写真二一九
――もし見つけたら、今度こそ外国人の女の子が消える。
月影荘のロビー。
誰も口を開かなかった。
古い柱時計の音だけが響いている。
カチ。
カチ。
カチ。
「警察に連絡しましょう」
最初に口を開いたのは宮原教授だった。
「これはもう、悪戯では済まない」
女将も頷いた。
「そうですね」
朗は隣を見る。
ロキシーは黙っていた。
いつもなら、
「調べましょう!」
と言い出すところだ。
だが今回は違う。
自分自身が、明確に標的にされた。
「ロキシー」
「はい」
「今日はもう何もしないで」
青い瞳が朗を見る。
「何もしない?」
「写真のことも、山のことも」
「でも――」
「駄目」
自分でも驚くほど強い声が出た。
「相手は君を狙うって言ってるんだ」
「分かっています」
「だったら」
「でもアキラ」
ロキシーの声も強くなった。
「私は帰りません」
「帰るとかじゃなくて」
「同じです」
「同じじゃない」
「同じです」
二人とも引かなかった。
◇
「私は」
ロキシーが言う。
「守ってもらうだけの人ではありません」
「そんなこと言ってない」
「言っています」
「危険だから止めてるだけだよ」
「私だけ?」
「え?」
「アキラも調べない?」
「それは……」
「ほら」
ロキシーが少し眉を寄せた。
「アキラは行く。でも私は待ってろ」
「だって狙われてるのは君だ」
「だからこそ知りたいんです」
「何かあってからじゃ遅いだろ!」
声が大きくなる。
ロキシーが黙った。
朗も。
言ってから後悔した。
「……ごめん」
「いいえ」
ロキシーは目を逸らした。
「私も言い過ぎました」
だが。
いつものようには笑わない。
それが。
朗には何より苦しかった。
◇
一時間後。
地元の警察が月影荘を訪れた。
これまでの脅迫状。
匿名メッセージ。
写真。
そして今回の電話。
事情を説明する。
当面、旅館周辺の巡回を増やすという。
また、単独行動を避けるよう強く念を押された。
「山へ入るのは控えてください」
警察官が言った。
「少なくとも今日中は」
「はい」
宮原教授が答える。
ロキシーも頷いた。
朗は少し安心した。
だが。
問題は。
写真二一九だった。
◇
「月姫様に預けた」
午後。
朗たちは旅館の一室に集まっていた。
宮原教授。
朗。
ロキシー。
女将。
そして山岡。
机の上には。
久世誠一の手紙。
「これは比喩ではないでしょう」
教授が言う。
「祠のどこかに写真を隠した、と考えるのが自然です」
山岡は黙っている。
朗は彼を見る。
「山岡さん」
「……何です」
「本当に何も知りませんか?」
「知りません」
「でも昨日」
「知らんと言ったでしょう」
明らかに。
何かを隠している。
ロキシーも気づいている。
だが。
今日は何も言わなかった。
朗の隣に座り。
静かに手紙を見つめている。
◇
夕方。
朗は一人で旅館の廊下を歩いていた。
「アキラ」
後ろから声。
振り返る。
ロキシー。
「一人で歩いてる」
「旅館の中だよ」
「私には一人で行動するなって言ったのに」
「……確かに」
「ずるいです」
少しだけ。
いつもの調子が戻っていた。
「さっきはごめん」
朗が言う。
「何が?」
「怒鳴った」
「私も怒りました」
「でも」
朗は足を止める。
「怖かったんだ」
ロキシーの表情が変わる。
「電話を聞いた瞬間」
「……」
「五十年前の話じゃなくなった」
朗は拳を握る。
「もし君に何かあったらって考えたら」
言葉が続かない。
ロキシーは。
少しだけ近づいた。
「アキラ」
「何」
「昨日」
「?」
「私が日本に帰……じゃない」
ロキシーは笑う。
「日本から帰ったら寂しいって言いましたね」
「うん」
「でも」
青い瞳が朗を見る。
「私がいなくなるのは、もっと嫌?」
朗は。
今度は迷わなかった。
「嫌だよ」
「……」
「すごく嫌だ」
ロキシーの頬が。
少し赤くなった。
「だから怖い」
しばらく。
何も言わない。
やがて。
ロキシーが小さく笑った。
「分かりました」
「じゃあ」
「でも調査はやめません」
「……」
「アキラ」
ロキシーが手を出す。
「一人で行かない」
「うん」
「勝手に追いかけない」
「うん」
「危険だと思ったらすぐ逃げる」
「うん」
「そして」
彼女は朗の手を取った。
「アキラも同じです」
「僕も?」
「当然です」
指を握る。
「相棒ですから」
朗は。
小さく笑った。
「分かった」
「約束?」
「約束」
◇
翌朝。
警察と神社の管理者に相談した上で。
再び月姫の祠へ向かうことになった。
今回は。
地元の神社関係者も同行する。
「建物を壊すことはできません」
宮原教授が確認する。
「当然です」
「目視できる範囲だけ」
「はい」
ロキシーも素直に答えた。
朗が横目で見る。
「何です?」
「今日は聞き分けいいなって」
「失礼ですね」
「昨日は聞かなかった」
「昨日より成長しました」
「一日で?」
「はい」
ロキシーが笑う。
それを見て。
朗もようやく少し安心した。
◇
月姫の祠。
昨日の雨で。
空気は冷たかった。
苔。
杉。
濡れた石。
宮原教授たちは。
祠の周囲を慎重に確認する。
「『月姫様に預けた』」
朗が呟く。
「普通に考えれば祠ですね」
ロキシーが答える。
「でも五十年ある」
「はい」
「修繕されてたら、誰かが見つけてるかも」
「では祠じゃない?」
「“月姫様”って何を指すんだろう」
二人で周囲を見る。
石碑。
鳥居。
祠。
杉。
そして。
「あ」
ロキシーが止まった。
「何?」
「月」
「月?」
石灯籠。
その側面。
三日月の彫刻。
「これ」
朗が近づく。
左右二基。
片方だけ。
三日月。
「月姫様?」
ロキシーが屈む。
灯籠の台座。
古い石。
「アキラ」
「ん?」
「ここだけ色が違います」
朗も見る。
側面の小さな石板。
周囲より新しい。
いや。
新しいといっても数十年は経っている。
「後からはめた?」
宮原教授を呼ぶ。
◇
神社側の許可を得て。
管理者が慎重に確認した。
「外れますね」
石板。
力を入れる。
ゆっくり。
動く。
その奥。
小さな空洞。
全員が息を呑んだ。
「何かあります」
布包み。
古い。
湿気で変色している。
管理者が取り出した。
中には。
薄い金属のケース。
「写真?」
ロキシーが囁く。
教授が手袋をして開ける。
一枚。
白黒写真。
裏面。
数字。
219
「……見つけた」
朗が呟いた。
◇
写真は。
今までの二枚より。
ずっと不気味だった。
撮影時刻。
十月二日。
午後十時四十七分。
場所。
月姫の祠。
写真の中央。
エリザベス。
木箱を胸に抱えている。
正面に葛城宗一郎。
腕を伸ばしている。
その後ろ。
久世誠一。
「三人」
ロキシーが言う。
「でも」
朗は。
写真の左端を見る。
「四人だ」
木の陰。
少年。
十代半ばくらい。
横顔。
少しぼけている。
だが。
特徴的な眉。
鼻。
「これ……」
朗が後ろを見る。
山岡。
顔色が。
真っ青になっていた。
◇
「山岡さん」
ロキシーが静かに呼ぶ。
「あなたですよね」
「……」
「違いますか?」
山岡は。
写真を見つめた。
長い。
長い沈黙。
「……十七だった」
小さな声。
誰も話さない。
「当時、私は十七歳だった」
山岡は。
ようやく。
認めた。
◇
「どうしてそこに?」
朗が聞く。
「気になったんですよ」
「何が?」
「あの外国人の娘が」
山岡は苦笑した。
「こんな田舎に外国人なんて珍しかった」
「エリザベスと話したことは?」
「何度か」
「どんな人?」
「よく笑う人だった」
山岡は山を見る。
「何でも知りたがった」
「ロキシーみたいですね」
朗が言う。
ロキシーが見る。
「何です?」
「いや」
山岡もロキシーを見る。
少し。
寂しそうに笑った。
「似てますよ」
◇
「あの夜」
山岡が続ける。
「エリザベスさんが宿を出るのを見た」
「葛城と?」
「そうだ」
「だから追った?」
「子どもの好奇心ですよ」
「ここまで?」
「ああ」
祠。
その夜。
エリザベスと葛城は激しく言い争っていた。
「内容は?」
「全部は分からなかった」
「日本語?」
「英語も混ざっていた」
「木箱は?」
山岡が写真を見る。
「あの箱です」
「何が入っていた?」
「知らない」
「葛城は欲しがっていた?」
「そう見えた」
「久世誠一は?」
「途中から来た」
山岡は目を閉じる。
「怒鳴っていた」
「誰に?」
「葛城先生に」
◇
そして。
もう一台。
車が来た。
「車?」
朗が聞き返す。
「黒いセダンだった」
「誰が乗っていた?」
「大人の男が二人」
「大学関係者?」
「分からない」
山岡が首を振る。
「でも」
一瞬。
「一人は、大学の徽章を胸につけていた」
朗の背筋が冷たくなる。
「大学が関わってた?」
「私は怖くなった」
十七歳。
夜。
知らない大人。
言い争い。
「逃げたんですね」
ロキシーが言う。
「……そうだ」
「その後は?」
「翌朝」
山岡の声が震える。
「久世さんだけが山から下りてきた」
やはり。
女将の証言と一致する。
「エリザベスは?」
「見ていない」
「葛城も?」
「見ていない」
◇
「どうして今まで黙っていたんです?」
朗が聞く。
山岡は。
苦い顔をした。
「父親に言った」
「お父さんに?」
「全部」
「それで?」
「忘れろと言われた」
「なぜ?」
「翌日」
山岡は朗を見る。
「家に男が二人来た」
ロキシーが息を呑む。
「大学の?」
「分からん」
「何を?」
「何も見なかったことにしろ、と」
朗は拳を握った。
「脅された?」
「父はそう受け取った」
「警察には?」
「行かなかった」
「なぜ」
「五十年前ですよ」
山岡は静かに言った。
「田舎で」
「……」
「大学の偉い先生と」
「……」
「ただの百姓の家の十七歳」
誰も。
何も言えなかった。
◇
「でも」
ロキシーが言う。
「写真を見つけるなと言いました」
「ああ」
「今も怖いんですか?」
「怖いさ」
山岡は。
ロキシーを見る。
「君が」
「私?」
「エリザベスさんと重なる」
その言葉に。
ロキシーが黙る。
「好奇心が強くて」
「……」
「怖がってるくせに進んでいく」
「……」
「それで」
山岡の顔が。
少し歪んだ。
「帰ってこなかった」
朗は。
無意識に。
ロキシーの隣へ一歩近づいた。
◇
「写真二二〇」
朗が聞く。
「何か知っていますか?」
山岡の顔が変わる。
「最後の写真」
「はい」
「……」
「何が写っているんです?」
山岡は。
答えなかった。
だが。
明らかに。
知っている。
「山岡さん」
「私は見ていない」
「本当に?」
「写真そのものは」
「そのものは?」
朗が聞き返す。
山岡は。
しばらく迷った。
「久世誠一が」
声を落とす。
「一度だけ」
「何を?」
「言った」
五十年前。
事件から。
何年か経ったあと。
「最後の写真だけは」
一度。
息を止め。
「世に出したら、人が死ぬ」
風が吹いた。
木々が鳴る。
ロキシーが朗の腕を掴んだ。
◇
月影荘へ戻った頃。
午後四時。
朗はロビーで一人。
写真二一九のコピーを見ていた。
「世に出したら、人が死ぬ……」
何が。
写っている?
そのとき。
スマートフォンが震えた。
知らない番号。
朗の表情が変わる。
メッセージ。
画像付き。
「……」
開く。
写真。
今日。
月姫の祠。
ロキシー。
朗。
二人が。
写真二一九を確認している瞬間。
撮影されていた。
「また……」
つまり。
今日も。
見られていた。
下に文章。
219を見たな。
さらに。
忠告したはずだ。
そして。
最後。
次は、彼女を一人にしてみろ。
朗の顔から血の気が引いた。
「ロキシー……」
立ち上がる。
周囲を見る。
いない。
さっきまで。
確かにロビーにいた。
「女将さん!」
「はい?」
「ロキシーは?」
「ハートマンさん?」
女将が考える。
「少し前に外へ出ましたよ」
「一人で?」
「ええ」
朗の心臓が跳ねた。
「どこへ?」
「確か」
女将が。
旅館の外を指す。
「誰かに呼ばれた、と」
「……誰に?」
「大学の方だと言っていましたけど」
朗は。
走った。
「ロキシー!」
約束した。
一人で行かない。
絶対に。
離れない。
なのに。
温泉街。
夕暮れ。
人混み。
金色の髪は。
どこにも見えなかった。
第11話 写真二一九 了




