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22/30

旧校舎の罠

夕暮れの大学。


 昼間なら学生たちの声が響くキャンパスも、この時間になると別の場所のようだった。


 ロキシー・ハートマンは、一人で旧校舎を見上げていた。


 古いレンガ造り。


 窓の多くは暗い。


 正面玄関だけが、わずかに開いている。


「……アキラ」


 スマートフォンを見る。


 高瀬朗から届いたメッセージ。


旧校舎。

二階。

保健室。

待ってる。


「変です」


 ロキシーは小さく呟いた。


 ここまで来て。


 ようやく。


 違和感がはっきりしてきた。


 朗は。


 一人で行動するな、と何度も言った。


 今日も。


 駅で別れる直前まで。


『家に着いたら連絡して』


 そう言っていた。


 その朗が。


 ――一人で来て。


 と言うだろうか。


「……言わない」


 足が止まった。


 引き返す?


 今なら間に合う。


 けれど。


 もし。


 本当に朗が中にいたら。


「アキラ……」


 ロキシーは電話をかけた。


 朗。


 呼び出し。


 だが。


 その瞬間。


 旧校舎の中から。


 かすかに。


 着信音が聞こえた。


「え?」


 知っている音。


 朗のスマートフォン。


「本当にいる?」


 ロキシーは。


 玄関へ足を踏み入れた。


     ◇


 同じ頃。


「ロキシー!」


 駅員室。


 借りた電話を握った朗は。


 通話が切れた画面を見つめていた。


 つい数秒前。


 ロキシーの電話につながった。


 しかし。


 聞こえたのは。


 彼女ではなく。


 男の声。


『来たか』


 そして。


 切断。


「くそ!」


「どうしました?」


 駅員が驚く。


「友達が」


 言葉がうまく出ない。


「事件に巻き込まれてるかもしれません」


「警察へ?」


「お願いします!」


 朗は。


 別の電話を借りる。


 宮原教授。


 片桐。


 大学警備室。


 立て続けに連絡する。


『高瀬君?』


「先生!」


『どうした?』


「ロキシーが大学へ戻った可能性があります!」


『なぜ?』


「僕のスマホを盗んだ奴が!」


 説明。


 声が。


 震える。


「僕のふりをして」


『落ち着いて』


「無理ですよ!」


 思わず叫んだ。


「ロキシーが……!」


 一瞬。


 沈黙。


『分かった』


 宮原教授の声が変わる。


『警備室へ連絡する。君も一人で動くな』


「でも!」


『高瀬君』


「……」


『君まで罠に入ったら、誰が彼女を探す』


 朗は。


 歯を食いしばった。


「……分かりました」


     ◇


 旧校舎。


 二階。


 ロキシーは。


 廊下を歩いていた。


 足音。


 自分のものだけ。


 保健室。


 廊下の一番奥。


「アキラ?」


 返事はない。


 ドア。


 少し開いている。


「アキラ」


 押す。


 ギィ。


 古い蝶番。


 室内。


 夕日。


 薬品棚。


 古びたベッド。


 人体模型。


 机。


 そして。


「あ」


 机の上。


 スマートフォン。


 朗のものだった。


「アキラの……」


 その瞬間。


 背筋が。


 冷たくなった。


 朗はいない。


 スマートフォンだけ。


「……罠」


 振り返る。


 走る。


 だが。


 ガチャッ!


 扉が閉まった。


「!」


 ロキシーがノブを掴む。


 開かない。


「開けて!」


 外から。


 鍵。


「誰ですか!」


 返事。


 なし。


「アキラはどこ!」


 沈黙。


 そして。


 部屋の奥。


 カーテンの向こう。


「ここにはいない」


 男の声。


 ロキシーが。


 ゆっくり振り返った。


     ◇


 カーテン。


 人影。


 男。


 帽子。


 マスク。


 黒い上着。


「あなた……」


「スマートフォンを置いて」


 ロキシーは。


 自分のスマートフォンを握る。


「嫌です」


「置け」


 声が。


 強くなる。


 ロキシーの指が。


 震えた。


 怖い。


 間違いなく。


 怖い。


 でも。


 顔には出さない。


「アキラに何をしました?」


「何も」


「では、これは?」


 机の上。


 朗のスマートフォン。


「駅で借りただけだ」


「借りた?」


「本人は知らないけどね」


「それは盗んだと言います」


 男が。


 一瞬。


 黙った。


「こんなときまで」


「?」


「よく喋るな」


「よく言われます」


 ロキシーは。


 ゆっくり。


 自分のスマートフォンを床へ置いた。


 ただし。


 画面を下へ向ける直前。


 親指。


 二度。


 側面ボタン。


 録音。


 起動。


 相手が気づいたかは。


 分からない。


     ◇


「何が目的ですか?」


 ロキシーが聞く。


「君たちに」


 一息。


「調査をやめてもらう」


「嫌です」


 即答。


「……」


「それだけ?」


「君」


 男の声に。


 苛立ち。


「状況が分かっているのか?」


「分かっています」


「なら」


「でも」


 ロキシーが言う。


「分からないことがあります」


「何だ」


「どうして」


 一歩も引かず。


「五十年前のことを、今もそんなに怖がるんですか?」


 男の肩が。


 わずかに動いた。


     ◇


「エリザベスは生きていました」


「……」


「土地の不正も」


「黙れ」


「遠山征二さんだけの責任じゃない」


「黙れ」


「神谷隆三さんも――」


「黙れ!」


 声。


 室内へ響く。


 ロキシーは。


 確信した。


「神谷さん」


 男が。


 動きを止めた。


「……」


「神谷圭介さんですよね」


     ◇


 長い沈黙。


 男は。


 ゆっくり。


 帽子を取った。


 マスクも。


 外す。


 眼鏡。


 痩せた顔。


 何度か。


 大学で見た男。


「……よく分かったね」


 神谷圭介。


 大学史編纂室主任。


 五十年前。


 すべての隠蔽に関与した。


 神谷隆三の孫。


「声」


 ロキシーが言う。


「それと」


「?」


「お祖父さんの名前を言ったとき」


「……」


「怒りました」


 神谷が。


 苦笑する。


「君は」


「?」


「本当に面倒な留学生だな」


「アキラにも言われます」


「高瀬君は」


 神谷が言う。


「君の何がいいんだろうね」


「聞いてみたいです」


 こんな状況なのに。


 口から出た。


 神谷が。


 一瞬。


 呆れた顔。


     ◇


「僕は」


 神谷が言った。


「君を傷つけるつもりはない」


「信じません」


「当然だ」


「では帰してください」


「それもできない」


「矛盾しています」


「少しだけ」


 神谷が。


 窓の外を見る。


「ここにいてもらう」


「何のため?」


「高瀬君を呼ぶ」


 ロキシーの表情が。


 変わった。


「アキラを?」


「ああ」


「駄目です」


「君に決める権利はない」


「アキラは来ません」


 神谷が。


 少し笑う。


「来るよ」


「来ません」


「君のためなら」


 ロキシーが黙る。


「来る」


 神谷は。


 静かに言った。


「君も分かってるだろ」


     ◇


「……」


 否定。


 できなかった。


 朗なら。


 来る。


 絶対に。


「だから嫌なんです」


「何?」


「アキラを巻き込むのは」


「もう遅い」


「あなたが巻き込んだ!」


「違う」


 神谷の表情が。


 歪んだ。


「最初に掘り返したのは君たちだ」


「だから何ですか?」


「五十年前」


 神谷が。


 拳を握る。


「全部終わっていた」


「終わっていません」


「終わってた!」


「終わっていたなら!」


 ロキシーの声も。


 強くなる。


「どうして今もこんなことをするんですか!」


「……」


 神谷は。


 答えられなかった。


     ◇


 一方。


 大学警備室。


 朗は。


 全速力で戻ってきた。


「高瀬君!」


 片桐。


 宮原教授。


 警備員。


 警察。


「ロキシーは?」


「正門の防犯映像で確認できた」


 警備員が。


 画面を示す。


 午後五時四十三分。


 ロキシー。


 キャンパスへ入る。


 一人。


「そのあと?」


「北側へ」


「北側?」


 画面。


 次。


 図書館横。


 さらに。


「ここで」


 映像が途切れる。


「防犯カメラがない区域?」


「旧校舎周辺だ」


 宮原教授が言った。


 朗の顔が。


 変わる。


「旧校舎……」


     ◇


「待ってください」


 片桐が。


 パソコン。


 操作。


「高瀬君のアカウント」


「僕の?」


「学内Wi-Fiへ接続した記録がある」


「スマホ!」


 盗まれた朗の端末。


「場所は?」


「旧校舎」


 ほぼ。


 確定。


「行きます!」


「警察と一緒に!」


「分かってます!」


 朗は。


 もう走り出していた。


     ◇


 旧校舎。


 保健室。


 神谷が。


 鞄から。


 細い結束バンドを取り出した。


 ロキシーの顔から。


 血の気が引く。


「何をするんです」


「念のためだ」


「嫌です」


「暴れなければ」


「嫌です!」


 逃げる。


 扉。


 だが。


 神谷が。


 腕を掴む。


「離して!」


「静かに!」


「嫌!」


 机。


 椅子。


 倒れる。


 ロキシーは。


 思い切り。


 神谷の足を踏んだ。


「っ!」


 腕が離れる。


 走る。


 窓。


 開く。


「助けて!」


 外。


 夕方。


「誰か!」


 神谷が。


 後ろから。


 窓を閉める。


「やめろ!」


「離してください!」


「静かにしろ!」


「嫌です!」


 抵抗。


 だが。


 体格差。


 完全には振り切れない。


     ◇


 数分後。


 ロキシーは。


 保健室中央の。


 古い支柱のそば。


 座らされていた。


 両手。


 前。


 結束バンド。


 きつくはない。


 だが。


 外せない。


「……最低です」


「分かってる」


「警察が来ます」


「来るだろうね」


「なら」


「その前に」


 神谷は。


 朗のスマートフォンを見る。


「高瀬君と話す」


     ◇


 ロキシーは。


 自分のスマートフォンを見る。


 床。


 机の下。


 録音。


 まだ。


 動いている。


 神谷は。


 気づいていない。


 そして。


 もう一つ。


 窓際。


 落ちている。


 小さなもの。


 自分の。


 髪留め。


 抵抗したとき。


 わざと。


 落とした。


「アキラ」


 小さく呟く。


「気づいて」


     ◇


 旧校舎前。


 朗。


 警察。


 警備員。


「二階!」


 朗が言う。


「保健室の窓!」


 さっき。


 ほんの一瞬。


 開いた。


 誰かの。


 声。


「ロキシー!」


 建物へ。


 走る。


「高瀬君!」


「ロキシー!」


 玄関。


 開かない。


 鍵。


「裏へ!」


     ◇


 二階。


 ロキシーにも。


 聞こえた。


「……」


 声。


 遠い。


 でも。


 間違えない。


「アキラ」


 神谷も。


 窓を見る。


「早いな」


「言ったでしょう」


 ロキシーが。


 涙をこらえながら。


 笑った。


「来ます」


「……」


「アキラは」


 一言。


「来てくれます」


     ◇


 朗たちは。


 旧校舎の裏口を。


 警備員の鍵で開けた。


 廊下。


 階段。


「二階!」


 朗が走る。


「高瀬君、前に出るな!」


 警察官。


 それでも。


 足が止まらない。


 階段。


 踊り場。


 そのとき。


 床。


「……?」


 何か。


 光った。


 小さな。


 金色。


 拾う。


「これ」


 ロキシーの髪留め。


 何度も見た。


「ロキシー……」


 わざと。


 落とした?


「こっちだ」


 朗は。


 廊下の奥を見る。


 保健室。


     ◇


 中。


 神谷が。


 朗のスマートフォンを操作する。


「もう来てる」


 ロキシーが言った。


「……」


「逃げたほうがいいですよ」


「君は」


 神谷が。


 苦笑する。


「怖くないのか」


「怖いです」


「なら」


「でも」


 ロキシーは。


 真っ直ぐ彼を見る。


「一人じゃありません」


     ◇


 その瞬間。


 ドン!


 扉。


 強く叩かれる。


「ロキシー!」


 朗。


 ロキシーの目から。


 一気に涙が溢れた。


「アキラ!」


「ロキシー!」


「ここです!」


 神谷が。


 立ち上がる。


 後ろ。


 窓。


「動くな!」


 外から警察官。


「神谷圭介さん!」


「……」


「扉を開けてください!」


 神谷の顔。


 歪む。


     ◇


「どうして」


 神谷が呟いた。


「何が?」


 ロキシーが聞く。


「どうして」


 一度。


 頭を抱える。


「僕だけが」


「……」


「祖父の罪を背負わなきゃいけない」


 初めて。


 そこにあったのは。


 怒りではない。


 恐怖。


「僕は何もしてない」


「はい」


 ロキシーが答えた。


 神谷が。


 顔を上げる。


「……何?」


「あなたは」


 ロキシーが言う。


「五十年前には何もしていません」


「……」


「お祖父さんとあなたは別の人です」


 神谷の目。


 揺れる。


「だから」


「……」


「今」


 ロキシーが。


 自分の手を見る。


「あなたがしたことまで、お祖父さんのせいにしないでください」


 沈黙。


     ◇


 ドン!


「ロキシー!」


 朗。


「返事して!」


「大丈夫です!」


「本当に!?」


「はい!」


 少し間。


「ちょっとだけピンチです!」


「ちょっとじゃないだろ!」


 扉越し。


 ロキシーは。


 思わず。


 笑ってしまった。


「アキラ」


「何!」


「怒ってます?」


「めちゃくちゃ怒ってる!」


「私に?」


 一瞬。


「……君にも少し!」


「ごめんなさい!」


     ◇


 神谷が。


 それを聞き。


 奇妙な顔をした。


 そして。


 突然。


 笑った。


「何なんだ、君たちは」


 ロキシーも。


 少し笑う。


「よく言われます」


     ◇


 しかし。


 次の瞬間。


 神谷のスマートフォンが。


 震えた。


「……」


 画面。


 メッセージ。


 神谷の顔が。


 凍った。


「何です?」


 ロキシーが聞く。


「……」


「神谷さん?」


 彼は。


 答えなかった。


 ただ。


 スマートフォンを。


 ロキシーへ見せた。


 そこには。


 一行。


失敗したな。


 さらに。


もう、お前は必要ない。


 神谷の手が。


 震える。


「誰からです?」


「……分からない」


「嘘」


「本当に」


 そして。


 もう一枚。


 画像。


 神谷が。


 息を呑んだ。


 写真。


 現在。


 この旧校舎。


 外から。


 保健室の窓を。


 撮影している。


「……見られてる」


 ロキシーの顔から。


 笑みが消えた。


 神谷も。


 黒幕ではない。


 今。


 この瞬間も。


 誰かが。


 彼らを。


 見ている。


 そして。


 その人物は。


 神谷さえ。


 切り捨てようとしていた。


第22話 旧校舎の罠 了

挿絵(By みてみん)

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