自分の名前。
心臓が跳ねた。
◇
数分後。
ロキシー。
宮原教授。
旅館の女将。
そして朗。
四人で紙を確認した。
中には。
一行だけ。
二〇三号室を開けてはいけない。
女将の顔色が変わった。
「誰がこれを?」
朗が聞く。
「分かりません」
女将の声が震えていた。
「でも」
ロキシーが言う。
「どうして『開けてはいけない』なんですか?」
誰も。
開けると言っていない。
なのに。
誰かは。
二人がこの部屋に興味を持ったことを知っている。
「やっぱり」
朗が呟く。
「見られてる」
ロキシーも黙った。
そのとき。
廊下の奥から。
カタン。
小さな音。
全員が振り返る。
二〇三号室。
誰も触っていない。
なのに。
ドアノブが。
ゆっくり。
動いた。
「……え?」
ロキシーが朗の腕を掴む。
ガチャ。
もう一度。
内側から。
誰かが扉を開けようとしているように。
朗の背筋が冷たくなる。
「鍵……ないんですよね?」
女将は答えない。
顔が真っ青だった。
そして。
扉の向こうから。
かすかに。
何かが落ちる音がした。
コトン。
ロキシーが囁く。
「アキラ」
「うん」
「この部屋」
青い瞳が扉を見つめる。
「空じゃないです」
朗は答えられなかった。
夕暮れの月影荘。
五十年間閉ざされてきた二〇三号室。
そして。
その扉の向こうには。
誰かが隠してきた秘密が。
確かに存在していた。
第7話 月影荘へ 了




