月姫の祠
翌朝。
朗が目を覚ましたとき、障子の向こうはすでに明るかった。
「……朝か」
昨夜。
ロキシーが部屋に来て。
事件のことを話して。
それから――。
『私だからではなく?』
『……ロキシーだから』
「うわ……」
朗は布団を頭までかぶった。
思い出すだけで恥ずかしい。
自分で言った。
確かに言った。
「何やってんだ、僕……」
コンコン。
扉が鳴る。
「アキラ?」
「!」
本人だった。
「起きています?」
「お、起きてる!」
「朝ごはんですよ」
「今行く!」
朗は飛び起きた。
◇
食事処。
ロキシーは何事もなかったように朝食を食べていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
「眠れました?」
「まあまあ」
「私はよく眠れました」
「そう」
「アキラの夢も見ました」
「朝からやめて」
ロキシーが楽しそうに笑う。
「冗談です」
「……本当に?」
「半分」
「どっちだよ」
宮原教授が向かいの席から苦笑した。
「君たちは朝から元気だね」
「先生」
ロキシーがすぐ本題に入る。
「今日は月姫の祠へ行けますか?」
「ああ」
教授が頷く。
「女将さんと相談した。地元の案内人に同行してもらう」
「やった」
「ただし」
教授の表情が少し厳しくなる。
「昨日のこともある。勝手な行動は絶対にしないこと」
「はい」
ロキシーが素直に返事をする。
朗は横を見る。
「珍しい」
「私だって聞くときは聞きます」
「昨日一人で廊下を追いかけようとした人が?」
「アキラも追いました」
「それは」
「似てきましたね」
「嬉しくない」
「私は嬉しいです」
◇
午前九時。
一行は月影荘を出た。
宮原教授。
朗。
ロキシー。
そして地元の案内人。
七十代くらいの男性。
名前は山岡。
「昔は普通に参拝する人もいたんですがね」
山道を歩きながら、山岡が言う。
「今じゃ、ほとんど誰も行かんですよ」
「どうしてです?」
ロキシーが聞く。
「道が悪い。それだけです」
「他には?」
「……」
山岡は少しだけ笑う。
「外国のお嬢さんは、怖い話が好きですか」
「好きです」
「即答するんだ」
朗が呟く。
「じゃあ、一つ」
山岡が杖で道を示す。
「月姫様の祠には、昔から決まりがある」
「決まり?」
「夜には行ってはいけない」
ロキシーの目が輝く。
「なぜ?」
「月姫様に呼ばれるからですよ」
「呼ばれる?」
「名前を」
山岡は振り返らずに言った。
「夜の山で、自分の名前を呼ばれても返事をしてはいけない」
「返事したら?」
「帰れなくなる」
ロキシーが朗へ寄る。
「アキラ」
「何」
「怖いです」
「顔が嬉しそうなんだけど」
「怖いのと面白いのは別です」
「君、本当に強いよな」
◇
一時間ほど。
山道は次第に険しくなった。
「大丈夫?」
朗が聞く。
「大丈夫です」
ロキシーは答えたものの、少し息が上がっている。
「荷物持とうか?」
「いいです」
「無理しなくていいよ」
「でも」
「事件より先に君が倒れたら意味ない」
朗が手を差し出す。
ロキシーは少し驚いた。
「アキラ」
「何」
「最近、積極的ですね」
「荷物持つだけ!」
「昨日から」
「昨日の話はやめて」
「なぜ?」
「恥ずかしいから」
ロキシーが笑う。
「はい」
そして素直にバッグを渡した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「優しいですね」
「普通」
「また謙遜」
「それももういいから」
◇
さらに二十分。
鳥居が見えた。
古い。
石造り。
苔。
その先。
小さな祠。
「あれです」
山岡が言う。
「月姫様」
ロキシーが足を止める。
「きれい……」
豪華な社ではない。
むしろ。
山の中にひっそり残った小さな祠。
だが。
不思議な雰囲気があった。
風が冷たい。
木々の隙間。
昼なのに薄暗い。
「写真」
朗はスマートフォンを取り出した。
二一八番。
背景に写っていた石碑。
「同じだ」
祠の横。
苔むした石碑。
――月姫大神。
「ここです」
ロキシーも確認する。
「五十年前」
朗が言う。
「エリザベスと葛城がいた場所」
◇
宮原教授は祠の周辺を調べ始めた。
刻まれた文字。
奉納年。
由緒。
ロキシーも真面目に記録している。
朗は。
二一八番の写真を見比べていた。
「……変だな」
「何が?」
ロキシーが近づく。
「この写真」
「はい」
「葛城とエリザベスの位置」
二人は石碑の前にいる。
しかし。
写真には。
今はないものが写っている。
「これ」
朗が拡大する。
石碑の後ろ。
小さな木箱のようなもの。
「祠?」
「いや」
ロキシーが実物を見る。
「今はありません」
「五十年前にはあった」
二人は石碑の裏へ回った。
「アキラ」
「何?」
「ここ」
地面。
石。
四角い窪み。
何かが置かれていた跡。
「箱の台座?」
「かもしれない」
宮原教授も来る。
「これは」
しゃがむ。
「小さな祠か、奉納箱があった跡だろうね」
「今は?」
「撤去されたんだろう」
「いつ?」
教授は首を振る。
「そこまでは分からない」
◇
「山岡さん」
ロキシーが案内人を呼ぶ。
「昔、ここに箱みたいなものがありましたか?」
山岡が祠の裏を見る。
「ああ」
あっさり答えた。
「ありましたよ」
二人が反応する。
「何の箱?」
「分からん」
「いつなくなったんです?」
山岡の顔が少し曇った。
「昔ですよ」
「五十年前?」
「……そのくらいだったかな」
朗が聞く。
「エリザベス・ウォーカーを知っていますか?」
山岡の目が動いた。
「誰です?」
「五十年前、この祠を調べた外国人留学生です」
「知らんね」
即答。
でも。
朗には分かった。
知っている。
「本当に?」
「知らんものは知らん」
山岡は歩き出す。
「昼までには戻ったほうがいい」
◇
ロキシーが朗の耳元で囁く。
「嘘ですね」
「うん」
「アキラも分かりました?」
「分かった」
「すごい」
「さすがにあれは分かる」
「どうします?」
「追及しない」
「なぜ?」
「今は案内してもらってる側だから」
「慎重」
「君が突っ込みすぎ」
ロキシーが小声で笑った。
◇
祠の周囲をさらに調べる。
すると。
朗が一本の木に気づいた。
「これ」
「?」
太い杉。
幹。
古い傷。
「何か彫ってある」
苔を傷つけないよう、近くから確認する。
文字。
ほとんど読めない。
「S……」
ロキシーが目を細める。
「E」
「SとE?」
その下。
数字。
10・2。
「十月二日」
二人が同時に言う。
朗の心臓が早くなる。
「Sは誠一?」
「Seiichi」
「EはElizabeth」
ロキシーが。
少しだけ表情を変えた。
「二人で彫った?」
「可能性ある」
「恋人だったんでしょうか」
「……そうかも」
ロキシーが文字を見つめる。
「五十年前の恋」
朗は何も言わなかった。
「アキラ」
「何」
「もし私たちだったら」
「やらないよ」
「まだ何も言ってません」
「木に名前彫る話だろ」
「分かるんですね」
「分かるよ」
「では別の方法にしましょう」
「何を残す気だよ」
◇
そのとき。
「先生!」
少し離れた場所から声。
宮原教授。
「高瀬君、ハートマンさん」
二人が向かう。
「これを見て」
祠の裏。
倒れた石。
その下。
古いガラス瓶があった。
「手紙?」
瓶の中に。
紙。
宮原教授が慎重に取り出す。
かなり傷んでいる。
「最近のものではないですね」
「少なくとも数十年」
教授が答える。
紙。
英語。
ロキシーが読む。
「……」
「何て?」
朗が聞く。
ロキシーの表情が変わっていた。
「エリザベスじゃない」
「じゃあ誰?」
「サイン」
紙の最後。
英字。
S. Kuze
「久世誠一」
朗が呟く。
◇
手紙。
全文はかなり消えている。
読める部分だけ。
ロキシーが訳した。
「エリザベスへ」
静かな山。
風。
「私は、あの夜のことを忘れない」
朗は黙って聞く。
「あなたを一人で行かせたことを」
「……」
「追いついたときには」
そこから文字が消えている。
数行。
判読不能。
そして。
「私は写真を隠した」
朗の目が変わる。
「写真?」
「続きます」
ロキシーが読む。
「四枚のうち」
一行。
「一枚は大学へ」
「?」
「一枚はあなたが泊まった部屋へ」
朗が息を呑む。
「一枚は」
文字が滲んでいる。
「……分からない」
「最後は?」
「待って」
ロキシーが光にかざす。
「読めます」
最後。
「最後の一枚は」
彼女の声が止まる。
「月姫様に預けた」
◇
全員。
祠を見る。
「月姫様に」
朗が呟く。
「つまり」
ロキシーが言う。
「ここに写真がある?」
「可能性は高い」
四枚。
二一七。
二一八。
二一九。
二二〇。
二一七と二一八は。
すでに誰かが二人へ渡した。
「残り二枚」
朗が言う。
「そのうち一枚がここ?」
「はい」
ロキシーの目が輝く。
「探しましょう」
「勝手に祠を触れないよ」
宮原教授が釘を刺す。
「神社の管理者に許可を取る必要がある」
「はい」
ロキシーは少し残念そう。
◇
そのとき。
山岡が。
急に言った。
「やめなさい」
全員が振り返る。
「山岡さん?」
「その写真は」
顔色が変わっている。
「見つけないほうがいい」
朗が聞く。
「知ってるんですね」
「……」
「エリザベスのこと」
「知らん」
「じゃあどうして写真を?」
山岡は黙る。
ロキシーが一歩前に出た。
「山岡さん」
「……」
「あなた、あの夜ここにいました?」
空気が変わった。
山岡が。
ゆっくり。
ロキシーを見る。
「どうしてそう思う」
「写真」
二一七番。
木の陰。
もう一人の人物。
顔は見えない。
「あなたですか?」
「違う」
「本当に?」
「違う!」
強い声。
鳥が飛び立った。
ロキシーが少し驚く。
朗は彼女の前に出た。
「無理に答えなくていいです」
山岡を見る。
「でも」
「……」
「僕たちはエリザベスに何があったのか知りたいだけです」
長い沈黙。
◇
山岡は。
小さく息を吐いた。
「帰りましょう」
それだけ。
何も答えない。
「今日はもう山を下りたほうがいい」
「なぜ?」
宮原教授が聞く。
「天気が変わります」
空。
さっきまで晴れていた。
でも。
山の向こう。
黒い雲。
「雨?」
「山は早い」
山岡が歩き始める。
◇
下山。
三十分ほど経った頃。
雨が降り始めた。
「本当に降ってきた」
朗が言う。
「アキラ」
後ろ。
ロキシーが少し遅れている。
「大丈夫?」
「はい」
だが。
足場が濡れている。
「気をつけて」
朗が手を伸ばす。
「はい」
ロキシーが握る。
その瞬間。
「あっ」
足が滑った。
「ロキシー!」
朗が腕を引く。
身体がぶつかる。
ロキシーを抱える形になる。
「……」
「……」
顔が近い。
昨日より。
近い。
「大丈夫?」
「はい」
「怪我ない?」
「ありません」
数秒。
ロキシーが小さく笑った。
「アキラ」
「何」
「抱きしめています」
「転びそうだったから!」
「分かってます」
「じゃあ言うな」
「でも」
ロキシーは。
なかなか離れない。
「もう少しだけ」
「……また?」
「昨日と同じです」
「安心感?」
「はい」
雨音。
山。
二人。
朗は。
一度だけ。
小さく息を吐いた。
「……分かった」
自分から。
少しだけ。
腕に力を入れた。
ロキシーの目が大きくなる。
「アキラ?」
「転ぶと危ないから」
「嘘ですね」
「うるさい」
ロキシーが。
嬉しそうに笑った。
◇
午後一時。
一行は月影荘へ戻った。
全員ずぶ濡れ。
「すぐお風呂へ」
女将がタオルを渡す。
「ありがとうございます」
ロキシーは朗を見る。
「アキラ」
「何」
「また浴衣ですね」
「そこ?」
「昨日の続き」
「続けなくていい」
「残念」
「元気だな……」
◇
一時間後。
朗はロビーにいた。
宮原教授。
山岡。
女将。
そしてロキシー。
先ほどの手紙。
もう一度確認する。
「一枚は大学へ」
朗が整理する。
「一枚はエリザベスの部屋へ」
「一枚は月姫様へ」
ロキシーが続ける。
「あと一枚」
「場所が読めない」
宮原教授が言う。
「でも」
朗は考える。
「二一七と二一八は誰かが持っていた」
「つまり」
ロキシーが言う。
「久世誠一が隠した場所から、誰かが回収した」
「そうなる」
そして。
「その人物が僕たちに渡してる」
◇
その瞬間。
旅館の電話が鳴った。
女将が出る。
「はい、月影荘でございます」
数秒。
顔色が変わる。
「……どちら様ですか?」
全員が見る。
「もしもし?」
切れた。
「何て?」
朗が聞く。
女将が。
ゆっくり答える。
「若い男性の声でした」
「内容は?」
「……」
一度。
息を呑む。
「二一九は」
ロキシーが立ち上がる。
「二一九?」
「見つけるな、と」
朗の背筋が冷たくなる。
「それだけ?」
「いいえ」
「他には?」
女将が。
朗を見る。
そして。
ロキシーを見る。
「もし見つけたら」
声が震える。
「今度こそ」
一瞬。
「外国人の女の子が消える、と」
部屋が。
静まり返った。
「……」
朗は。
無意識に拳を握っていた。
今までとは違う。
五十年前の話ではない。
明確に。
ロキシーを狙った脅迫。
「アキラ」
ロキシーが呼ぶ。
朗は答えない。
怖かった。
でも。
それ以上に。
腹が立った。
朗は立ち上がる。
「もう」
低い声。
「好き勝手させない」
ロキシーが彼を見る。
これまで。
事件へ引っ張っていたのは。
いつもロキシーだった。
でも。
この瞬間だけは違った。
朗のほうが。
真っ直ぐ前を見ていた。
「写真二一九」
朗が言う。
「必ず見つける」
事件のためだけではない。
五十年前の真相のためだけでもない。
ロキシーを。
守るために。
第10話 月姫の祠 了




