最後の脅迫者
聖ミカエル修道院。
午後。
エリザベス――。
今はエリーズ・ローランと名乗る女性から借りた十字架を。
ロキシーは。
両手で大切そうに握っていた。
「アキラ」
「何?」
「似合います?」
首から。
小さな十字架。
「うん」
「本当?」
「普通に似合ってる」
「普通に?」
「そこ引っかかる?」
ロキシーが。
少し笑う。
「エリザベスさんに返すまで」
「うん」
「絶対なくしません」
「君、一回スマホ落としてるけど」
「あれは目印です!」
「分かってる」
「髪留めも」
「分かってるって」
「私、ちゃんと考えてます」
「最近はね」
「最近?」
頬を膨らませる。
朗は。
それを見て。
ようやく。
少し肩の力を抜いた。
◇
窓際。
エリザベスが。
二人を見ている。
「いいわね」
「何がです?」
ロキシーが聞く。
「若いって」
「エリザベスさんも若いです」
「六十九よ」
「まだ若いです」
エリザベスは笑った。
「あなた、誰にでもそういうこと言う?」
「いいえ」
「本当に?」
「アキラには言いません」
「なぜ僕?」
「アキラは若いので」
「会話がよく分からない」
◇
そのときだった。
修道院の入口。
車の音。
一台。
黒いセダン。
エリザベスの笑顔が。
消えた。
「……」
「どうしました?」
朗が聞く。
エリザベスは。
窓の外を見ている。
「車?」
「違う」
「?」
「降りてきた人」
◇
五十代後半。
眼鏡。
濃紺のスーツ。
革の鞄。
男。
「知ってるんですか?」
ロキシーが聞く。
エリザベスは。
小さく首を横に振った。
「本人は知らない」
「では?」
少し。
顔を曇らせる。
「似てる」
「誰に?」
答え。
聞く前に。
朗には分かった。
「橘徹」
エリザベスが。
頷いた。
◇
修道女が。
廊下から。
応接室へ入ってきた。
「お客様です」
「名前は?」
宮原教授が聞く。
「橘達也さん」
やはり。
朗。
立ち上がった。
「先生」
「ああ」
宮原教授も。
すでにスマートフォンを持っている。
東京の警察から。
橘達也へ接触しないよう。
連絡を受けていた。
「警察へ」
「連絡する」
◇
「待って」
エリザベスが言った。
「でも」
「会うわ」
「危険です」
朗が。
すぐ止める。
「分かってる」
「なら」
「五十年前」
エリザベスが。
十字架のない胸元へ。
手を置く。
「私は彼の父親から逃げた」
「……」
「今度は」
窓の外。
男。
「逃げない」
◇
朗は。
少し迷った。
「一人では駄目です」
「もちろん」
「僕たちも」
「アキラ」
ロキシーが。
横へ来る。
「一緒です」
朗が。
ロキシーを見る。
エリザベスも見る。
「あなたたち」
「?」
「いつもそうなの?」
「何が?」
「二人セット」
ロキシー。
即答。
「はい」
「勝手に決めるな」
「違います?」
「……」
朗。
否定できなかった。
◇
十分後。
礼拝堂横。
応接室。
橘達也は。
静かに座っていた。
「エリーズ・ローランさん」
最初に。
そう呼んだ。
エリザベスの表情が。
わずかに変わる。
「その名前を」
「存じています」
「どうして?」
「父の記録で」
「橘徹?」
「はい」
◇
達也は。
朗たちへ。
軽く頭を下げた。
「高瀬朗さん」
「……」
「ロキシー・ハートマンさん」
「こんにちは」
ロキシーは。
目を逸らさない。
「宮原教授も」
「橘先生」
宮原教授。
「なぜ京都へ?」
「仕事です」
「何の?」
「顧客の利益を守る」
その言葉。
朗が。
引っかかった。
「顧客?」
「大学法人です」
「大学は」
宮原教授が言う。
「あなたに京都へ来るよう依頼していない」
橘。
表情。
少しだけ。
変わった。
「……そうですか」
◇
「橘さん」
朗が言った。
「僕たち」
「はい」
「あなたを探していました」
「なぜ?」
「分かってるでしょう」
「いいえ」
「お父さん」
橘徹。
五十年前。
大学の顧問弁護士。
エリザベスへ圧力をかけた人物。
「父のことと」
達也が。
静かに答える。
「私のことは別です」
「僕もそう思います」
橘が。
少し意外そうに。
朗を見る。
◇
「親がやったことを」
朗は続ける。
「子どもが背負う必要はない」
「……」
「神谷さんにも」
「……」
「遠山さんにも」
「……」
「同じことを思いました」
一息。
「でも」
朗の声が。
少し低くなる。
「自分で同じことをしたら」
「……」
「話は別です」
◇
橘達也。
表情。
変わらない。
「何の話でしょう」
「脅迫状」
「知りません」
「匿名メール」
「知りません」
「神谷圭介さん」
「大学職員ですね」
「写真220」
一瞬。
本当に。
わずかだった。
橘の。
右手。
動いた。
朗は。
見逃さなかった。
◇
「知ってますね」
「大学の資料なら」
「違う」
朗。
真っ直ぐ。
「写真220です」
橘。
黙る。
「葛城宗一郎」
「……」
「エリザベス・ウォーカー」
「……」
「神谷隆三」
「……」
「遠山征二」
そして。
「橘徹」
橘達也が。
眼鏡を。
ゆっくり直した。
◇
「ずいぶん」
小さく。
「調べましたね」
「はい」
「学生なのに」
「学生だから駄目ですか?」
「いいえ」
「だったら」
朗が言う。
「教えてください」
「何を?」
「あなたは」
一呼吸。
「何を隠したいんですか」
◇
橘は。
少し笑った。
「高瀬君」
「はい」
「世の中には」
手を組む。
「知らなくてもいいことがあります」
「それ」
ロキシーが。
口を挟んだ。
「嫌いです」
橘。
彼女を見る。
「ハートマンさん」
「はい」
「あなたには関係のない」
「あります」
「なぜ?」
「エリザベスは」
ロキシーが。
エリザベスを見る。
「私の友達です」
エリザベスが。
驚いて。
ロキシーを見る。
「会ったの今日だけど?」
「友達になるのに日数は関係ありません」
「……あなた、本当に面白いわね」
◇
橘が。
息を吐いた。
「その性格が」
「?」
「五十年前も」
一瞬。
「問題を大きくした」
部屋の空気。
変わった。
エリザベスが。
橘を見る。
「今」
静かに。
「何と言いました?」
◇
橘自身も。
言い過ぎた。
そう気づいたようだった。
「五十年前も?」
朗が言う。
「お父さんの記録を」
「……」
「かなり詳しく読んだんですね」
橘。
答えない。
◇
「父は」
やがて。
静かに話し始めた。
「亡くなる前」
「はい」
「私へ一つの箱を渡しました」
「箱?」
エリザベスの目。
動く。
「木箱?」
「違います」
「では?」
「法律事務所の保管箱です」
◇
中。
大学関係資料。
神谷隆三。
遠山征二。
土地売買。
会計記録。
葛城。
久世。
そして。
エリザベス。
「全部?」
「ほぼ」
「なぜ」
宮原教授が聞く。
「廃棄しなかった?」
橘は。
苦く笑う。
「弁護士だからですよ」
「?」
「父は」
一度。
「人を信用していなかった」
◇
神谷隆三に。
何かあった場合。
遠山征二に。
裏切られた場合。
大学側が。
橘徹へ。
責任を転嫁した場合。
そのとき。
自分を守る。
証拠。
「保険」
朗が言う。
「そうです」
◇
「だから」
ロキシー。
「あなたは全部知っていた」
「十五年前から」
「それなのに」
「黙っていた」
「なぜ?」
橘達也は。
即答しなかった。
「法律事務所を」
「?」
「守るためです」
◇
橘総合法律事務所。
父。
祖父。
家族。
職員。
顧客。
「五十年前のことが公表されれば」
「はい」
「父は」
「……」
「大学の不正を隠した弁護士になる」
「事実では?」
ロキシー。
容赦ない。
橘の眉。
わずかに動く。
◇
「そうでしょう」
エリザベスが言った。
「あなたのお父様は」
橘を見る。
「私を脅した」
「……」
「何度も」
「……」
「十九歳の外国人学生を」
静か。
だからこそ。
重かった。
「大学へ逆らえば」
「……」
「滞在資格を失う」
「……」
「帰国させる」
「……」
「将来を潰す」
エリザベスの。
目。
まっすぐ。
「そう言いました」
◇
橘達也は。
視線を。
落とした。
「父は」
「?」
「大学から指示された」
「そうでしょうね」
「なら」
「でも」
エリザベスが。
遮る。
「断ることもできた」
「……」
◇
「怖かったのだと思います」
エリザベス。
静かに続ける。
「お父様も」
「……」
「葛城先生も」
「……」
「宮原さんのお父様も」
「……」
「みんな」
一度。
笑う。
「怖かった」
◇
「でも」
「……」
「怖いからって」
一言。
「何をしてもいいわけじゃない」
◇
朗は。
ロキシーを見た。
彼女も。
こちらを見る。
同じ言葉。
何度も。
二人が。
この事件で。
見てきたもの。
◇
「橘さん」
朗が言う。
「現在の脅迫」
「関わっていません」
「では」
朗。
スマートフォン。
コピー。
匿名メール。
神谷圭介へ送られた文章。
表示する。
「これ」
橘。
一瞬。
見る。
「知らない」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ」
ロキシーが。
突然。
言った。
「どうして」
「?」
「私が旧保健室にいたことを知っているんです?」
橘の目。
止まった。
◇
朗。
一瞬。
意味が分からなかった。
ロキシーは。
続ける。
「さっき」
「……」
「『五十年前も問題を大きくした』と言いました」
「……」
「でも」
一歩。
「今日」
この場で。
旧保健室の話は。
誰もしていない。
◇
橘の表情。
初めて。
完全に。
消えた。
「それだけでは」
「あります」
ロキシーが。
青い瞳で。
男を見る。
「神谷さんが」
旧保健室で。
『君たちに調査をやめてもらう』
そう言った。
さらに。
直後。
匿名の相手から。
失敗したな。
もう、お前は必要ない。
「その人は」
ロキシーが言う。
「私が保健室にいたことを」
「……」
「リアルタイムで知っていました」
◇
「偶然」
「では」
朗が続ける。
「第24話の会議」
顧問弁護士。
橘達也。
そこにいた。
「神谷さんの行動」
「……」
「副理事長のカード」
「……」
「警察がどこまで調べているか」
「……」
「全部知れる立場だった」
◇
橘。
黙る。
◇
朗のスマートフォン。
震える。
メッセージ。
宮原教授。
いや。
教授は。
同じ部屋。
警察から。
転送。
「……来ました」
「何が?」
ロキシー。
「匿名メールの」
一息。
「発信元」
◇
完全な特定ではない。
海外サーバー。
複数経由。
だが。
一つ。
送信に使われた端末。
過去。
大学法人ネットワークへ。
何度も接続していた。
端末登録名。
画面。
朗。
読む。
TACHIBANA-T
◇
静寂。
◇
「橘達也」
宮原教授が。
言った。
「あなたですね」
◇
橘は。
長く。
黙っていた。
そして。
眼鏡を外した。
「……そうです」
◇
ロキシーが。
息を呑む。
朗は。
拳を握る。
◇
「脅迫状」
朗が聞く。
「全部?」
「全部ではありません」
「どれ?」
「最初のものは遠山君だ」
「知ってた?」
「ああ」
「どうして?」
「彼も」
橘は。
少し笑う。
「使えると思った」
◇
遠山。
祖父の名誉。
神谷。
祖父の罪。
大庭。
エリザベスの人生。
それぞれ。
弱いところ。
守りたいもの。
橘は。
知っていた。
「あなた」
ロキシーが。
顔を険しくする。
「みんなを」
「……」
「利用した?」
「必要だった」
「何のために!」
「終わらせるためだ!」
橘の声。
初めて。
大きくなる。
◇
「五十年前の事件を」
「……」
「今さら暴いて」
「……」
「誰が幸せになる!」
机へ。
拳。
「死んだ人間!」
「……」
「老いた人間!」
「……」
「何も知らない子どもや孫!」
「……」
「それを」
朗たちを見る。
「全部引きずり出して!」
「……」
「正義だと言うのか!」
◇
誰も。
すぐには。
答えなかった。
◇
朗が。
静かに言った。
「僕は」
「……」
「正義なんて」
一度。
「よく分かりません」
橘が。
見る。
「でも」
「……」
「あなたが」
朗。
まっすぐ。
「ロキシーを脅していい理由にはならない」
◇
ロキシーの目が。
少し揺れる。
◇
「大学を守る」
「……」
「家族を守る」
「……」
「事務所を守る」
朗。
一つずつ。
「それは」
「……」
「分かります」
「なら」
「でも」
一歩。
「そのために」
声。
強くなる。
「今いる人を傷つけたら」
「……」
「五十年前と同じです」
◇
橘は。
何も言えなかった。
◇
エリザベスが。
立ち上がった。
「橘さん」
「……はい」
「私は」
一息。
「公表して構いません」
全員。
彼女を見る。
「エリザベス」
佐伯玲奈。
「ただし」
エリザベス。
「条件があります」
◇
「私の」
自分の胸へ。
手。
「今の名前」
「……」
「住所」
「……」
「家族」
「……」
「それは」
一言。
「公表しないでください」
◇
「五十年前の」
声。
少し。
震える。
「エリザベス・ウォーカーとして」
「……」
「証言します」
◇
ロキシーの。
目に。
涙。
◇
「私は」
エリザベス。
微笑む。
「逃げたことを」
「……」
「恥じていない」
「……」
「でも」
一度。
「黙ったことで」
「……」
「また誰かが苦しんだなら」
神谷。
遠山。
宮原。
大庭。
そして。
ロキシー。
「今度は」
静かに。
「私も戻ります」
◇
ロキシーは。
首にかけた。
十字架を。
握った。
◇
そのとき。
外。
車。
複数。
京都府警。
東京から連絡を受けた。
捜査員。
◇
橘が。
窓を見る。
「警察を」
「呼びました」
朗が答えた。
「いつ?」
「あなたが来たとき」
「……」
「怖かったので」
橘が。
少し。
笑った。
「怖かった?」
「はい」
「なのに」
「怖くても」
朗は。
隣。
ロキシーを見る。
「逃げないって」
「……」
「教わったんです」
◇
ロキシー。
頬。
赤くなる。
「私?」
「君」
「……」
「何?」
「嬉しいです」
◇
警察。
橘へ。
任意同行。
求める。
橘は。
抵抗しなかった。
◇
扉。
出る直前。
橘が。
振り返る。
「高瀬君」
「はい」
「一つだけ」
「何です?」
「私は」
一瞬。
「写真220を」
「……」
「神谷から受け取っていない」
朗。
眉を寄せる。
「では?」
「あの写真を」
少し。
苦く笑う。
「大庭の家へ置いたのは」
「……」
「私じゃない」
◇
「え?」
ロキシー。
「では誰が?」
橘。
首を横に振る。
「知らない」
◇
警察とともに。
姿を消す。
◇
部屋。
残された。
朗。
ロキシー。
エリザベス。
宮原教授。
佐伯玲奈。
◇
「まだ」
ロキシーが。
呟く。
「終わってない?」
「たぶん」
朗。
少し考える。
写真220。
神谷が盗んだ。
橘が。
神谷を操った。
だが。
その後。
神谷の手を離れ。
大庭家へ。
「誰が運んだ?」
◇
そのとき。
エリザベスが。
静かに。
「あの写真」
「はい?」
「もう一度」
「?」
「見せてくれる?」
◇
朗。
スマートフォン。
写真220。
表示。
エリザベス。
葛城。
神谷隆三。
遠山征二。
宮原正臣。
五十年前。
夜明け。
◇
エリザベスが。
画面を。
拡大する。
「ここ」
「?」
写真。
ずっと。
誰も。
注目していなかった場所。
山道の。
さらに奥。
一台。
車。
小さく。
写っている。
「車?」
「ええ」
「誰の?」
エリザベスの。
表情。
変わる。
「これ」
一言。
「橘さんの車じゃない」
◇
「では?」
「神谷さんでもない」
「誰?」
◇
エリザベス。
写真を見つめる。
「大学の」
一度。
記憶を探る。
「創立者一族の車」
◇
朗の呼吸。
止まる。
◇
「三崎?」
宮原教授。
顔を上げる。
◇
五十年前。
事件現場には。
まだ。
誰かがいた。
◇
大学。
神谷。
橘。
遠山。
そのさらに上。
◇
創立者一族。
そして。
事件は。
最後の二話を前に。
もう一度。
大学の頂点へ。
戻った。
第27話 最後の脅迫者 了




