君を失うのが怖かった
「ロキシー!」
旧校舎二階。
保健室の扉。
高瀬朗は、何度目か分からないほど強く叩いた。
「返事して!」
「大丈夫です!」
中から。
ロキシーの声。
聞こえた。
それだけで。
朗の足から力が抜けそうになった。
「本当に!?」
「はい!」
少し間。
「ちょっとだけピンチです!」
「ちょっとじゃないだろ!」
叫んでから。
生きている。
喋っている。
いつものロキシーだ。
そう思った瞬間。
胸の奥。
張り詰めていた何かが。
少しだけ緩んだ。
◇
「神谷圭介さん!」
警察官が扉へ声をかける。
「もう逃げられません!」
返事はない。
「ロキシー・ハートマンさんの安全を確認させてください!」
沈黙。
朗が。
また扉へ近づく。
「神谷さん!」
「高瀬君、下がって」
「でも」
「警察に任せて」
頭では分かっている。
でも。
扉一枚。
その向こうに。
ロキシーがいる。
数メートルなのに。
ひどく遠かった。
◇
保健室の中。
神谷圭介は。
スマートフォンの画面を見つめていた。
失敗したな。
もう、お前は必要ない。
そして。
現在の旧校舎を。
外から撮影した写真。
「……」
神谷の手が震えている。
「誰です?」
ロキシーが聞いた。
「分からない」
「あなたに指示していた人?」
「……」
「神谷さん」
「黙ってくれ」
「嫌です」
「君は」
神谷が顔を上げた。
「本当に怖くないのか」
「怖いです」
「だったら」
「でも」
ロキシーは。
自分の拘束された手を見る。
「外にアキラがいます」
「……」
「だから」
青い瞳が。
神谷をまっすぐ見る。
「一人じゃないです」
◇
神谷は。
なぜか。
少し笑った。
「羨ましいよ」
「何が?」
「そこまで」
一瞬。
「信じられる相手がいることが」
ロキシーは。
答えなかった。
「僕は」
神谷が言う。
「ずっと」
祖父。
神谷隆三。
「家族から聞かされてきた」
『隆三は大学のために尽くした』
『事件は遠山という男が起こした』
『葛城が余計なことをした』
『外国人留学生が騒ぎを大きくした』
それが。
神谷家の歴史だった。
「でも」
神谷が。
苦く笑う。
「調べれば調べるほど」
「……」
「祖父が悪かった」
◇
「だから消したかった?」
ロキシーが聞く。
「……」
「写真220を」
「ああ」
「お祖父さんが悪い人だと知られるのが嫌だった?」
「違う!」
神谷の声が強くなる。
「なら?」
「僕まで」
一度。
息を詰まらせる。
「同じだと思われるのが嫌だった」
「……」
「神谷という名字だけで」
拳を握る。
「祖父の罪まで僕のものになる気がした」
◇
ロキシーは。
少しだけ。
神谷を見る目を変えた。
「でも」
「何だ」
「だからこそ」
静かに言う。
「写真を消したら駄目です」
「……」
「それをしたら」
一呼吸。
「本当に、お祖父さんと同じことをしています」
神谷が。
動きを止めた。
◇
扉の外。
「神谷さん!」
朗の声。
「聞こえてるんでしょう!」
神谷が。
扉を見る。
「ロキシーを返してください」
返事。
なし。
「僕は」
朗の声が。
少し震える。
「あなたが何をしたかったのか」
一息。
「まだ全部分かりません」
廊下。
誰も。
口を挟まない。
「でも」
朗は。
扉に手を置いた。
「彼女は関係ない」
ロキシーの目が。
大きくなる。
「僕たちが調べた」
「……」
「僕も関わった」
「……」
「だから」
朗の声。
強くなる。
「ロキシーだけを使うのはやめてください!」
◇
神谷が。
目を閉じた。
「……高瀬君」
初めて。
返事。
「はい」
「君は」
一瞬。
「彼女が大事なんだね」
「……」
朗が。
止まる。
ロキシーも。
息を止めた。
「そうです」
答え。
すぐだった。
自分でも。
驚くほど。
「大事です」
ロキシーの頬に。
涙が。
一筋。
落ちた。
◇
神谷は。
長く。
何も言わなかった。
やがて。
扉の鍵へ向かった。
「神谷さん?」
ロキシーが聞く。
「もう」
小さく。
「疲れた」
鍵。
回る。
カチャ。
◇
「下がって!」
警察官。
扉。
ゆっくり。
開く。
神谷圭介。
両手を上げている。
「抵抗しません」
警察官が。
すぐに確保する。
「ロキシー!」
朗は。
横をすり抜けようとして。
「高瀬君!」
止められる。
「安全確認が先!」
「……はい!」
分かっている。
数秒。
でも。
その数秒が。
永遠みたいだった。
「ハートマンさん!」
警察官が中へ。
そして。
「大丈夫です!」
その声。
「拘束されているだけです!」
◇
許可が出た瞬間。
朗は。
保健室へ入った。
「ロキシー!」
「アキラ」
床。
古い支柱のそば。
両手を前で拘束されたロキシー。
顔。
無事。
目が合う。
「……」
朗は。
言葉が出なかった。
彼女の前へ。
膝をつく。
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
「痛いところは?」
「大丈夫です」
「何かされた?」
「何も」
「本当に?」
「アキラ」
「何」
「質問多いです」
ロキシーが。
少し笑った。
「……ごめん」
朗は。
顔を伏せた。
◇
警察官が。
拘束を外す。
「終わりました」
ロキシーが。
手首をさする。
「ありがとうございま――」
その途中。
朗が。
彼女を抱きしめた。
「……!」
ロキシーが。
完全に固まった。
◇
「アキラ?」
「……」
「アキラ」
「少し」
朗の声。
震えている。
「少しだけ」
「……はい」
ロキシーは。
ゆっくり。
腕を朗の背中へ回した。
今まで。
抱きつくのは。
いつも。
ロキシーだった。
旅館でも。
山道でも。
冗談でも。
でも。
今日は。
違った。
朗のほうから。
離さなかった。
◇
「怖かった」
朗が。
小さく言った。
「私もです」
「違う」
「?」
「君が怖かったんじゃなくて」
「分かってます」
「僕が」
一息。
「君を失うのが」
ロキシーの腕が。
少し強くなる。
「怖かった」
「……」
しばらく。
誰も。
何も言わなかった。
◇
「アキラ」
「何?」
「今」
「?」
「かなりいいところです」
「何が」
「このまま告白してもいいところです」
「……」
朗が。
ゆっくり離れた。
「台無し!」
「どうして?」
「君が言うから!」
「では黙っています」
「もう遅い!」
ロキシーが。
涙を浮かべたまま。
笑った。
「でも」
「何」
「嬉しかったです」
◇
少しして。
ロキシーが。
突然。
「あ」
「どうした?」
「スマートフォン」
机の下。
警察官が回収する。
「これです」
「何か?」
「録音しています」
朗。
神谷。
警察。
全員の表情が変わる。
「いつから?」
「神谷さんに置けと言われたとき」
「君……」
「何です?」
「こういうところは本当に強いな」
「褒めました?」
「今回は完全に」
ロキシーが。
少し胸を張った。
◇
録音。
再生。
神谷の声。
『君たちに調査をやめてもらう』
『写真220を消したかった』
そして。
さらに。
『最初に写真の存在を教えてきた人間がいた』
朗が。
停止する。
「これ」
神谷を見る。
「誰です?」
神谷は。
警察官に囲まれながら。
壁へ寄りかかっていた。
「匿名だった」
「どうやって?」
「メール」
「いつから?」
「二か月前」
◇
内容。
祖父・神谷隆三について。
未公開資料。
写真220。
遠山征二。
葛城宗一郎。
「最初は」
神谷が言う。
「真相を調べろと言われた」
「味方みたいに?」
「ああ」
「途中から?」
「写真を消せ、と」
「なぜ従った?」
「……」
「神谷さん」
「家族の資料を」
一度。
「送られた」
「どんな?」
「祖父の日記」
「それが?」
「祖父が」
神谷の声。
低くなる。
「僕の父に宛てた手紙」
◇
そこには。
神谷隆三自身の。
告白があった。
土地同意書の偽造。
利益供与。
隠蔽。
エリザベスへの圧力。
「全部」
神谷が。
苦笑する。
「本当だった」
「だから」
ロキシーが聞く。
「怖くなった?」
「……ああ」
◇
「でも」
朗が言う。
「匿名の相手は」
「?」
「どうして神谷隆三の手紙を持ってる?」
神谷が。
顔を上げる。
そう。
神谷家にも。
残っていなかった資料。
それを。
誰かが。
持っている。
◇
「メッセージの写真」
警察官が。
神谷のスマートフォンを確認する。
旧保健室。
外から。
撮影。
「撮影場所を特定できるかもしれません」
大学の図面。
窓の位置。
角度。
「正面ではない」
片桐。
遅れて到着していた。
「この高さなら」
向かい。
別棟。
「法人本部の旧会議室?」
宮原教授が言う。
「でも」
「?」
「そこは今」
少し考える。
「役員専用フロアだ」
◇
一同。
黙った。
「一般職員は?」
朗が聞く。
「入れない」
「学生?」
「当然無理だ」
「神谷さんは?」
「編纂室主任でも」
三崎副理事長が。
到着して答えた。
「役員フロアへ自由には入れません」
「では」
ロキシーが言う。
「誰なら?」
三崎が。
答える。
「理事」
「副理事長」
「秘書室職員」
「それと」
一息。
「役員用マスターカードを持つ者だけ」
◇
警察。
入退室記録。
確認。
事件時刻。
旧会議室。
一枚。
アクセス。
「出ました」
「誰?」
朗が聞く。
担当者が。
画面を見る。
そして。
顔を上げた。
「三崎副理事長」
部屋。
静まり返った。
◇
三崎由紀子の。
表情が変わる。
「……私?」
「カード番号は」
職員が確認。
「副理事長ご本人のカードです」
「そんな」
「時刻」
午後六時十二分。
ロキシーが。
旧校舎へ入ったあと。
「三崎さん」
朗が。
ゆっくり見る。
「どこにいました?」
「私は」
三崎が。
答える。
「自宅へ向かっていました」
「証明できます?」
「運転手が」
「カードは?」
三崎が。
胸元。
バッグ。
確認。
顔色が。
変わる。
「……ない」
◇
「なくした?」
ロキシーが聞く。
「いいえ」
三崎は。
はっきり言う。
「昨日までありました」
「最後に使ったのは?」
「昨日」
「どこで?」
一瞬。
三崎が。
記憶を探る。
「副理事長室」
「そのあと?」
「机の引き出しに」
「鍵は?」
「かけた」
◇
朗の背筋。
冷たくなる。
つまり。
誰かが。
副理事長室へ入り。
役員用カードを盗み。
旧会議室へ入り。
ロキシー。
神谷。
朗。
警察。
すべてを。
見ていた。
「大学の中に」
ロキシーが。
小さく言う。
「まだいます」
「ああ」
朗が答える。
「しかも」
一般職員ではない。
あるいは。
一般職員でも。
役員室へ自由に出入りできる人物。
◇
その夜。
警察の事情聴取を終え。
朗とロキシーは。
大学を出た。
「送る」
朗が言う。
「家まで?」
「ああ」
「遠いですよ?」
「送る」
「電車一時間」
「送る」
「アキラ」
「今日は反論受け付けない」
ロキシーが。
目を細め。
少し笑った。
「はい」
◇
駅まで。
手。
つないだ。
今日は。
朗から。
「アキラ」
「何?」
「手」
「嫌?」
「逆です」
「ならいいだろ」
「はい」
少し歩く。
◇
「アキラ」
「何?」
「さっき」
「うん」
「君を失うのが怖かったって」
「……」
「言いました」
「忘れて」
「嫌です」
「やっぱり」
「一生覚えます」
「それは重い」
「では」
ロキシーが。
朗の手を。
少し強く握る。
「責任取ってください」
「何の責任だよ」
「いつか教えます」
「怖いな」
◇
でも。
朗は。
その手を。
離さなかった。
◇
同じ頃。
大学。
副理事長室。
警察が。
三崎由紀子の机を調べていた。
鍵。
破壊痕なし。
カードだけ。
消えている。
「おかしいですね」
警察官。
「何が?」
三崎が聞く。
「この引き出し」
内側。
指紋。
「あなた以外のものがあります」
「誰の?」
「照合が必要です」
そのとき。
机の下。
小さなもの。
「これは?」
金属。
ボタン。
大学職員用制服の。
ジャケットボタン。
裏。
小さく。
部署番号。
01
「ゼロ一?」
職員が。
顔を上げた。
「理事長室です」
三崎の表情が。
固まった。
◇
理事長室。
大学の。
最上層。
そして。
創立者・三崎英一郎の。
直系。
現理事長。
三崎俊明。
三崎由紀子の。
実兄だった。
事件は。
ついに。
大学の頂点へ。
届こうとしていた。
第23話 君を失うのが怖かった 了




