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26/30

エリザベス・ウォーカー

 翌朝。


 京都。


 聖ミカエル修道院。


 ロキシー・ハートマンは。


 いつになく静かだった。


「ロキシー」


「はい」


「緊張してる?」


「……とても」


 高瀬朗が隣を見る。


 昨日まで。


 エリザベスに会いたい。


 そう言い続けていた。


 だが。


 本当に会えるとなった途端。


 ロキシーは。


 朝からほとんど喋らない。


「珍しいな」


「何がです?」


「君がこんな静かなの」


「失礼です」


 少しだけ。


 いつもの顔。


 朗は笑った。


「そのほうがいい」


「?」


「ロキシーらしい」


「……」


 青い瞳が。


 朗を見る。


「アキラ」


「何?」


「手」


「え?」


「貸してください」


「緊張対策?」


「はい」


 朗は。


 何も言わず。


 右手を差し出した。


 ロキシーが握る。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


     ◇


 午前十時。


 応接室。


 宮原教授。


 佐伯玲奈。


 修道女。


 朗。


 ロキシー。


 ただし。


 警察関係者は別室。


 本人が。


 大人数との面会を望まなかったからだ。


 大庭誠も。


 警察の事情聴取へ向かっている。


「間もなく」


 修道女が言う。


「いらっしゃいます」


 ロキシーの指。


 朗の手を。


 少し強く握った。


「痛い」


「あっ」


「冗談」


「アキラ!」


 少し。


 緊張がほぐれた。


     ◇


 廊下。


 足音。


 ゆっくり。


 近づいてくる。


 そして。


 扉が開いた。


     ◇


 一人の女性。


 六十代後半。


 銀色を帯びた金髪。


 肩ほどの長さ。


 青い瞳。


 細身。


 淡い色のコート。


 年齢相応に。


 皺はある。


 だが。


 背筋は。


 まっすぐだった。


 ロキシーが。


 息を止めた。


「……」


 写真。


 五十年前。


 十九歳。


 笑っていた。


 エリザベス・ウォーカー。


 その面影が。


 確かに。


 残っている。


     ◇


「こんにちは」


 女性が。


 日本語で言った。


 発音は。


 ほとんど自然だった。


「こんにちは」


 朗も。


 ロキシーも。


 頭を下げる。


 女性は。


 ロキシーを見た。


 しばらく。


 何も言わない。


 そして。


「あなたが」


 少し笑った。


「ロキシー?」


「はい」


「本当に」


 目を細める。


「私によく似てる」


     ◇


「みんなに言われます」


 ロキシーが。


 少し照れた。


「でも」


 女性は首を振る。


「顔じゃないわ」


 朗。


 思わず。


 先を予想した。


「目、ですか?」


 女性が。


 朗を見る。


「正解」


「やっぱり」


「何です?」


 ロキシーが朗を見る。


「美津子さんにも言われただろ」


「……」


 女性の。


 顔が変わる。


「美津子?」


「はい」


 佐伯玲奈が。


 前へ出る。


「祖母は元気です」


 女性の目に。


 一瞬で。


 涙が浮かんだ。


     ◇


「九十八歳です」


「……」


「あなたのことを」


 玲奈が続ける。


「今でも覚えています」


 女性は。


 椅子へ座る前に。


 目元を押さえた。


「そう」


 声。


 震えている。


「美津子、生きてるのね」


「はい」


「よかった……」


     ◇


 少し。


 時間を置いた。


 お茶。


 静かな応接室。


 そして。


 女性が。


 自分から言った。


「今は」


 一呼吸。


「エリーズ・ローランと名乗っています」


「はい」


「でも」


 ロキシーを見る。


「今日は」


 小さく。


 微笑んだ。


「エリザベスでもいいわ」


     ◇


 ロキシーの目に。


 涙が浮かんだ。


「……エリザベス」


「はい」


「会いたかったです」


 女性。


 少し驚く。


「どうして?」


「ずっと」


「……」


「あなたを探してました」


「事件のため?」


 ロキシーは。


 首を横に振った。


「途中から」


「?」


「あなたが」


 一度。


 言葉に詰まる。


「ちゃんと生きたのか」


「……」


「それが知りたかったです」


 エリザベスは。


 ロキシーを。


 長く見た。


     ◇


「生きたわ」


 静かに。


「とても長く」


「……」


「失敗もしたし」


「はい」


「結婚もした」


「はい」


「離婚もした」


「え?」


 ロキシーが。


 思わず声を出す。


 エリザベスが笑った。


「そこ驚くところ?」


「すみません」


「娘もいる」


「お子さん」


「もう四十代」


「……」


 五十年。


 本当に。


 人生が。


 そこにあった。


     ◇


「仕事もした」


「何を?」


「翻訳」


「!」


 ロキシーの顔が明るくなる。


「英語と日本語?」


「それからフランス語」


「すごい」


「本も訳した」


「本当ですか?」


「名前は違うけどね」


 エリーズ・ローラン。


 その名前で。


 一人の女性が。


 日本で。


 生きていた。


     ◇


「幸せでした?」


 ロキシーが。


 聞いた。


 朗が。


 少し驚く。


 エリザベスも。


 少し考えた。


「……ずいぶん大きな質問ね」


「ごめんなさい」


「いいの」


 窓の外。


 庭。


 見る。


「幸せだった日も」


「……」


「そうじゃない日も」


「……」


「たくさんあった」


 そして。


 笑う。


「だから」


「はい」


「普通に幸せだったんだと思う」


     ◇


 ロキシーが。


 目を伏せた。


「よかった」


 本当に。


 それだけ。


 呟いた。


     ◇


「あなたたち」


 エリザベスが。


 朗とロキシーを交互に見る。


「恋人?」


「違います!」


 朗。


 即答。


「まだです」


 ロキシー。


 即答。


「まだって何!?」


 エリザベスが。


 声を上げて笑った。


「若いわね」


「ロキシー!」


「事実です」


「事実じゃない!」


     ◇


「高瀬君」


 エリザベスが朗を見る。


「はい」


「この子」


 ロキシー。


「大変でしょう」


「かなり」


「アキラ!」


「でも」


 朗が。


 少しだけ笑う。


「いないと」


 止まる。


 ロキシーを見る。


「……困ります」


 ロキシー。


 黙った。


「それだけ?」


「今日はそれだけ」


 エリザベスは。


 二人を見て。


 何か分かったように。


 微笑んだ。


     ◇


「事件の話」


 エリザベス自身から。


 切り出した。


「聞きたいのでしょう?」


 朗が。


 すぐ答える。


「話したくないことは」


「?」


「話さなくて大丈夫です」


「……」


「僕たちは」


 ロキシーを見る。


「聞くために追いかけ回したくない」


 エリザベスは。


 少し驚いた。


「あなた」


「はい?」


「最初からそうだった?」


「いいえ」


 朗は苦笑。


「最初は完全に好奇心です」


「正直ね」


「よく言われます」


     ◇


「それなら」


 エリザベスが言った。


「私から」


「?」


「話しておきたいことだけ」


 朗たちは。


 頷いた。


     ◇


 五十年前。


 月姫山。


 土地。


 同意書。


 大学。


 葛城宗一郎。


 久世誠一。


 神谷隆三。


 遠山征二。


 これまで集めてきた情報。


 その多くは。


 正しかった。


「葛城先生を」


 エリザベスが。


 少し寂しそうに笑う。


「ずっと悪い人だと思っていた」


「手紙にも」


「ええ」


 ――葛城先生を信じないで。


「でも」


「?」


「山で」


 エリザベスが。


 手を見る。


「戻ってきた」


     ◇


 一度。


 神谷側へ。


 資料を渡そうとした葛城。


 だが。


 エリザベスが。


『学問は何のためにあるんですか?』


 そう言ったあと。


 彼は。


 考えを変えた。


「私を」


「……」


「逃がしてくれた」


 ロキシーが。


 静かに聞いている。


「謝れなかった」


「葛城先生に?」


「ええ」


「先生は」


 朗が言う。


「亡くなるまであなたに謝っていました」


 エリザベスが。


 目を閉じた。


「そう」


     ◇


 少し。


 沈黙。


「だったら」


 エリザベスが。


 微笑む。


「お互い様ね」


     ◇


「一つ」


 朗が。


 日記のコピーを出した。


「これだけ」


 エリザベスの目。


 変わる。


 十月一日。


 The man said his name was...


 破れ。


 残る。


 T


「覚えていますか?」


 長い。


 沈黙。


 エリザベスは。


 紙から。


 目を離さなかった。


「……覚えてる」


 朗の背筋が。


 伸びる。


「誰です?」


     ◇


「橘」


「え?」


「橘徹」


 朗。


 初めて聞く名前。


 だが。


 宮原教授の。


 顔色が。


 変わった。


「橘……」


「先生?」


「待って」


 教授。


 記憶。


「大学の」


 一言。


「元顧問弁護士だ」


     ◇


 五十年前。


 橘徹。


 二十九歳。


 若手弁護士。


 大学法人の。


 法律顧問事務所。


「神谷隆三に」


 エリザベスが言う。


「頼まれていた」


「何を?」


「私を説得すること」


「説得?」


「資料を返せ」


「……」


「大学の外へ話すな」


「……」


「もし話したら」


 一瞬。


「留学生資格に問題が出る」


     ◇


「脅迫」


 ロキシーが言う。


「そうね」


「だから日記に」


「誰かにつけられている」


「橘が?」


「何度か」


     ◇


「でも」


 朗が言う。


「山にもいた?」


 エリザベス。


 首を横に振る。


「分からない」


「少なくとも見なかった?」


「ええ」


「事件後は?」


 表情。


 変わる。


「東京で」


「……」


「もう一度来た」


     ◇


 聖和女子学院。


 佐伯美津子が。


 エリザベスを匿っていた。


 十月九日。


 夜。


 学校の外。


 橘徹。


「どうやって居場所を?」


「分からない」


「何を言ったんです?」


 エリザベスが。


 当時の言葉を。


 思い出す。


『帰国してください』


『それが皆のためです』


     ◇


「帰国しなかった」


 ロキシーが言う。


「ええ」


「だから京都へ?」


「それも理由の一つ」


     ◇


 橘徹。


 その後。


 大学法人の。


 正式な顧問弁護士となった。


 長年。


 大学の法務を担当。


「亡くなったのは」


 宮原教授。


 スマートフォンで調べる。


「十五年前」


「じゃあ」


 朗が言う。


「現在の事件には」


「本人は関われない」


「でも」


 教授。


 画面を見る。


「法律事務所は残ってる」


「名前は?」


     ◇


 橘総合法律事務所。


 大学法人。


 現在の。


 顧問法律事務所。


「現在の代表は」


 宮原教授。


 読む。


「橘達也」


「関係は?」


「徹の長男」


 年齢。


 五十八歳。


 そして。


 大学法人。


 顧問弁護士。


     ◇


 朗の頭。


 何かが。


 つながった。


 第24話。


 法人本部。


 三崎俊明。


 三崎由紀子。


 警察。


 そして。


 大学法人の。


 顧問弁護士。


「……いた」


 ロキシーが。


 朗を見る。


「何が?」


「会議」


「?」


「顧問弁護士」


 ずっと。


 いた。


 同じ部屋に。


     ◇


「名前」


 朗が。


 宮原教授へ聞く。


「先生」


「……」


「以前、来てた弁護士」


 宮原教授も。


 気づいた。


 顔色。


 変わる。


「橘達也だ」


     ◇


 ロキシーが。


 息を呑む。


 最初から。


 大学上層部。


 警察。


 資料。


 調査状況。


 すべて。


 把握できる立場。


「マスターカードは?」


 朗が聞く。


「顧問弁護士なら」


 宮原教授。


「役員フロアへ入れる日もある」


「副理事長室も?」


「手続き次第では」


     ◇


「でも」


 ロキシーが言う。


「なぜ?」


 五十年前の。


 父の罪。


 隠すため?


「違う」


 エリザベスが。


 静かに言った。


 一同。


 彼女を見る。


「橘さんが」


「徹?」


「ええ」


 エリザベスの顔が。


 少し険しくなる。


「守ろうとしていたのは」


「大学?」


「それだけじゃない」


「では?」


     ◇


「書類」


 エリザベスが言う。


「土地だけじゃなかった」


「……」


 朗。


 ロキシー。


 動きを止める。


「木箱の中に」


「はい」


「もう一種類」


「何が?」


「大学基金の」


 一呼吸。


「会計記録」


     ◇


 土地取得。


 水増し。


 差額。


 その一部。


 大学外へ。


 流れていた。


「どこへ?」


 朗が聞く。


「法律事務所」


 部屋。


 静まり返る。


     ◇


「橘徹にも」


 ロキシーが。


 呟く。


「お金が?」


「私は」


 エリザベス。


 首を振る。


「そこまで確認できなかった」


「でも」


「名前はあった」


     ◇


 橘。


 神谷。


 遠山。


 大学。


 五十年前。


 ただの土地不正ではない。


 利益を。


 分けた人間たち。


 だから。


 橘家にとっても。


 事件は。


 決して。


 過去ではない。


     ◇


「今」


 宮原教授が。


 立ち上がった。


「東京へ連絡する」


「警察?」


「ああ」


「橘達也へは?」


「まだ接触しない」


 朗が。


 すぐ言った。


「相手が気づいたら」


「証拠を消す」


「はい」


     ◇


 エリザベスが。


 朗を見る。


「あなた」


「はい?」


「怖くないの?」


 朗。


 少し笑う。


「怖いです」


「そう」


「かなり」


「なら」


「でも」


 朗は。


 ロキシーを見る。


「逃げたくない」


     ◇


 ロキシーの。


 頬。


 少し赤くなる。


「アキラ」


「何」


「今の」


「事件の話」


「まだ何も言ってません」


「顔で分かる」


     ◇


 エリザベスが。


 笑った。


「いいわね」


「何がです?」


 ロキシー。


「あなたたち」


「……」


「五十年前」


 エリザベスが。


 窓を見る。


「私にも」


「?」


「一緒に怖がってくれる人がいたら」


 少し。


 寂しく笑う。


「もう少し違ったかもしれない」


     ◇


「久世誠一さんは?」


 朗が。


 聞いた。


 エリザベスは。


 少しだけ。


 驚いた。


「誠一」


「好きだった?」


 ロキシーが。


 直球。


「ロキシー!」


「大事です」


 エリザベス。


 一瞬。


 目を丸くして。


 そして。


 笑う。


「好きだったわ」


     ◇


「でも」


「?」


「言えなかった」


 ロキシーが。


 ゆっくり。


 朗を見る。


 朗。


 嫌な予感。


「アキラ」


「見るな」


「まだ何も」


「絶対こっちに持ってくるだろ」


 エリザベスが。


 また笑った。


     ◇


「誠一は」


 エリザベス。


「私が京都へ行くのを止めなかった」


「どうして?」


「私が」


 一度。


「新しい人生を選んだから」


「その後は?」


「手紙を数回」


「会わなかった?」


「一度だけ」


「いつ?」


「二十年後」


 久世誠一。


 京都。


 二人。


 再会。


「何を話したんです?」


 エリザベスは。


 少し。


 遠くを見る。


「ありがとうって」


「……」


「それだけ」


     ◇


 そして。


 エリザベスは。


 一本の。


 古いペンダントを。


 首から外した。


 十字架。


 写真220。


 同じもの。


「これ」


 ロキシーが。


 息を呑む。


「ずっと?」


「ええ」


「ルチアさんから」


「そう」


     ◇


「ロキシー」


 エリザベスが呼ぶ。


「はい」


「手」


「?」


 ロキシー。


 差し出す。


 十字架。


 その掌へ。


「え?」


「持って」


「でも」


「貸すだけ」


「……」


「全部終わったら」


 笑う。


「返しに来て」


     ◇


「どうして私に?」


 ロキシー。


 戸惑う。


 エリザベスが。


 言った。


「お守り」


「……」


「私はこれで」


 一度。


「逃げる勇気をもらった」


「……」


「あなたには」


 朗を見る。


「戻ってくる勇気を」


     ◇


 ロキシーが。


 十字架を握った。


「必ず」


「?」


「返しに来ます」


「一人で?」


 エリザベス。


 少しいたずらっぽく。


 聞く。


 ロキシーは。


 即答した。


「アキラと」


「僕も確定?」


「はい」


「……」


 エリザベス。


 笑う。


     ◇


 その日の午後。


 東京。


 大学法人本部。


 警察が。


 橘達也への。


 任意聴取準備を進めていた。


 だが。


 顧問弁護士室。


 空。


「橘先生は?」


 事務員。


 困った顔。


「昼前に」


「どこへ?」


「外出しました」


「行き先は?」


「……京都です」


     ◇


 京都。


 聖ミカエル修道院。


 朗。


 ロキシー。


 エリザベス。


 まだ。


 その事実を知らない。


     ◇


 修道院から。


 数百メートル。


 黒い車。


 運転席。


 一人の男。


 五十代。


 眼鏡。


 スーツ。


 スマートフォン。


 画面。


 望遠写真。


 ロキシー。


 朗。


 そして。


 その向こう。


 銀色の髪の女性。


「……見つけた」


 男。


 橘達也。


 静かに。


 呟いた。


「エリザベス・ウォーカー」


 五十年間。


 消えていた名前。


 そして。


 今。


 最後の秘密を知る女性。


 真相を追う物語は。


 ついに。


 最後の敵へ。


 届いた。


第26話 エリザベス・ウォーカー 了

挿絵(By みてみん)

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