帰ってきた名前
五十年前。
一人の十九歳の留学生が。
日本から消えた。
大学の記録には。
こう残された。
――個人的事情により帰国。
けれど。
彼女は。
帰国していなかった。
名前を変え。
京都で。
生きていた。
◇
「アキラ」
「何?」
「東京です」
「見れば分かる」
「帰ってきました」
「昨日まで京都にいただけだろ」
「でも」
ロキシー・ハートマンは。
新幹線のホームへ降りると。
大きく息を吸った。
「少し懐かしいです」
「京都に三日しかいなかったのに?」
「濃かったですから」
「それはそう」
高瀬朗も。
同意する。
この数日。
あまりにも。
いろいろなことがあった。
エリザベス・ウォーカー。
橘達也。
三崎家。
五十年前の。
本当の出来事。
そして。
今日。
もう一つ。
終わらせるべきことがある。
◇
「緊張しています?」
朗が聞く。
「私?」
「うん」
「少し」
ロキシーは。
自分の胸元を見る。
借りた十字架。
エリザベスが。
五十年前から。
大切にしていたもの。
「エリザベスさんのほうが」
ロキシーが言う。
「もっと緊張してると思います」
「だろうね」
今日。
エリザベスも。
東京へ来る。
目的。
佐伯美津子。
五十年ぶりの。
再会。
◇
午後。
高齢者施設。
佐伯玲奈が。
玄関で待っていた。
「お疲れさま」
「美津子さんは?」
ロキシーが聞く。
「朝から落ち着かなくて」
「覚えてます?」
「今日は、とてもはっきり」
玲奈が。
少し笑った。
「三回も髪を整えてって言われた」
ロキシーの表情が。
柔らかくなる。
「かわいい」
「九十八歳だけどね」
「何歳でもです」
◇
施設の廊下。
朗。
ロキシー。
宮原教授。
佐伯玲奈。
そして。
少し後ろ。
一人の女性。
銀色の髪。
青い瞳。
エリザベス。
いや。
エリーズ・ローラン。
今日は。
そのどちらでもあった。
◇
「大丈夫ですか?」
ロキシーが。
小声で聞く。
「……分からない」
エリザベスが。
苦笑した。
「六十九にもなって」
「はい」
「こんなに緊張するとは思わなかった」
「私も」
「あなたも?」
「アキラに告白されそうになると緊張します」
「されてない!」
朗が。
反射的に言う。
エリザベス。
笑った。
「少し楽になった」
「ロキシー」
「役に立ちました」
「まあ……」
◇
一つの。
部屋。
扉。
玲奈が。
そっと開けた。
「おばあちゃん」
窓際。
白髪の老女。
佐伯美津子。
椅子に座っている。
「来たよ」
「誰が?」
「会いたかった人」
◇
美津子が。
ゆっくり。
入口を見る。
エリザベス。
足が。
止まった。
◇
二人。
何も。
言わない。
◇
五秒。
十秒。
もっと。
長かったように感じた。
◇
「……リジー?」
美津子が。
先に言った。
◇
エリザベスの。
顔。
崩れた。
「美津子」
声が。
震える。
◇
「遅い」
美津子が。
笑う。
「……ごめんなさい」
「五十年よ」
「うん」
「待ったわ」
「うん」
「馬鹿ね」
「うん」
◇
エリザベスは。
美津子の前へ。
膝をついた。
手。
握る。
「会いたかった」
「なら」
美津子の。
皺のある手。
エリザベスの頬へ。
「もっと早く来なさい」
「怖かったの」
「知ってる」
「ずっと」
「知ってるわ」
◇
二人。
泣いていた。
でも。
笑っていた。
◇
ロキシーも。
泣いていた。
「……」
朗が。
横を見る。
「泣いてる」
「泣いてません」
「泣いてるだろ」
「目から水が出ているだけです」
「それを泣いてるって言う」
「アキラ」
「何?」
「ハンカチ」
「はいはい」
朗が渡す。
ロキシー。
受け取る。
「ありがとうございます」
数秒。
「アキラ」
「今度は何?」
「アキラも」
「?」
「少し泣いてます」
「……」
「ハンカチ要ります?」
「君が使ってるだろ」
◇
「リジー」
美津子が。
エリザベスを見る。
「幸せだった?」
同じ質問。
昨日。
ロキシーも。
した。
◇
「うん」
エリザベスは。
今度は。
迷わなかった。
「幸せだった」
「そう」
「美津子は?」
「見れば分かるでしょう」
「分からないわよ」
「九十八まで生きたのよ」
「それだけで?」
「十分」
二人。
笑う。
◇
「結婚した?」
美津子。
「した」
「いい人?」
「最初は」
「最初は?」
「離婚した」
「まあ」
「美津子は?」
「しなかった」
「どうして?」
「いい男がいなかった」
「昔から厳しい」
「あなたが言う?」
◇
五十年。
空白。
それなのに。
少し話すだけで。
まるで。
昨日の続き。
ロキシーが。
小さく言った。
「不思議」
「何が?」
朗。
「時間って」
「うん」
「戻らないけど」
美津子。
エリザベス。
「つながるんですね」
朗は。
少しだけ。
彼女の手へ。
自分の手を。
重ねた。
◇
「アキラ?」
「……何」
「今」
「静かにして」
ロキシー。
少し笑って。
握り返した。
◇
一時間後。
美津子が。
ふと思い出したように。
「リジー」
「何?」
「あなた」
一度。
「私に謝ることがあるでしょう」
エリザベス。
固まる。
「……ある」
「何?」
「連絡をやめたこと」
「それも」
「他に?」
「私が」
美津子。
少し。
怒った顔。
「あなたを殺したって」
「……」
「ずっと思ってた」
◇
エリザベスの。
目。
揺れた。
「美津子」
「名前を変えた」
「うん」
「国へも帰れなかった」
「うん」
「家族にも」
「……」
「全部」
美津子。
声。
震える。
「私が」
「違う」
エリザベス。
すぐ。
否定した。
◇
「私が選んだ」
「でも」
「私が」
一言ずつ。
「選んだの」
◇
「あなたは」
美津子の手。
握る。
「私を殺してない」
「……」
「助けた」
◇
美津子。
目を閉じる。
◇
「あなたが」
エリザベス。
泣きながら。
笑う。
「エリザベス・ウォーカーを隠してくれたから」
「……」
「私は」
胸へ手。
「エリーズとして」
「……」
「生きられた」
◇
美津子の頬から。
涙。
落ちた。
「五十年」
「うん」
「それを」
一度。
「早く言いなさい」
「ごめんなさい」
◇
二人。
また。
笑った。
◇
その日の夕方。
大学。
記者会見。
朗とロキシーは。
会場には。
入らなかった。
大学側の。
問題だからだ。
◇
三崎俊明理事長。
三崎由紀子副理事長。
壇上。
大学は。
正式に。
発表した。
◇
五十年前。
月姫山研修施設計画。
土地取得を巡る。
不適切な手続き。
当時の大学幹部が。
把握していた可能性。
外国人留学生。
エリザベス・ウォーカーに関する。
大学内部記録。
帰国を確認しないまま。
処理した事実。
そして。
それらを。
長年。
十分に検証してこなかったこと。
◇
「本学は」
三崎俊明が。
カメラの前で。
頭を下げる。
「組織の名誉を守ることと」
「……」
「組織の過ちを隠すことを」
「……」
「混同していました」
◇
深く。
長く。
頭を下げた。
◇
ただし。
一つ。
発表されなかった。
エリザベスの。
現在の名前。
居場所。
家族。
すべて。
本人の希望どおり。
伏せられた。
◇
大学公式記録。
そこも。
訂正されることになった。
――個人的事情により帰国。
その一文。
削除。
代わりに。
大学による帰国確認は行われておらず、当時の記録には重大な不備があった。
◇
「消えましたね」
ロキシーが。
スマートフォンで。
大学の発表を見る。
「うん」
「嘘」
「ああ」
「でも」
少し。
画面を見る。
「エリザベスという名前は」
「?」
「消えなかった」
◇
朗も。
ページを見る。
大学史。
エリザベス・ウォーカー。
かつて。
帰国した。
そう処理された。
留学生。
今は。
違う。
◇
大学の不正を。
最初に見つけた学生。
その事実が。
歴史へ。
戻った。
◇
「これで」
朗が言う。
「五十年前の事件は」
「終わり?」
「たぶん」
◇
現在の事件。
そちらも。
整理されていった。
◇
遠山雅人。
最初の脅迫文と。
写真220の持ち出し。
本人も。
認めた。
大学は。
処分を検討。
窃盗については。
葛城家との調整と。
捜査が続く。
◇
片桐浩一。
写真217。
218。
匿名で。
二人を。
真相へ導いた。
手段については。
大学から。
注意を受けた。
しかし。
父・片桐信夫の関与資料を。
すべて。
第三者委員会へ提出した。
◇
佐伯玲奈。
ロキシーを。
旧診療所へ誘導。
閉じ込めたことについて。
きつく。
注意された。
「当然です」
朗。
そこだけは。
譲らなかった。
◇
神谷圭介。
葛城家への侵入。
写真220の窃取。
そして。
ロキシーを。
旧保健室へ閉じ込めた。
警察の。
捜査対象。
◇
ただ。
彼も。
すべてを認め。
橘達也とのやり取りを。
提出した。
◇
橘達也。
匿名通信。
脅迫。
不正アクセス。
神谷たちへの働きかけ。
大学資料の隠蔽に関わる行為。
警察が。
事実関係を。
調べている。
まだ。
すべて。
司法判断が出たわけではない。
けれど。
少なくとも。
ロキシーと朗へ。
届いていた脅迫は。
止まった。
◇
三崎俊明。
大学理事長。
第三者委員会の。
結論が出るまで。
職務の一部を。
副理事長へ委ねた。
◇
五十年前から。
続いた。
長い。
長い。
沈黙。
ようやく。
終わった。
◇
二日後。
大学。
昼休み。
朗とロキシーは。
最初に。
事件について話した。
中庭へ。
戻ってきた。
「静かですね」
「普通の大学だから」
「最近」
ロキシー。
周囲を見る。
「事件がないと」
「?」
「少し変です」
「完全に毒されてる」
「次の事件」
「探すな」
「でも」
「絶対探すな」
◇
ベンチ。
二人。
座る。
◇
「アキラ」
「何?」
「終わりました」
「うん」
「本当に」
「たぶん」
「たぶん?」
「人生に絶対はない」
「格好いいこと言いました?」
「普通のこと」
◇
少し。
風。
金色の髪。
揺れる。
◇
「じゃあ」
ロキシーが。
朗へ。
身体を向ける。
「何?」
「約束」
「何の?」
「忘れました?」
「……」
朗。
視線。
逸らす。
◇
「事件が終わったら」
ロキシー。
一言ずつ。
「ちゃんと」
「……」
「言う」
「……」
「って」
◇
「覚えてた?」
「一字一句」
「怖いな」
「待ってました」
◇
朗。
心臓。
速くなる。
「今?」
「はい」
「ここで?」
「はい」
「昼休み」
「はい」
「人いるよ」
「いますね」
「……」
◇
ロキシー。
じっと。
朗を見る。
◇
「逃げます?」
その一言。
◇
以前なら。
逃げたかもしれない。
冗談にした。
話題を。
変えた。
◇
でも。
朗は。
立ち上がった。
◇
「アキラ?」
「ここでは言わない」
「逃げた!」
「違う」
◇
朗は。
ロキシーを見る。
「明日」
「?」
「空いてる?」
◇
ロキシーの。
青い目。
大きくなる。
「一日?」
「一日」
「デート?」
「……」
一秒。
二秒。
◇
「うん」
◇
初めて。
朗自身が。
そう認めた。
◇
ロキシー。
完全に。
固まった。
「……」
「何?」
「もう一回」
「言わない」
「アキラ!」
◇
「明日」
朗。
少し。
恥ずかしそうに。
笑う。
「事件じゃないところへ行こう」
◇
「二人で?」
「二人で」
「調査なし?」
「なし」
「教授なし?」
「なし」
「警察なし?」
「当然」
「脅迫状なし?」
「絶対なし」
◇
ロキシー。
両手。
口元。
そして。
笑顔。
「行きます!」
◇
「声大きい」
「無理です!」
◇
朗も。
笑った。
◇
明日。
初めて。
二人は。
事件ではなく。
互いのためだけに。
出かける。
◇
そして。
朗は。
決めていた。
◇
今度こそ。
ロキシーが。
先に言う前に。
◇
自分から。
伝える。
◇
――好きだ。
と。
第29話 帰ってきた名前 了




