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3/30

僕たちを見ている誰か

 ――エリザベス・ウォーカーのことを調べるな。


 その一文が、頭から離れなかった。


 翌日。


 朗は講義中も、教授の話をほとんど聞いていなかった。


「……高瀬君」


「はいっ!」


 突然名前を呼ばれ、思わず立ち上がる。


 教室中がこちらを向いた。


 教授が眼鏡の奥から不思議そうに朗を見る。


「いや、出席を取っただけだが」


「……すみません」


 笑い声。


 朗は赤くなって座った。


 隣では。


「ふふっ」


「笑うな」


 ロキシーが口元を押さえている。


「アキラ、昨日からずっと考えていますね」


「そりゃ考えるだろ」


「私のこと?」


「なんでそうなる」


「残念」


「……君、本当に緊張感ないな」


 朗は小声で言った。


 昨日。


 旧図書館棟の展示スペースで、二人は謎の紙を拾った。


 ただの偶然ではない。


 エリザベス・ウォーカーについて調べていたことを、誰かが知っていた。


 つまり。


 誰かが二人を見ていた。


 講義が終わる。


 学生たちが一斉に立ち上がった。


「アキラ」


「ん?」


「今日も調べます?」


 朗は少し迷った。


「……本当はやめたほうがいい」


「でも?」


「気になる」


 ロキシーの顔が輝く。


「さすが助手!」


「誰が助手だ」


「では相棒」


「……それならまだマシ」


 ロキシーが一瞬、目を丸くした。


「今、認めました?」


「何を」


「私たちがコンビだって」


「言ってない」


「言いました」


「言ってない」


「言いました」


「子どもか」


 ロキシーは嬉しそうに笑った。


     ◇


 二人が最初に向かったのは、旧図書館棟だった。


 目的は一つ。


 昨日、廊下の向こうへ消えた人物。


 展示スペースの管理担当なら、何か見ているかもしれない。


「昨日の午後三時頃なんですが」


 朗が受付の男性職員へ尋ねる。


「僕たち以外に、ここへ来た人はいませんでしたか?」


「三時頃?」


 職員は首を傾げた。


「学生は何人か来てましたね」


「男性?」


「男女どちらも」


「黒っぽい服の人は?」


「それだけでは……」


 当然だった。


 ロキシーが聞く。


「監視カメラはありますか?」


「ありますけど、学生さんに見せることはできません」


「大学に申請すれば?」


「事情によりますね」


 朗は昨日の警告文について説明した。


 職員の顔が少し険しくなる。


「それなら学生課を通したほうがいいでしょう」


「そうします」


 話はそこで終わった。


 帰ろうとしたとき。


「あ」


 職員が思い出したように言う。


「そういえば」


 二人が振り返る。


「昨日、展示資料について細かく聞いてきた学生がいましたよ」


「どんな人です?」


「男性です。背が高くて、眼鏡をかけた……」


「何を聞いていました?」


「E・ウォーカーの資料を、学生が閲覧申請しているかどうか」


 朗とロキシーの表情が変わった。


「名前は?」


「たしか……」


 職員が考える。


「久世君だったかな」


「久世?」


「大学院生ですよ。歴史研究科の」


     ◇


「怪しいですね」


 旧図書館棟を出るなり、ロキシーが言った。


「決めつけるなよ」


「どうして?」


「研究者なら資料について聞くことくらいある」


「でもタイミングが良すぎます」


「それはそうだけど」


「調べましょう」


「本人を?」


「はい」


「君、勢いだけで生きてない?」


「行動力です」


「便利な言葉だな」


 調べると、久世直哉は大学院文学研究科、日本近現代史専攻。


 二十四歳。


 研究テーマは大学創設期の文化交流史。


「完全に関係者じゃないですか」


「研究内容としてはな」


「エリザベスのことを調べていても不思議ではない」


「そういうこと」


「でも」


 ロキシーが人差し指を立てた。


「私たちが調べているか確認した」


「そこだな」


 朗も同意した。


 偶然にしては妙だった。


     ◇


 久世直哉は大学院棟のラウンジにいた。


 背が高い。


 細身。


 銀縁眼鏡。


 黒いシャツ。


 いかにも神経質そうな印象だ。


 朗は少し離れた場所から様子を見ていた。


「どうします?」


「普通に聞くしかないだろ」


「私が行きます」


「待て」


「久世さん」


「もう行ってる!」


 ロキシーは迷わず近づいた。


「すみません」


 久世が顔を上げる。


「何?」


「エリザベス・ウォーカーについて教えてください」


 直球すぎる。


 朗は頭を抱えたくなった。


 久世の表情が、一瞬だけ変わった。


「……誰から聞いた?」


「大学資料です」


「君は?」


「ロキシー・ハートマンです。交換留学生です」


「そう」


 久世の視線が朗へ移る。


「そっちは?」


「高瀬朗です」


「君たちか」


 その言葉に朗が反応する。


「僕たち?」


「ああ」


「僕たちのことを知ってるんですか?」


「旧図書館の職員から聞いた」


 嘘ではなさそうだった。


 久世はノートパソコンを閉じた。


「エリザベスについて調べているそうだね」


「はい」


「やめたほうがいい」


 朗とロキシーが同時に固まった。


 昨日の紙。


 ――エリザベス・ウォーカーのことを調べるな。


「どうしてですか?」


 朗が聞く。


 久世は少し沈黙した。


「面倒だからだ」


「面倒?」


「古い噂が多い。資料も不完全。関係者もほとんど亡くなってる。素人が首を突っ込んでも混乱するだけだ」


 ロキシーが尋ねる。


「エリザベスは帰国していないんですか?」


 久世の眉が動いた。


「どこでそれを?」


「展示スペースです」


「……そうか」


「本当なんですか?」


 久世は答えなかった。


 代わりに立ち上がる。


「一つ忠告する」


「何です?」


「彼女について調べても、いい話は出てこない」


「どういう意味ですか?」


「そのままだ」


 久世は鞄を持った。


「大学には、忘れたほうがいい過去もある」


「待ってください」


 ロキシーが呼び止める。


 久世は振り返らない。


「昨日、私たちに紙を置いたのはあなたですか?」


 久世の足が止まった。


 数秒。


「何の話だ?」


「『調べるな』と書いてありました」


「知らない」


 それだけ言って、久世は去った。


     ◇


「怪しい」


 ロキシーは断言した。


「すごく怪しい」


「まあ……」


「犯人?」


「まだ分からない」


「でも『調べるな』と言いました」


「久世さん自身の考えかもしれない」


「昨日の紙と同じです」


「言葉は同じでも、書いたとは限らない」


 ロキシーは朗を見る。


「アキラは慎重ですね」


「君が突っ込みすぎなんだよ」


「良いコンビでしょう?」


 朗は返事をしなかった。


 否定しづらくなっていた。


     ◇


 昼食。


 今日は食堂ではなく、中庭のベンチに座った。


 ロキシーがサンドイッチを食べている。


 朗はコンビニのおにぎり。


「アキラ」


「何?」


「一口ください」


「嫌だよ」


「どうして?」


「自分のあるだろ」


「日本のおにぎりが食べたい」


「売ってるよ」


「アキラのが食べたい」


「……そういう言い方やめろ」


「どうして?」


「誤解されるから」


 ロキシーがにやりとする。


「誰に?」


「周りに」


「別にいいです」


「僕がよくない」


「では半分」


「聞いてないな……」


 仕方なく朗は新しいおにぎりを渡した。


 ロキシーが一口かじる。


「おいしい」


「鮭だからな」


「アキラ」


「何」


「口元」


「え?」


 ロキシーが手を伸ばしてくる。


 親指で朗の唇の横を拭った。


「海苔」


「――っ!」


「取れました」


「自分で取れる!」


「遅いです」


「近いんだよ!」


 朗はベンチの端へ移動した。


 ロキシーも同じだけ近づく。


「なんで来るんだよ!」


「離れたから」


「だから離れたんだよ!」


 ロキシーが笑った。


 そのとき。


 朗は気づいた。


「……ロキシー」


「はい?」


「振り向かないで」


 声を落とした。


 ロキシーの表情が変わる。


「どうしました?」


「後ろ」


「誰かいます?」


「ああ」


 中庭の端。


 植え込みの向こう。


 こちらを見ている人物がいる。


 黒い帽子。


 マスク。


 男女すら分からない。


「昨日の人?」


「分からない」


「追います?」


「待て」


 そう言った瞬間。


 相手が歩き出した。


「あっ」


 ロキシーが立ち上がる。


「ロキシー!」


 追いかけた。


「だから待てって!」


 朗も走る。


     ◇


 建物の裏。


 細い通路。


 人物が角を曲がる。


「待って!」


 ロキシーは速かった。


「なんでそんなに足速いんだよ!」


「スポーツしてました!」


「今言う情報か!」


 角を曲がる。


 誰もいない。


「消えた?」


「そんなわけない」


 左右に道。


 一方は駐輪場。


 一方は研究棟。


「どっち?」


 ロキシーが息を切らせながら尋ねる。


 朗は地面を見る。


「……こっち」


「どうして?」


「雨」


「?」


「昨日降っただろ」


 地面が少しぬかるんでいる。


 研究棟側にだけ、新しい靴跡があった。


「すごい」


「偶然気づいただけ」


「探偵みたい」


「言うと思った」


 二人は研究棟へ入った。


 しかし。


 中には学生が大勢いた。


「分からなくなりました」


「追うのはここまで」


「でも」


「危険だって」


 朗は少し強い口調で言った。


 ロキシーが黙る。


「相手が何者か分からない。もし昨日の紙を置いた人なら、こっちを警戒してる」


「……はい」


「一人で追ったりするなよ」


「アキラも来たでしょう?」


「君が走ったからだろ!」


「来てくれました」


「……」


 ロキシーが微笑む。


「ありがとうございます」


「別に」


 朗は目を逸らした。


     ◇


 夕方。


 二人は学生課へ報告した。


 警告文。


 不審者。


 久世のこと。


 大学側も警備を強めると言った。


「今日は送るよ」


 学生課を出たところで、朗が言った。


「どこまで?」


「駅まで」


「家まででは?」


「なんでだよ」


「危ないですよ?」


「電車の中まで危険なら警察案件だ」


「残念」


 駅へ向かって歩く。


 夕陽。


 春の風。


 ロキシーの金髪が揺れる。


 しばらくして。


「アキラ」


「何?」


「怖いです」


 朗は足を止めた。


 初めて聞いた。


 ロキシーの弱い声。


「……そりゃそうだよな」


「はい」


 彼女はいつも笑っていた。


 事件だと喜んでいた。


 でも。


 本当に怖くないわけではない。


「帰りたい?」


「国に?」


「うん」


 ロキシーは首を振った。


「帰りません」


「即答だな」


「日本に来るのが夢でした」


 少しだけ笑う。


「それに」


「それに?」


「帰ったらアキラに会えなくなる」


「……」


 朗は言葉に詰まった。


「そういうこと平気で言うよな」


「本当だから」


「……外国人ってみんなそうなの?」


「知りません」


「知らないのかよ」


「私は私です」


 ロキシーは朗を見る。


「アキラは?」


「何が?」


「私が帰ったら寂しいですか?」


「……」


「アキラ」


「少しは」


「少し?」


「かなり」


 言ってから後悔した。


 ロキシーの目が輝く。


「かなり?」


「今のなし」


「聞きました」


「忘れろ」


「忘れません」


「忘れろ!」


 ロキシーが楽しそうに笑った。


 さっきまでの不安そうな顔が消えた。


 それならまあ。


 言ってしまった価値はあったのかもしれない。


     ◇


 駅前。


「では、明日」


「一人で行動するなよ」


「はい」


「絶対だぞ」


「はい」


「返事が軽い」


「アキラ」


「何?」


 ロキシーが突然近づいた。


「うわっ」


 顔が近い。


「今日はありがとうございます」


「……どういたしまして」


「護衛のお礼」


「何もいらないよ」


「そう?」


「うん」


 ロキシーは少し考えた。


 そして。


「では貸しにしておきます」


「嫌な予感しかしない」


「そのうち返します」


「返さなくていい」


「楽しみにしてください」


「してない」


 電車が来る。


「また明日、相棒」


 ロキシーが手を振る。


 朗も小さく手を上げた。


 電車が走り去る。


「……相棒、か」


 悪くない。


 そう思ってしまった。


 その瞬間。


 スマートフォンが震えた。


 ロキシーから?


 違う。


 知らない番号。


「……誰だ?」


 メッセージが一件。


 開く。


 画像だった。


「……」


 朗の表情が凍った。


 写っているのは。


 さっきの中庭。


 ベンチに座る朗とロキシー。


 しかも。


 二人がかなり近い距離で話している瞬間だった。


 写真の下に文字。


 たった一文。


次は警告だけでは済まない。


 朗は反射的に顔を上げた。


 駅前。


 人、人、人。


 誰が撮った?


 どこから?


 いつ?


「……ロキシー」


 朗はすぐに彼女へ電話をかけた。


 呼び出し音。


 一回。


 二回。


 三回。


「出てくれ……」


『アキラ?』


「ロキシー!」


『どうしました?』


 声が聞こえた。


 無事。


 まず、それだけで少し安心した。


「今どこ?」


『電車です』


「今日は家まで寄り道するな」


『?』


「何かあったんですか?」


 朗は写真を見た。


 そして。


 今度ばかりは、冗談では済まないと理解した。


「僕たち」


 言葉を選ぶ。


「本当に誰かに見張られてる」


 電話の向こうで。


 ロキシーが黙った。


 春の夕暮れ。


 騒がしい駅前の真ん中で。


 朗は初めて。


 この事件に、本物の悪意があることを感じた。


第3話 僕たちを見ている誰か 了

挿絵(By みてみん)

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