消えた本
翌朝。
高瀬朗は、大学へ向かう電車の中で何度もスマートフォンを確認していた。
昨夜届いた匿名メッセージ。
次は警告だけでは済まない。
そして添付されていた写真。
中庭のベンチに座る自分とロキシー。
撮影されたことに、まったく気づかなかった。
「……気持ち悪いな」
画面を閉じる。
昨日のうちにスクリーンショットを保存し、学生課にも送ってある。
もう自分たちだけの問題ではない。
だから今日は、ロキシーにも大人しくしてもらわなければならない。
そう思っていた。
「アキラ!」
「うわっ!」
大学の正門をくぐった瞬間、背後から声が飛んできた。
振り向くと、ロキシーが走ってくる。
金色の髪が朝日に揺れていた。
「おはようございます!」
「おはよう。……っていうか、走るなよ」
「どうして?」
「昨日あんなことがあっただろ」
「だからアキラを見つけて安心しました」
「……」
そういうことを平然と言う。
朗は少し困った。
「今日は一人で変なところ行くなよ」
「はい」
「勝手に人を追いかけるな」
「はい」
「怪しいものを見つけても触るな」
「はい」
「絶対聞いてないだろ」
「聞いてます」
ロキシーは朗の隣に並んだ。
「今日は図書館に行きます」
「早速聞いてない!」
「でも安全です」
「……何を調べるつもり?」
「エリザベス・ウォーカー」
やっぱりか。
朗は額を押さえた。
「昨日、これ以上調べるなって脅されたんだぞ」
「だからです」
「だからって?」
「何か困ることがある」
ロキシーは真顔だった。
「誰かが、私たちに知られたくないことがあるんです」
「それは……そうかもしれないけど」
「それなら、そこに答えがあります」
朗はため息をついた。
こういうときのロキシーは止まらない。
「分かった。ただし、全部大学に許可を取ってやる」
「はい!」
「それから僕から離れない」
「はい!」
ロキシーが笑う。
「今日のアキラ、頼もしいです」
「昨日の写真が怖かっただけだよ」
「私を守ってくれます?」
「……まあ」
「まあ?」
「守れる範囲なら」
ロキシーが朗の腕に自分の腕を絡めた。
「ではお願いします」
「近い近い近い!」
「護衛でしょう?」
「護衛は腕組まない!」
◇
二人が図書館で調べたかったのは、エリザベス本人の資料ではなかった。
彼女が在籍していた当時の学生が残した記録。
卒業アルバム。
学生新聞。
サークル誌。
大学祭の記録。
そうした周辺資料だった。
「本人の記録が消されているなら」
朗が言う。
「周りの人が書いたものを探したほうが早いかもしれない」
「アキラ」
「何?」
「探偵みたいです」
「昨日から何回目だよ、それ」
二人は古い学生新聞の縮刷版を調べた。
五十年前。
四月。
五月。
六月。
紙面には学生運動の記事や大学祭、部活動、新しい外国人留学生の紹介などが載っている。
「あ」
ロキシーが声を上げる。
「ありました」
小さな記事。
――英国より交換留学生来日。
そこに写真があった。
若い外国人女性。
エリザベス・ウォーカー。
「間違いないな」
記事には簡単なインタビューも掲載されていた。
「日本文学と民間伝承に興味……」
ロキシーが読む。
そして少し笑った。
「私と似ています」
「本当だ」
「神社、お寺、昔話……」
「五十年前のロキシーみたいだな」
朗が何気なく言った。
ロキシーが止まる。
「……何?」
「今の、もう一度言ってください」
「なんで」
「私と似てるって」
「言ったよ」
「嬉しいです」
「そんなに?」
「はい」
ロキシーは記事を見つめる。
「会ってみたかったな」
「今生きてたら七十歳くらいかな」
「探せませんか?」
「海外に帰ってるなら難しいだろ」
その瞬間。
二人とも少し黙った。
――She did not go home.
彼女は帰国していない。
あの言葉を思い出した。
「……次を見よう」
朗が言った。
◇
夏。
大学祭準備。
留学生交流会。
そして九月。
「あった」
ロキシーがまた止める。
九月二十八日号。
小さな文化欄。
そこにエリザベスの名前があった。
――民俗研究会、秋季調査旅行へ。
「民俗研究会?」
「昔のサークルみたいですね」
記事によれば、学生十名ほどが地方の山村へ調査旅行に出かけたらしい。
民話、祭礼、山岳信仰などを調査するためだった。
「エリザベスも参加してる」
朗が指差す。
「場所は……」
記事の端が破れていた。
「また?」
ロキシーが眉を寄せる。
「偶然ですか?」
「古い新聞だから、破れててもおかしくないけど」
だが、ちょうど地名の部分だけが欠けている。
「別の号に載ってないかな」
二人は調べた。
十月五日。
十月十二日。
「……ない」
朗が呟く。
民俗研究会の記事が突然消えていた。
「調査旅行は?」
「結果報告がない」
「普通はありますか?」
「大きな活動なら、次号に何か載りそうだけど」
ロキシーが少し考える。
「民俗研究会の記録は残っていますか?」
「サークル誌とか?」
「はい」
二人は検索端末へ向かった。
民俗研究会。
古い蔵書が一件ヒットした。
書名。
――『民俗研究会報 第十二号』
発行年。
エリザベスが在籍していた年。
「これだ」
二人は書架へ向かった。
◇
地下書庫。
古い本独特の匂いがする。
「少し怖いです」
ロキシーが小声で言った。
「怖い?」
「暗いから」
「昨日、不審者を追いかけた人の台詞とは思えないな」
「人は追えます。でも幽霊は嫌です」
「基準が分からない」
指定された棚へ行く。
朗が背表紙を確認する。
「十号……十一号……」
そして。
「十二号がない」
「え?」
十三号。
十四号。
十五号。
十二号だけ抜けている。
「貸出中?」
「検索では在架だったけど」
二人は受付へ戻った。
◇
「第十二号ですか?」
司書が端末を確認する。
「確かに在架になっていますね」
「棚にはありませんでした」
「少々お待ちください」
職員が確認へ向かう。
十分後。
戻ってきた。
「見当たりませんね」
「紛失?」
「可能性はありますが……」
ロキシーが聞く。
「最後に借りた人は分かりますか?」
「個人情報なのでお名前は言えません」
「いつ借りられたかだけでも?」
司書が少し迷い、画面を見る。
「最後の貸出は……四年前ですね」
朗の表情が変わった。
「四年前?」
「はい」
「返却されていますか?」
「記録上は返却済みです」
「四年前……」
資料室の職員が言っていた。
エリザベスについて調べた学生がいた。
三年か四年前。
「同じ人?」
ロキシーが囁く。
「可能性はある」
朗は司書に尋ねた。
「返却後に誰かが読んだ記録は?」
「館内閲覧までは分かりません」
「そうですよね」
朗は考えた。
返却された。
なのに本がない。
誰かが勝手に持ち出した?
それなら盗難だ。
しかし。
「アキラ」
「ん?」
「考えてますね」
「ああ」
「何か変?」
「ちょっと」
◇
二人は再び地下書庫へ戻った。
「何を探すんです?」
「十二号」
「だからありませんでした」
「本当に?」
「?」
朗は十一号を抜いた。
かなり薄い。
次に十三号。
同じくらいの厚さ。
「このシリーズ」
「はい」
「背表紙の色が毎年違う」
十一号は茶。
十三号は青。
十四号は緑。
「十二号の色は?」
「分かりません」
「検索画像を見よう」
スマートフォンで図書館のデータベースを確認する。
古い表紙画像。
「あ」
ロキシーが言った。
「赤」
第十二号だけ赤い。
朗は棚を見る。
茶、青、緑。
「赤い本……」
少し離れた棚。
似たサイズの赤い背表紙。
「これ?」
ロキシーが抜いた。
全く違う本だった。
「違うな」
さらに探す。
すると。
「アキラ」
ロキシーが棚の一番下を指差す。
一冊だけ。
背表紙が内側を向いている本があった。
つまり。
ページ側が外を向いている。
「なんで逆向き?」
朗が抜く。
赤い表紙。
表紙には。
――民俗研究会報 第十二号。
「あった!」
ロキシーが思わず大きな声を出す。
「静かに」
「ごめんなさい」
「でも、なんでこんなところに?」
本来の位置から五棚ほど離れている。
しかも背表紙を隠すように逆向き。
「誰かが隠した?」
「たぶん」
「でも盗んではいない」
「そこが変なんだ」
持ち出したいなら持ち出せばいい。
しかしそうしていない。
見つかりにくくしただけ。
「読ませたくない?」
ロキシーが言った。
「そう考えるのが自然かな」
二人は閲覧席へ持っていった。
◇
古いサークル誌。
手書き原稿を印刷したような冊子だった。
秋季調査旅行。
目次に載っている。
「ありました」
ページをめくる。
――秋季民俗調査報告。
調査場所。
「山梨県……」
地名。
山間の小さな温泉町。
「温泉?」
「旅館に泊まったみたいですね」
朗が読む。
神社。
山岳信仰。
古い祭り。
村に伝わる女性の神にまつわる伝承。
そして参加学生。
最後に。
Elizabeth Walker。
「いた」
ロキシーが声を落とす。
彼女自身が書いた文章もあった。
英語と日本語が混ざっている。
ロキシーが読み進める。
「山にある古い祠を調べたみたいです」
「祠?」
「はい」
そして。
ページの途中。
また不自然な跡。
「切り取られてる」
一枚丸ごとではない。
写真だけが切り抜かれていた。
長方形の空白。
「また誰かが消してる……」
朗は裏ページを見る。
写真説明の一部だけ残っている。
――十月二日 ○○旅館前にて。
「旅館」
ロキシーが反応する。
「名前が途中まで残っています」
破れた紙の端。
かろうじて漢字が一文字。
――月。
「月……旅館?」
「分からないな」
ロキシーが次のページをめくる。
最後に、編集後記。
そこには短い文章。
――今回の調査旅行では予想外の出来事があり、一部記事の掲載を見送った。
二人は黙った。
「予想外の出来事」
「エリザベスが帰国したのは十月十二日」
調査旅行は十月上旬。
「直後ですね」
「ああ」
ロキシーが朗を見る。
「何かあった」
「たぶんな」
そのときだった。
冊子の間から。
小さな紙が落ちた。
「何これ?」
古い紙ではない。
明らかに新しい。
二人は固まる。
朗が拾った。
鉛筆書き。
十月二日の写真を探せ。
「……誰が入れた?」
ロキシーが周囲を見る。
誰もいない。
「これ」
朗は紙を裏返した。
何も書いていない。
「脅迫じゃない」
「はい」
「むしろ……」
「私たちを助けようとしている?」
これまで初めてだった。
調べるな。
帰れ。
警告だけでは済まない。
すべて、二人を遠ざけようとする言葉だった。
だが今回は。
――写真を探せ。
誰かが、逆に真相へ導こうとしている。
「つまり」
ロキシーが言う。
「この大学には二人いる」
「何が?」
「私たちに調べてほしくない人」
そして。
「調べてほしい人」
朗は紙を見つめた。
確かに。
そう考えると今までの矛盾が説明できる。
一方は邪魔をする。
一方は手がかりを残す。
「面倒になってきたな」
「面白くなってきました」
「君は本当にそればっかりだな」
ロキシーが笑った。
しかし。
すぐに真剣な顔へ戻る。
「十月二日の写真」
「どこにある?」
「新聞?」
「切り取られてた」
「卒業アルバム?」
「あり得る」
「昔の写真部?」
朗は止まった。
「……写真部」
「はい」
「五十年前でも写真部なら、行事を撮っていたかもしれない」
「探しましょう」
「今日はここまで」
「えー」
「昨日脅されたばかりだろ」
「でも」
「明日」
ロキシーが少し不満そうに頬を膨らませる。
「分かりました」
◇
夕方。
二人は大学を出た。
「今日も駅まで送るよ」
「家まででもいいですよ?」
「遠慮します」
「私の部屋でも」
「もっと遠慮する」
「残念」
朗は苦笑する。
「君さ」
「はい?」
「怖くないの?」
「怖いです」
「それでも調べたい?」
「はい」
「どうして?」
ロキシーは少し考えた。
「エリザベスさんが気になるから」
「同じ留学生だから?」
「それもあります」
しばらく歩く。
「でも一番は」
ロキシーが朗を見る。
「もし私が五十年前にここへ来て、何かあって突然消えたら」
朗は黙る。
「誰かに探してほしいと思うから」
いつもの明るさとは違う声だった。
「誰にも覚えてもらえないのは、寂しいです」
朗は答えを探した。
そして。
「僕なら覚えてるよ」
口から出ていた。
ロキシーが足を止める。
「……本当?」
「いや、今のは」
「本当?」
「……本当」
青い瞳が少し細くなる。
「アキラ」
「何?」
「今のは、かなりポイント高いです」
「何のポイントだよ」
「秘密」
また距離が近くなる。
「近い」
「いいじゃないですか」
「よくない」
「どうして?」
「心臓に悪い」
ロキシーが笑う。
「それは良いことです」
「よくない!」
◇
その夜。
朗は自宅で、今日撮影した資料のメモを整理していた。
エリザベス。
十月二日。
山梨県。
温泉町。
旅館。
消えた写真。
そして。
民俗研究会報の中に残されたメモ。
――十月二日の写真を探せ。
「写真部か……」
スマートフォンで大学の部活動一覧を調べる。
現役の写真部。
創部六十二年。
「ある」
五十年前にも存在していた。
公式サイトには、過去作品のデジタルアーカイブまである。
「明日、行ってみるか」
ページを閉じようとした。
そのとき。
古い写真のサムネイルが目に入った。
「……え?」
五十年前。
秋。
駅前。
学生たち。
撮影旅行。
その一枚。
小さな写真だった。
だが。
金髪らしき外国人女性が写っている。
朗は画像を拡大した。
「エリザベス……?」
そして、その隣。
学生たちの後ろに立つ一人の男性。
朗は目を細めた。
どこかで見た顔だった。
「まさか」
さらに拡大する。
五十年前の写真だ。
当然、現在と同じ顔のはずがない。
なのに。
その男性は。
昨日大学院棟で会った久世直哉に――
不気味なほどよく似ていた。
朗は息を呑んだ。
第4話 消えた本 了




