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写真の中の男

 その夜。


 朗は、自室の机に座ったまま動けずにいた。


 パソコンの画面。


 五十年前に撮影された、一枚の写真。


 学生たちが地方の駅前らしき場所に並んでいる。


 中央には、若い外国人女性。


 おそらく――エリザベス・ウォーカー。


 そして、その少し後ろ。


 一人の日本人男性。


「……似すぎだろ」


 朗は画像を拡大した。


 細い目。


 高い鼻。


 真っ直ぐな眉。


 何より、あの神経質そうな雰囲気。


 昨日会った大学院生。


 久世直哉。


 もちろん、本人であるはずはない。


 五十年前の写真なのだから。


「親戚……?」


 父親。


 叔父。


 あるいは祖父。


 年齢的には祖父が一番自然だ。


 朗は久世直哉のプロフィールを検索した。


 大学の研究者紹介ページ。


 論文。


 研究発表。


 しかし、家族構成など当然載っていない。


「明日、本人に聞くしかないか……」


 そう呟いた瞬間。


 スマートフォンが震えた。


 ロキシー。


『アキラ、まだ起きてます?』


『起きてる』


 すぐ返信する。


 数秒後。


『電話していい?』


「珍しいな」


 いつもなら勝手にかけてきそうなのに。


『いいよ』


 着信。


「もしもし」


『アキラ』


「どうした?」


 少し間があった。


『今日は、変なメッセージ来てませんか?』


「来てない」


『本当?』


「本当」


『よかった』


 声がいつもより静かだった。


「……怖い?」


『少し』


 朗は椅子に深く座った。


「昨日も言ってたな」


『昼は平気なんです。でも夜になると、ちょっと』


「そりゃそうだよ」


『アキラは?』


「怖いよ」


『本当?』


「僕だって普通の大学生だからな」


『なんだ』


「なんだって何だよ」


『アキラは、何でも怖くない人かと思ってました』


「そんなわけないだろ」


『でも、昨日追いかけてきてくれました』


 朗は少し黙った。


「君が勝手に走ったから」


『それでも来てくれた』


「……まあ」


『ありがとうございます』


 電話の向こうで、ロキシーが少し笑った気配がした。


 朗は画面の写真を見た。


「そうだ、ロキシー」


『はい?』


「昨日の写真部のアーカイブ、見つけた」


『本当!?』


 声が一気に明るくなった。


「声でかい」


『ごめんなさい。それで?』


「エリザベスらしい人が写ってる」


『やっぱり!』


「あと……」


 朗は迷った。


「久世さんに似た男も写ってる」


 沈黙。


『……どのくらい?』


「かなり」


『本人?』


「五十年前だぞ」


『では、お父さん?』


「年齢的には祖父じゃないかな」


『明日聞きましょう』


「本人に?」


『はい』


「嫌な顔されそうだな」


『もうされています』


「確かに」


 二人とも少し笑った。


『アキラ』


「何?」


『今日も電話してよかったです』


「……なんで」


『少し安心したから』


 朗は返事に困った。


『では、おやすみなさい』


「おやすみ」


『夢で会いましょう』


「そういうこと言うな」


『どうして?』


「寝られなくなる」


 一瞬。


 向こうが静かになった。


『……アキラ』


「何」


『今の、かわいいです』


「切るぞ」


『おやすみなさい!』


 ロキシーの笑い声。


 通話が切れた。


 朗はスマートフォンを机へ置いた。


「……本当に寝られなくなるって」


     ◇


 翌日。


 昼休み。


 二人は写真部の部室を訪ねた。


「失礼します」


 扉を開ける。


 壁一面に写真。


 風景。


 人物。


 街角。


 モノクロ。


 古いカメラ。


「すごい!」


 ロキシーの目が輝く。


「旅行写真もたくさんあります」


「目的忘れるなよ」


「分かっています」


 部室には三人ほど学生がいた。


 一人の女子学生がこちらへ来る。


「何か用?」


「過去の写真を見せてもらいたくて」


 朗が説明する。


「五十年くらい前の撮影旅行の写真です」


「五十年?」


「デジタルアーカイブで見つけました」


「それならOB資料かな」


 女子学生は奥を見る。


「部長!」


「はいはい」


 現れたのは、長髪の男子学生だった。


 三年生。


 写真部部長の柴崎。


「五十年前の写真?」


「はい」


「珍しいね」


 朗がスマートフォンを見せる。


 柴崎の表情が少し変わった。


「ああ、このシリーズか」


「知ってるんですか?」


「知ってるっていうか……」


 柴崎は頭を掻いた。


「去年、整理したから」


「整理?」


「写真部、創部六十周年だったんだよ。それで昔のネガとかアルバムとか全部デジタル化した」


「元の写真は?」


「残ってる」


 ロキシーが身を乗り出す。


「見せてもらえますか?」


「申請すれば」


「お願いします」


「早いな」


     ◇


 十分後。


 二人は古いアルバムを見せてもらっていた。


 手袋を着ける。


 昭和のキャンパス。


 学生たち。


 旅行。


 文化祭。


「この頃から写真部は旅行によく行ってたんですね」


 ロキシーが言う。


 柴崎が頷く。


「撮影旅行は伝統らしいよ」


「この年は?」


 朗がページを指差す。


 エリザベスが写っていた年。


「ああ、それね」


 柴崎が少し困った顔をした。


「ちょっと変なんだよ」


「変?」


「その年だけ、ネガが一部ない」


 朗とロキシーが同時に顔を上げた。


「ない?」


「箱は残ってる。でも中身が抜けてる」


「いつから?」


「分からない。去年整理した時にはもうなかった」


 ロキシーが聞く。


「十月二日の写真も?」


「ちょっと待って」


 柴崎が記録簿を見る。


「……ああ」


「どうしました?」


「ちょうどそこ」


「そこ?」


「十月一日から三日までのネガがない」


 二人の表情が変わる。


 朗はすぐに言った。


「写真は?」


「焼いたやつが一部残ってる」


「見せてもらえますか?」


「いいよ」


     ◇


 古い写真箱。


 柴崎が机に置いた。


「これがその旅行」


 十数枚。


 山。


 駅。


 旅館。


 神社。


 集合写真。


「あ」


 ロキシーが指差す。


 例の写真だった。


「これです」


「アーカイブにあったやつだ」


 朗は写真の裏を見る。


 鉛筆で文字。


 ――昭和○○年十月二日。


「日付が合ってる」


「はい」


 ロキシーが写真を持ち上げる。


「この人」


 久世に似た男。


 柴崎が覗き込む。


「誰?」


「大学院生に似てるんです」


「今の?」


「はい」


「さすがに本人じゃないでしょ」


「もちろん」


 朗は写真の端を見る。


 そこに小さく。


 名前が書かれていた。


「……久世」


「え?」


 ロキシーが近づく。


 朗が読む。


「久世……誠一?」


「同じ名字」


「やっぱり親族か」


 柴崎が言う。


「その人なら、名前残ってるかも」


「どこに?」


「OB名簿」


 写真部の古い部員名簿。


 数ページめくる。


「あった」


 久世誠一。


 当時二十二歳。


 文学部。


 写真部。


 卒業後――。


「大学職員?」


「そうみたいだな」


「何年勤めてる?」


「三十二年」


 ロキシーが朗を見る。


「久世直哉さんの親族でしょうね」


「たぶん」


     ◇


 さらに写真を確認する。


 エリザベス。


 久世誠一。


 学生たち。


「でも」


 朗が言った。


「民俗研究会の旅行なのに、なんで写真部の人がいるんだ?」


 柴崎が答える。


「記録係じゃない?」


「記録係?」


「昔はカメラ持ってる学生少なかったから、他サークルの旅行に写真部が同行することもあったらしい」


「なるほど」


 ロキシーが写真を並べる。


「エリザベスと久世誠一は、何枚も一緒に写っています」


 確かに。


 神社の前。


 駅。


 旅館の庭。


 二人が近くにいる写真が多い。


「付き合ってた?」


 柴崎が何気なく言った。


 ロキシーが反応する。


「恋人?」


「いや、知らないけど」


「可能性はあります」


 朗は別の写真を見る。


 そこにはエリザベスが笑っていた。


 久世誠一も隣で笑っている。


「……仲は良さそうだな」


「そうですね」


 そのとき。


 ロキシーが一枚を手に取った。


「あれ?」


「どうした?」


「この写真」


 少し暗い。


 夜。


 旅館の前。


 複数の学生。


「エリザベスがいない?」


 朗が言う。


「はい」


「別の場所にいたんじゃない?」


「でも」


 ロキシーが写真の端を指す。


 一人。


 久世誠一だけが、カメラのほうを見ていない。


 旅館の奥。


 暗い山のほうを見ている。


「何見てるんだろ」


「分かりません」


 そして。


 写真の裏。


 また鉛筆書き。


 ――十月二日 午後九時十三分。


「細かい時間まで」


「昔の写真部って几帳面だったんですね」


「撮影記録だろうな」


 朗が別の写真を見る。


 九時二十分。


 九時三十六分。


 九時四十二分。


 そして。


「……あれ」


「どうしました?」


「時間が飛んでる」


「どこ?」


 九時四十二分。


 次が。


 十一時十八分。


 一時間半以上。


「この間の写真は?」


「ない」


 箱を探す。


 ない。


「ネガもないって言ってたよな」


「はい」


 ロキシーが小さく言う。


「十月二日の写真を探せ」


 あのメモ。


「この空白の時間に何かあった?」


 朗が呟く。


     ◇


 そのとき。


 柴崎が言った。


「あ、待って」


「?」


「裏に番号あるでしょ」


 朗が確認する。


 写真の裏。


 小さな数字。


 214。


 215。


 216。


 次。


 221。


「飛んでる」


「217から220がない」


 柴崎が頷く。


「四枚消えてる」


 ロキシーの表情が変わる。


「意図的に?」


「分からない」


「でも四枚だけ」


「そう」


 朗は考えた。


 四枚。


 九時四十二分から十一時十八分まで。


 誰かが抜いた。


 あるいは、捨てた。


「アキラ」


「うん」


「これが探すべき写真ですね」


「たぶん」


     ◇


 写真部を出たあと。


 二人は大学院棟へ向かった。


「久世さんに聞くの?」


「はい」


「機嫌悪くなりそうだな」


「ではアキラが聞いてください」


「なんで」


「私は嫌われています」


「僕もだよ」


「アキラのほうがまだ好かれています」


「誤差だろ」


     ◇


 久世直哉は研究室前の廊下にいた。


 二人を見る。


 露骨に嫌な顔。


「また君たちか」


「すみません」


 朗が言う。


「少し聞きたいことがあります」


「何」


「久世誠一さんって知ってますか?」


 一瞬。


 久世の表情が止まった。


 朗は見逃さなかった。


「……どこでその名前を?」


「写真部の記録です」


「そう」


「親戚ですか?」


 久世は黙った。


「祖父だ」


 やっぱり。


 ロキシーが聞く。


「お祖父さんは、エリザベス・ウォーカーと知り合いでしたか?」


「知っていた」


「どんな関係?」


「知らない」


「本当に?」


 久世の眉が動く。


「君は質問の仕方を知らないのか?」


「よく言われます」


 朗は思わず笑いそうになった。


 久世はため息。


「祖父は写真部だった。民俗研究会の記録撮影にも同行していた」


「十月二日の旅行にも?」


「……ああ」


「そこで何があったんですか?」


 沈黙。


「久世さん」


 朗が言う。


「写真が四枚消えています」


 久世の顔が変わった。


「四枚?」


「知ってるんですか?」


「……」


 その反応だけで十分だった。


「知ってるんですね」


 久世はしばらく二人を見た。


 そして低い声で言う。


「これ以上調べるな」


「またそれですか」


「遊びじゃない」


 初めて。


 久世の声に怒りではなく、恐怖が混じった。


「祖父は」


 一度、言葉を切る。


「死ぬ前まで後悔していた」


「何を?」


 久世は答えない。


「何を後悔していたんです?」


 朗がもう一度聞く。


 久世は目を逸らした。


「エリザベスを」


 二人が固まる。


「助けられなかったことを」


 ロキシーが息を呑んだ。


「助ける?」


「どういう意味ですか?」


「知らない」


「でも――」


「本当に知らない」


 久世は強く言った。


「祖父はそれ以上話さなかった」


「写真は?」


 朗が聞く。


「四枚の写真、知ってますか?」


 久世は答えなかった。


 だが。


 その沈黙が。


 何より雄弁だった。


     ◇


 二人は研究棟を出た。


「アキラ」


「うん」


「久世さん、写真のこと知っています」


「たぶんな」


「でも言わない」


「理由があるんだろ」


「怖がってました」


「ああ」


 今まで。


 久世は怪しかった。


 脅迫状の犯人かもしれない。


 そう思っていた。


 でも。


「久世さんも何かを恐れてる」


「犯人ではない?」


「分からない」


 朗は空を見る。


「少なくとも、単純な犯人じゃなさそう」


     ◇


 その日の夕方。


 二人は駅へ向かっていた。


「今日は何も起きませんでしたね」


 ロキシーが言う。


「起きないほうがいいんだよ」


「でも少し寂しい」


「事件中毒になってない?」


「大丈夫です」


 そう言いながら。


 ロキシーが朗の袖をつかんだ。


「……何?」


「人が多いから」


「迷子になる歳じゃないだろ」


「違います」


「じゃあ何」


「昨日、怖かったから」


 朗は黙った。


 ロキシーは前を向いたまま。


「こうしていると安心します」


「……そう」


 朗は袖をつかまれたまま歩いた。


 少しして。


「アキラ」


「何?」


「手でもいいですよ」


「何が」


「袖じゃなくて」


「……」


「嫌?」


 朗は顔を逸らした。


「人多いから」


「はい?」


「はぐれたら困るから」


 右手を出す。


 ロキシーが一瞬驚いた。


 それから。


 嬉しそうに笑った。


「はい」


 指が触れる。


 握る。


 柔らかくて。


 思ったより小さい手だった。


「アキラ」


「何」


「顔が赤いです」


「夕焼け」


「まだ夕焼けじゃないです」


「うるさい」


 ロキシーは笑う。


 でも。


 手は離さなかった。


     ◇


 駅に着く少し前。


 ロキシーが突然立ち止まった。


「アキラ」


「どうした?」


「後ろ」


 朗は振り向かない。


「いる?」


「たぶん」


「誰」


「分かりません」


 二人の後方。


 二十メートルほど。


 黒い帽子。


 マスク。


 以前と同じような人物。


「またか」


 朗はロキシーの手を少し強く握った。


「走らないで」


「はい」


「人通りの多いところへ行く」


「はい」


「絶対離れるなよ」


「はい」


 そのまま大通りへ出る。


 信号。


 人混み。


 コンビニ。


 朗が後ろを見る。


 いない。


「消えた」


「……」


 ロキシーが手を握る。


 さっきより強く。


 朗は言った。


「大丈夫」


 自分にも言い聞かせるように。


「僕がいるから」


 ロキシーが朗を見る。


「アキラ」


「何?」


「今の」


「何」


「とても格好良かったです」


「忘れて」


「嫌です」


「忘れろ」


「絶対忘れません」


 そんな会話をしながら。


 二人は駅へ向かった。


 けれど。


 その頃。


 大学の写真部では。


 誰もいない部室の扉が、ゆっくり開いていた。


 一人の人物が入る。


 古い写真箱。


 引き出し。


 棚。


 そして。


 今日、朗たちが見つけた五十年前のアルバム。


 黒い手袋をした指が。


 そっとページをめくる。


 目的の場所。


 写真番号。


 216。


 次は221。


 抜けている四枚。


 人物はポケットから。


 古びた封筒を取り出した。


 その中には。


 四枚の写真。


 裏には番号。


 217。


 218。


 219。


 220。


 そして最後の一枚には。


 夜の山道。


 泣いているエリザベス。


 その腕をつかむ男。


 もう一人。


 遠くから見ている久世誠一。


 写真の裏には。


 震える字で。


 たった一言。


 こう書かれていた。


 私たちは、見てしまった。


第5話 写真の中の男 了

挿絵(By みてみん)

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