京都へ消えた名前
――京都へ行く。
大庭誠が残した一文。
それだけで。
翌朝の空気は、完全に変わっていた。
「アキラ」
「何?」
「京都です」
「うん」
「京都ですよ」
「二回言わなくても分かる」
「初めて行きます」
「観光じゃないからな」
東京駅。
新幹線ホーム。
ロキシー・ハートマンは、明らかに少し浮かれていた。
白いタートルネック。
ベージュのコート。
チェック柄のスカート。
その隣。
高瀬朗は。
いつも以上に周囲を気にしている。
「神谷さんのことがあったばかりなんだから」
「はい」
「絶対一人で動かない」
「はい」
「知らない人についていかない」
「はい」
「勝手に別の電車に乗らない」
「子どもですか、私は」
「前科がある」
「一回だけです」
「一回あれば十分」
ロキシーが頬を膨らませた。
「では」
「何?」
手。
差し出す。
「これなら離れません」
「……」
「嫌?」
最近。
この質問に。
朗は弱い。
「嫌じゃない」
手を握る。
ロキシーが。
すぐに笑った。
「では京都まで」
「新幹線でずっとは無理」
「残念です」
◇
今回。
二人だけではない。
宮原教授。
佐伯玲奈。
そして警察関係者。
京都府警にも連絡が入っている。
大庭誠は。
前夜。
京都駅に到着したことまで確認されていた。
そこから。
行方不明。
「目的地は」
宮原教授が座席で資料を広げる。
「おそらく聖ミカエル修道院」
「写真220の十字架」
朗が言う。
「そう」
ロキシーが。
写真のコピーを見る。
夜明けの山道。
傷ついたエリザベス。
右手。
小さな十字架。
裏面。
L gave it to her.
「L」
ロキシーが呟く。
「誰なんでしょう」
「今日、それも調べる」
◇
新幹線が走り出した。
東京。
ビル。
少しずつ。
遠ざかる。
ロキシーは窓を見る。
「アキラ」
「何?」
「エリザベスも」
「?」
「この方向へ行ったんですよね」
「ああ」
五十年前。
十月十二日。
午後十一時。
夜行列車。
十九歳。
名前を捨て。
東京を離れた。
「どんな気持ちだったんでしょう」
朗は。
少し考える。
「怖かったと思う」
「はい」
「でも」
「?」
「少し安心もしてたんじゃないかな」
「どうして?」
「もう」
窓の外を見る。
「追われなくていいって」
ロキシーは。
静かになった。
◇
「もし」
しばらくして。
ロキシーが聞く。
「私が日本から突然いなくなったら」
「嫌な質問するな」
「例えばです」
「探す」
即答。
ロキシーが。
目を瞬かせた。
「世界中?」
「必要なら」
「……」
「何」
「最近」
「?」
「アキラが強いです」
「誰のせいだと思ってる」
ロキシーが。
少し頬を赤くして。
笑った。
◇
京都。
昼前。
京都駅。
「わあ……」
ロキシーが。
天井を見上げる。
「すごい」
「駅で止まるな」
「写真一枚」
「事件終わってから」
「約束?」
「……時間があれば」
「約束ですね」
「勝手に確定するな」
◇
聖ミカエル修道院は。
京都中心部から。
少し離れた場所にあった。
古い洋館。
礼拝堂。
小さな庭。
派手ではない。
静かな場所。
「ここ……」
ロキシーが。
写真220を見る。
「十字架」
礼拝堂の入口。
紋章。
中央。
同じ形。
「間違いなさそうだ」
◇
彼らを迎えたのは。
七十代の修道女だった。
「東京の大学からですね」
「はい」
宮原教授が頭を下げる。
「五十年前の記録について伺いたく」
「エリザベス・ウォーカーさん」
修道女が。
先に名前を言った。
一同。
止まる。
「知っているんですか?」
ロキシーが聞く。
「ええ」
修道女は。
静かに微笑んだ。
「この数日」
表情が少し曇る。
「その名前を尋ねる方が続いています」
「大庭誠?」
朗が聞く。
修道女は。
首を横に振った。
「その方だけではありません」
◇
「誰が?」
「一週間ほど前」
修道女。
記録を見る。
「男性が一人」
「名前は?」
「神谷圭介さん」
朗とロキシー。
顔を見合わせた。
「神谷さんも京都へ?」
「はい」
つまり。
神谷は。
東京でロキシーを監禁する前に。
すでに。
ここへ来ていた。
「何を聞いたんです?」
「エリザベスさんのその後」
「答えました?」
「いいえ」
修道女は。
はっきり言った。
「個人情報ですから」
◇
「では」
佐伯玲奈が。
一歩前へ。
「佐伯美津子の名前なら?」
修道女の顔。
変わった。
「あなたは?」
「孫です」
「……そうでしたか」
少し沈黙。
「美津子さんは?」
「九十八歳です」
「お元気?」
「はい」
修道女は。
目を細めた。
「そうですか」
まるで。
昔から知っているようだった。
◇
「五十年前」
玲奈が言う。
「美津子は一人の外国人女性をこちらへ?」
「……」
修道女。
しばらく迷った。
「まず」
彼らを礼拝堂横の応接室へ案内した。
「お話できる範囲で」
◇
机。
古い記録簿。
修道女が。
一冊を開く。
「十月十三日」
五十年前。
朗。
ロキシー。
ページを見る。
訪問者。
Elizabeth Walker
その横。
一本線。
そして。
別の名前。
手書き。
Elise Laurent
「……エリーズ?」
ロキシーが読む。
「ローラン?」
「フランス系の名前ですね」
「これが」
朗の心臓。
速くなる。
「新しい名前?」
修道女が。
静かに頷いた。
◇
「エリザベス・ウォーカーは」
十月十三日。
ここで。
エリーズ・ローラン。
という名前を使い始めた。
「本当に」
ロキシーが。
息を呑む。
「生きてた」
資料では。
何度も確認した。
でも。
新しい名前。
そのものを。
初めて見た。
◇
「ローラン姓は」
修道女が説明する。
「実在する家族のものではありません」
「偽名?」
「正確には」
一呼吸。
「保護名です」
「保護名?」
当時。
修道院には。
家庭内暴力。
国籍問題。
その他。
様々な事情で。
元の名前を伏せる必要がある女性が。
一時的に滞在していた。
「正式な戸籍を作ったという意味ではありません」
「生活上」
「そうです」
外部から。
追われないための名前。
◇
「L」
朗が言った。
「写真220の裏に」
コピーを見せる。
L gave it to her.
「この十字架」
修道女が。
写真を見る。
顔。
少し驚く。
「シスター・ルチア」
「ルチア?」
ロキシーが反応する。
「L」
「そう」
◇
シスター・ルチア。
イタリア出身。
戦後。
日本へ来た修道女。
東京と京都の。
教会施設を行き来し。
外国人学生の支援もしていた。
「エリザベスさんとは」
「事件より前から?」
「ええ」
「どこで?」
「東京です」
◇
エリザベスが。
来日した直後。
ホームシック。
言葉。
文化。
生活。
困っていた彼女を。
大学の国際交流行事で。
ルチアが支援した。
「だから」
ロキシーが。
自分の胸元に触れる。
「写真220の時点で十字架を持っていた」
「そうです」
「じゃあ」
朗が言う。
「エリザベスは」
「最初から」
「何かあれば教会を頼れると?」
修道女。
頷く。
◇
「佐伯美津子も」
ルチアと。
知り合いだった。
聖和女子学院。
ミッションスクール。
そこから。
線。
すべてがつながった。
「美津子さんが」
修道女。
静かに言う。
「エリザベスさんをこちらへ送ったのも」
「ルチアを頼った?」
「ええ」
◇
「では」
朗が。
最も重要な質問。
「エリーズ・ローランは」
一瞬。
「その後」
修道女を見る。
「どうなったんですか?」
沈黙。
窓の外。
風。
木々。
◇
「まず」
修道女が。
問い返した。
「あなた方は」
「はい」
「なぜ彼女を探しているのです?」
朗は。
すぐには答えなかった。
「大学の不正を」
「それなら」
修道女が遮る。
「資料で十分でしょう」
「……」
「彼女は五十年前」
一息。
「逃げたんです」
「はい」
「生きるために」
「はい」
「その女性を」
少し厳しい目。
「また大学の事件へ引き戻すつもりですか?」
ロキシーが。
顔を伏せた。
◇
朗は。
何も言えなくなった。
確かに。
そうだった。
自分たちは。
真実を知りたい。
しかし。
エリザベスは。
知られたくなかったかもしれない。
「アキラ」
ロキシーが。
小さく呼ぶ。
「うん」
そして。
修道女を見る。
「私は」
ロキシーが言った。
「エリザベスに会いたいです」
「……」
「でも」
一度。
息を吸う。
「話してほしいとは思いません」
修道女が。
彼女を見る。
「事件のことも」
「……」
「名前のことも」
「……」
「話したくないなら」
ロキシーが。
静かに笑った。
「聞きません」
◇
「ではなぜ会うの?」
「伝えたいからです」
「何を?」
ロキシーは。
少し考え。
「あなたが悪かったわけじゃない」
朗が。
彼女を見る。
「五十年前」
「……」
「たくさんの大人が怖がりました」
「……」
「でも」
ロキシーの青い瞳。
「十九歳の彼女は、怖くても逃げなかった」
「……」
「最後には逃げましたけど」
少し笑う。
「それは」
「……」
「生きるためだった」
◇
「だから」
「はい」
「あなたのおかげで」
一呼吸。
「五十年後に、私たちが真実を見つけましたって」
「……」
「それだけ」
言いたい。
修道女は。
長い間。
ロキシーを見ていた。
◇
やがて。
「あなた」
小さく笑った。
「リジーによく似ている」
「また言われました」
ロキシーも。
少し照れた。
◇
「エリーズ・ローランは」
修道女が言った。
「十月十三日から」
三週間。
修道院に滞在した。
その後。
京都市内の。
外国語学校へ。
教会の紹介で。
仕事。
生活。
少しずつ。
「日本に残った?」
「ええ」
「帰国してない」
「はい」
◇
数年後。
翻訳。
英会話講師。
そして。
結婚。
「結婚?」
ロキシーの顔。
少し明るくなる。
「日本人と?」
「はい」
「子どもは?」
「一人」
「……」
つまり。
エリザベスは。
本当に。
新しい人生を。
生きた。
◇
「今も?」
朗が聞く。
修道女は。
すぐには答えなかった。
「最後に」
一度。
「ここへ来られたのは」
日付。
確認。
「六年前です」
「六年前」
「当時」
六十三歳前後。
「それ以降は?」
「手紙が一度」
「いつ?」
「去年」
◇
ロキシーが。
息を呑んだ。
「去年?」
つまり。
少なくとも。
昨年までは。
生きていた。
「今も」
朗が。
静かに言う。
「生きている可能性が高い」
「はい」
◇
「住所は」
修道女。
首を横に振る。
「本人の許可なく教えられません」
「当然です」
朗が答えた。
「でも」
「?」
「こちらから」
少し考える。
「連絡だけしてもらえますか?」
「何を?」
「会いたいと」
そして。
「断られたら」
「?」
「それ以上は追いません」
ロキシーが。
朗を見る。
笑う。
「アキラ」
「何?」
「私と同じこと考えてました」
「相棒だからな」
言ってから。
朗。
少し止まる。
ロキシー。
嬉しそう。
「はい」
◇
「分かりました」
修道女が。
頷いた。
「こちらから連絡します」
「ありがとうございます」
◇
そのとき。
修道院の職員が。
部屋へ入ってきた。
「シスター」
「何です?」
「また」
少し困った顔。
「東京から来た男性が」
一同。
反応。
「名前は?」
「大庭誠さん」
◇
朗。
立ち上がる。
「ここに?」
「今」
「どこ?」
「礼拝堂前です」
警察官。
すぐ動く。
「高瀬君たちはここに」
「はい」
朗は。
ロキシーの前へ。
無意識。
「アキラ」
「何」
「守ってます?」
「一応」
「嬉しいです」
「今は真面目に」
◇
数分後。
大庭誠が。
警察とともに。
応接室へ入ってきた。
疲れた顔。
逃げる様子。
なし。
「大庭さん」
朗が。
彼を見る。
「……高瀬君か」
大庭が。
苦く笑う。
「ハートマンさんも」
◇
「写真220」
朗が言う。
「返したんですね」
「ああ」
「どうして?」
「意味がなくなった」
「何の?」
大庭。
椅子へ。
座る。
「父の名誉」
◇
大庭和夫。
五十年前。
学生課職員。
神谷隆三の指示で。
エリザベスの帰国処理を。
偽装した一人。
「父は」
大庭が。
言う。
「死ぬまで」
自分は。
大学を守った。
そう。
語っていた。
「だから」
大庭誠も。
信じた。
父は。
悪くない。
命令されただけ。
大学のため。
「でも」
朗が聞く。
「違った?」
「ああ」
◇
父の日記。
大庭誠は。
死後。
読んだ。
そこには。
命令だけでなく。
自分から。
書類を隠し。
久世誠一へ圧力をかけ。
佐伯美津子の居場所まで。
調べていた記録。
「父は」
大庭が。
拳を握る。
「被害者じゃなかった」
「加担していた」
「ああ」
◇
「でも」
ロキシーが。
聞く。
「なぜエリザベスのその後を隠したい?」
大庭が。
彼女を見る。
「守るためだ」
「誰を?」
「エリザベスだ」
一同。
止まる。
◇
「父は」
大庭が言う。
「後年」
一度。
京都へ来た」
「いつ?」
「事件から十五年後」
「エリザベスに?」
「ああ」
「会った?」
「会った」
◇
大庭和夫。
謝罪。
そのため。
京都へ。
エリザベス。
いや。
エリーズ・ローラン。
彼女は。
会った。
そして。
一つだけ。
頼んだ。
『私をもう』
『エリザベス・ウォーカーへ戻さないでください』
ロキシーの表情が。
変わった。
◇
「だから」
大庭誠は。
言う。
「今回」
大学が。
事件を公表すると聞き。
恐れた。
「また」
「……」
「彼女の本名も」
「……」
「居場所も」
「……」
「人生も」
新聞。
ネット。
世間。
そこへ。
引きずり出される。
そう。
思った。
◇
朗は。
何も言えなかった。
大庭の。
やり方。
許されない。
侵入。
窃盗。
脅迫。
だが。
動機の中に。
少なくとも。
エリザベスを守る意思も。
混ざっていた。
「だったら」
ロキシーが言う。
「最初から話してください」
「できなかった」
「なぜ?」
「大学を」
一瞬。
言葉に詰まる。
そして。
苦笑。
「私も」
「……」
「怖かったんだろうな」
◇
また。
怖かった。
それが。
五十年前から。
全員を。
動かしていた。
◇
「ただ」
大庭が。
急に。
表情を変えた。
「一つ」
「何です?」
「私は」
朗を見る。
「ハートマンさんを狙っていない」
「……」
「高瀬君への脅迫も」
「……」
「神谷圭介を操ったのも」
「違う?」
「違う」
◇
「じゃあ」
ロキシーが。
言う。
「誰?」
大庭。
首を横に振る。
「分からない」
「でも?」
「一つ」
鞄。
古いノート。
出す。
表紙。
Elizabeth Walker
「これ」
朗が。
息を呑む。
「エリザベスの日記?」
「一部だ」
◇
大庭家。
五十年間。
父親が。
隠していた。
「なぜ持ってた?」
「父が」
大庭。
「大学から回収した」
エリザベスの荷物。
大学が。
203号室から。
持ち去った。
その一部。
◇
「ここ」
大庭が。
最後のページ。
開く。
英語。
ロキシーが。
読む。
「十月一日」
事件。
前日。
I think someone is following me.
「誰かにつけられている気がする」
次。
It isn't Professor Katsuragi.
「葛城先生ではない」
さらに。
The man said his name was...
文字。
途中。
破れている。
「名前が」
朗。
「ない」
◇
その下。
一文字。
かすかに。
T
「T?」
ロキシー。
「遠山?」
「征二?」
「でも」
大庭。
首を振る。
「遠山征二は」
「?」
「この時点ではエリザベスと直接会っていない」
◇
では。
T。
誰?
◇
そのとき。
修道女の。
スマートフォンが。
鳴った。
「あら」
画面。
彼女の表情。
変わる。
「……」
「どうしました?」
ロキシー。
修道女が。
一同を見る。
「先ほど」
「はい」
「連絡しました」
朗の心臓。
速くなる。
「エリーズさんへ」
「……」
「返事が」
ロキシー。
立ち上がる。
「何て?」
◇
修道女は。
小さく笑った。
「会うそうです」
「……」
ロキシーの。
目。
大きくなる。
「本当に?」
「はい」
「どこで?」
修道女。
一息。
「明日」
そして。
「ここで」
◇
五十年前。
大学から。
歴史から。
名前を消した。
十九歳の留学生。
エリザベス・ウォーカー。
今は。
別の名前で。
六十九歳になった女性。
その本人に。
ついに。
二人は。
会う。
第25話 京都へ消えた名前 了




