消えたロキシー
「ロキシー!」
朗は月影荘を飛び出した。
夕方の温泉街。
石畳。
土産物屋。
浴衣姿の観光客。
川沿いを歩く家族連れ。
そのどこにも。
金色の長い髪は見えない。
「くそ……」
スマートフォンを取り出す。
電話。
一回。
二回。
三回。
『おかけになった電話は――』
「出てよ……!」
切る。
もう一度。
やはり出ない。
頭に浮かぶ。
次は、彼女を一人にしてみろ。
あの匿名メッセージ。
「……馬鹿」
誰に言ったのか。
ロキシーにか。
自分にか。
分からなかった。
「一人で行くなって言っただろ……」
昨日。
二人で約束した。
一人で行動しない。
勝手に相手を追わない。
危険だと思ったら逃げる。
なのに。
◇
「高瀬君!」
後ろから宮原教授が追ってきた。
「先生」
「事情は聞いた。警察にも連絡した」
「ありがとうございます」
「君一人で探すのも危険だ」
「でも」
「気持ちは分かる」
教授は朗の肩を掴んだ。
「だからこそ冷静に」
冷静に。
そう言われても。
心臓がずっと鳴っている。
手が冷たい。
もし。
五十年前と同じことが起きたら。
エリザベスと同じように。
外国から来た女の子が。
突然いなくなったら。
「……嫌だ」
「高瀬君?」
「絶対に嫌だ」
朗は顔を上げた。
「探します」
「分かった。ただし単独では――」
「はい」
そこで。
朗は止まった。
「先生」
「何だい?」
「女将さんは、ロキシーが誰かに呼ばれたって言ってましたよね」
「ああ」
「大学の人だって」
「そう聞いている」
「でも」
今日。
大学関係者でこの町にいるのは。
宮原教授。
ゼミ生。
それだけ。
「ロキシーは、その人の顔を知らなかったはずです」
「つまり?」
「大学の関係者だって名乗っただけ」
「……そういうことになるね」
「なら」
朗は温泉街を見る。
「どこへ連れていく?」
◇
ロキシーは日本へ来てまだ日が浅い。
土地勘はない。
知らない相手について行ったのなら。
遠くではない。
人目のある場所。
少なくとも最初は。
「女将さん!」
二人は月影荘へ戻った。
「ロキシーを呼んだ人、どんな人でした?」
「私は直接見ていません」
「誰か見てませんか?」
仲居。
従業員。
聞いて回る。
やがて。
厨房の若い従業員が言った。
「金髪のお客さんなら見ましたよ」
「どこで?」
「裏口のほう」
「一人?」
「いや……」
従業員が考える。
「女の人と話してたと思います」
「女性?」
「三十代くらいかな。帽子かぶってました」
朗と教授が顔を見合わせる。
これまでの不審者は。
性別すら分からなかった。
「どっちへ?」
「あっちです」
指差した先。
温泉街の中心とは反対。
古い共同浴場。
閉館した観光案内所。
そして。
昔の診療所。
人通りの少ない地区。
◇
朗たちは走った。
「ロキシー!」
返事はない。
古い商店。
閉じたシャッター。
細い路地。
朗は何度も電話をかける。
そのとき。
「……待って」
足を止めた。
「どうした?」
宮原教授が聞く。
「音」
どこかで。
かすかに。
電子音。
聞き覚えのある着信音。
「ロキシーのスマホ?」
「たぶん」
音を追う。
路地。
さらに奥。
地面。
「あった」
スマートフォン。
画面には。
高瀬朗
自分からの着信。
「落とした?」
「それとも」
朗が周囲を見る。
「落としたんじゃない」
スマートフォンの横。
小さな白いハンカチ。
ロキシーが普段使っているものだった。
「置いた?」
「目印かもしれない」
朗は顔を上げた。
路地の先。
古い木造建築。
看板。
文字がかすれている。
――旧町立診療所。
◇
「まさか……」
入口。
鍵はかかっていない。
「ロキシー!」
朗が扉を開ける。
「高瀬君、待ちなさい!」
埃。
古い受付。
廊下。
診察室。
誰もいない。
「ロキシー!」
返事。
なし。
奥へ。
保健室のような部屋。
さらに。
階段。
二階。
そのとき。
ドン。
「……?」
ドン。
奥の部屋。
音。
「ロキシー!」
「アキラ!?」
聞こえた。
「ロキシー!」
朗は走った。
一番奥。
扉。
「ここです!」
開かない。
外側から。
古い棒が閂のように差し込まれている。
「下がって!」
外す。
扉を開ける。
「アキラ!」
金色の髪。
ロキシー。
無事。
「……」
朗は。
一瞬。
何も言えなかった。
「アキラ?」
次の瞬間。
肩を掴んだ。
「怪我は!?」
「ありません」
「何かされた?」
「何も」
「本当に?」
「はい」
朗は。
大きく息を吐いた。
「……よかった」
膝から力が抜けそうだった。
◇
「痛いです」
「え?」
「肩」
「あ、ごめん」
朗が手を離す。
だが。
今度はロキシーが朗の袖を掴んだ。
「でも」
小さく笑う。
「来てくれました」
「当たり前だろ!」
思わず強い声になる。
ロキシーが目を丸くした。
「どうして一人で行ったんだよ!」
「……」
「約束しただろ!」
「はい」
「相手が誰かも分からないのに!」
「はい」
「もし――」
言葉が詰まる。
「もし君までエリザベスみたいに消えたら」
「アキラ」
「僕は……」
声が震えた。
「本当に怖かったんだからな」
ロキシーの表情から。
いつもの笑みが消えた。
「……ごめんなさい」
初めて。
完全に素直な謝罪だった。
◇
宮原教授と警察が到着した。
周囲を確認。
犯人らしい人物はいない。
「何があったの?」
教授が聞いた。
ロキシーは説明した。
「旅館で、女性に声をかけられました」
「何と?」
「大学から来た人だと」
「名前は?」
「佐伯」
「佐伯?」
「そう名乗りました」
「どんな人?」
「三十代くらい。帽子と眼鏡」
「それでついてきた?」
ロキシーは少し恥ずかしそうに頷く。
「宮原先生から頼まれた資料があると言われて」
朗は頭を抱えた。
「君……」
「ごめんなさい」
「本当に反省してる?」
「しています」
「珍しい」
「アキラ」
「冗談」
少しだけ。
いつもの空気が戻った。
◇
「ここまで来たら」
ロキシーが続ける。
「その女性が、この部屋に入るように言いました」
「何のため?」
「昔の大学資料があるから、と」
「それで?」
「入りました」
「ロキシー……」
「反省しています!」
「はいはい」
「でも」
ロキシーが部屋の奥を指差した。
「本当にありました」
「何が?」
古い机。
その上。
一冊の帳面。
黄ばんだ表紙。
――診療記録。
「これ」
教授が手袋を着けて確認する。
「昭和のものだね」
ロキシーが言う。
「女性はこれを見せたあと」
「うん」
「突然出ていって」
「扉を閉めた?」
「はい」
「閉じ込められた」
「でも」
ロキシーの顔が少し変わる。
「逃げる前に、一つだけ言いました」
「何て?」
「二二〇を探したいなら」
朗が反応する。
「写真220?」
「はい」
「続きは?」
ロキシーが言う。
「『死体を探してはいけない』」
「……え?」
全員が黙った。
◇
朗が聞き返す。
「死体を?」
「はい」
「どういう意味?」
「分かりません」
「他には?」
「『あなたたちは最初から間違えている』」
「何を?」
「それだけ」
ロキシーは机を見る。
「そして出ていきました」
朗の中で。
何かが引っかかった。
最初から間違えている。
死体を探すな。
これまで。
朗たちは。
無意識に。
エリザベスが五十年前の夜に死んだ可能性を考えていた。
山から戻ってこない。
帰国記録は偽装。
大学が隠蔽。
なら。
山で何かあった。
しかし。
「……死んでない?」
朗が呟いた。
「アキラ?」
「エリザベス」
「?」
「もし」
朗はロキシーを見る。
「山で死んでないとしたら?」
◇
全員で診療記録を確認する。
十月三日。
翌朝。
患者。
数人。
風邪。
怪我。
発熱。
そして。
一件。
「これ」
ロキシーが指差す。
氏名欄。
空白。
性別。
女。
推定年齢。
十九~二十歳。
症状。
頭部打撲。
右足捻挫。
軽度の低体温。
保護場所。
――月姫山旧道。
「……」
朗の心臓が早くなる。
「外国人?」
記載はない。
だが。
備考。
そこに。
たった一行。
日本語での会話可能。氏名回答を拒否。
「これ」
ロキシーが言う。
「エリザベス?」
「断定はできない」
教授が答える。
「ただ」
日付。
年齢。
場所。
すべてが一致する。
「その後は?」
朗がページをめくる。
次。
転送先。
町外の病院。
しかし。
病院名が。
黒く塗りつぶされている。
「また消されてる」
ロキシーが呟く。
◇
「待って」
朗が言う。
「もしこの患者がエリザベスなら」
「はい」
「十月三日の朝には生きていた」
「そうなります」
「そして」
帰国したことになったのは。
十月十二日。
九日後。
「その間に」
ロキシーが言う。
「何かがあった」
「ああ」
事件は。
山の夜で終わっていない。
むしろ。
そこから始まった。
◇
さらに。
診療記録の間。
一枚の紙。
古いものではない。
新しい。
印刷された文章。
朗が読む。
写真220は、殺人の証拠ではない。
ロキシーが隣で息を呑む。
次。
彼女が生きて山を下りた証拠だ。
そして。
最後。
だが、それを公表すれば、今度は別の人間が壊れる。
署名。
なし。
◇
旅館へ戻ったあと。
朗はロキシーの隣に座っていた。
いつもより。
近い。
今度は。
朗のほうから。
「アキラ」
「何」
「近いです」
「……嫌?」
ロキシーが少し驚いた。
それから。
首を横に振る。
「全然」
「じゃあ、このまま」
「はい」
数秒。
沈黙。
「本当に怖かった」
朗が言った。
「さっきも言いました」
「何回でも言う」
「ごめんなさい」
「もう一人で行かないで」
「はい」
「絶対」
「はい」
「知らない人についていかない」
「子どもみたいですね」
「今回は君が悪い」
「はい」
「素直だな」
「反省しています」
そして。
ロキシーが小さく言った。
「でも」
「何?」
「一つだけ嬉しかったです」
「何が」
「アキラが探しに来てくれたこと」
「当然だろ」
「どうして?」
また。
その質問。
「どうしてそこまでしてくれるんです?」
朗は黙った。
「相棒だから?」
「それもある」
「友達だから?」
「それも」
「では」
ロキシーが。
少しだけ顔を近づける。
「他には?」
朗は目を逸らした。
「……今は言わない」
「ずるい」
「君も第9話で言わなかっただろ」
「覚えてたんですね」
「覚えてるよ」
ロキシーは笑う。
「では待ちます」
「何を」
「アキラが自分で言うまで」
◇
夜。
朗は。
診療記録のコピーを眺めていた。
十月三日。
十九歳前後。
女性。
月姫山旧道で保護。
氏名回答拒否。
町外の病院へ移送。
「エリザベス……」
もし。
彼女が生きていたなら。
なぜ。
名前を言わなかった?
なぜ。
大学へ戻らなかった?
なぜ。
久世誠一のところへも戻らなかった?
そして。
何より。
なぜ。
大学は「帰国した」と発表した?
朗は。
一枚の写真を思い出す。
残された最後の写真。
220。
それには。
いったい。
何が写っている?
◇
同じ頃。
東京。
大学院棟。
久世直哉は。
一人。
研究室にいた。
スマートフォンが鳴る。
知らない番号。
「……はい」
『写真二一九が見つかった』
久世の表情が変わる。
「誰だ」
『そして』
一瞬。
『診療記録も見つかった』
「……」
久世が立ち上がる。
『もう隠せない』
「待て」
『次は二二〇だ』
「やめろ!」
久世が叫ぶ。
『なぜ?』
「あの写真だけは駄目だ」
『君のお祖父さんと同じことを言うんだね』
久世の顔から。
血の気が引いた。
「誰だ、お前」
電話の向こう。
小さな笑い声。
そして。
『エリザベス・ウォーカーは』
声。
『死んでいない』
通話は切れた。
久世は。
しばらく動けなかった。
第12話 消えたロキシー 了




