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16/30

葛城家の遺言

 ――エリザベス・ウォーカーは、その夜、死んだ。


 ――代わりに、別の名前の女性が生まれた。


 佐伯美津子の言葉を。


 高瀬朗は、何度も頭の中で繰り返していた。


 翌日。


 大学の中庭。


 昼休み。


 目の前ではロキシーがサンドイッチを食べている。


「アキラ」


「ん?」


「また考えています」


「最近そればっかり言われるな」


「だって、ずっと考えてます」


「仕方ないだろ」


 朗は紙パックのコーヒーを飲んだ。


「エリザベスは死んでなかった」


「はい」


「葛城も、最後には彼女を助けていた」


「はい」


「でも大学は、帰国したことにした」


「はい」


「写真220には、大学の事務局長だった神谷隆三まで写っている」


 ロキシーが頷く。


「そして写真は葛城家へ」


「ああ」


 佐伯美津子によれば。


 葛城宗一郎は晩年。


 写真220を家族へ託した。


 ならば。


 次に調べる場所は明白だった。


「葛城家ですね」


「うん」


「今日行きます?」


「予約は取った」


 ロキシーが目を丸くした。


「いつ?」


「昨日の夜」


「私に言ってません」


「夜遅かったから」


「電話してくれていいのに」


「毎晩電話する関係でもないだろ」


「私はいいですよ」


「僕がよくない」


「どうして?」


「……いろいろ」


 ロキシーがにやりと笑う。


「照れてます?」


「違う」


「最近アキラ、分かりやすいです」


「君のせいでな」


     ◇


 葛城宗一郎の長男。


 葛城隆一。


 七十六歳。


 元大学教授。


 現在は引退し、都内の一軒家に暮らしている。


 宮原教授から事情を説明してもらうと。


 意外にも。


 面会はすぐに許可された。


     ◇


 午後三時。


 住宅街。


「ここですね」


 古いが立派な家。


 庭。


 石灯籠。


 木造の門。


「緊張します」


 ロキシーが言う。


「美津子さんのときも言ってたな」


「今日は別です」


「何が?」


「葛城先生は」


 少し間。


「最初、悪い人だと思っていました」


「僕も」


「でも違った」


「たぶんな」


「だから」


 ロキシーが門を見る。


「息子さんに、どう聞いたらいいか分かりません」


「普通でいいよ」


「普通?」


「知ってることを教えてください、って」


「アキラらしい」


「どういう意味?」


「まっすぐ」


「……そう?」


「はい」


 ロキシーが微笑む。


「そこ、好きです」


「……」


「行きましょう」


「今のだけ言い逃げ?」


     ◇


 葛城隆一は。


 父親の宗一郎によく似ていた。


 写真の中の葛城宗一郎を。


 四十年ほど老けさせたような顔。


「父のことを調べているそうですね」


「はい」


 朗が答える。


「エリザベス・ウォーカーについてです」


 隆一の表情が。


 わずかに変わった。


「その名前を」


 一度。


「また聞くとは思わなかった」


     ◇


 応接室。


 古い本棚。


 民俗学。


 宗教学。


 歴史学。


 壁には若い頃の葛城宗一郎の写真。


 朗は。


 その一枚へ目を向けた。


「これは?」


「父です」


 山。


 学生たち。


 その中に。


 外国人女性。


「エリザベス」


 ロキシーが小さく言った。


「そうです」


 隆一は。


 隠そうとしなかった。


「父は」


「はい」


「死ぬまで彼女のことを後悔していました」


     ◇


「佐伯美津子さんから聞きました」


 朗が言う。


「父上は最後には、エリザベスを助けたと」


「最後には、ですか」


 隆一が苦く笑う。


「その表現は正しい」


「というと?」


「父は一度」


 手を組む。


「彼女を裏切った」


 ロキシーが息を呑む。


「どういう意味ですか?」


     ◇


 エリザベスが。


 月姫山の土地台帳を見つけたのは。


 偶然だった。


 民俗研究会の調査。


 古い神社。


 村の古文書。


 その中に。


 大学が購入した土地に関する書類が混じっていた。


「父は最初」


 隆一が言う。


「これは学術的に重要な資料だと思った」


「だから調査を?」


「ええ」


「でも?」


「大学の土地取得に」


 一呼吸。


「偽造された同意書が使われていた」


「偽造?」


「はい」


 朗の表情が変わった。


     ◇


 共有林。


 神社所有地。


 地域住民。


 本来なら。


 複数の合意が必要だった。


 だが。


 大学側は。


 一部の地主だけと契約。


 さらに。


 亡くなっている人物の名前まで。


 同意者として記載されていた。


「完全に不正ですね」


 朗が言う。


「当時でも」


「父もそう思った」


「ではなぜ」


 ロキシーが聞く。


「エリザベスを裏切ったんですか?」


 隆一は。


 目を伏せた。


「脅されたからです」


     ◇


「誰に?」


 朗が聞く。


「神谷隆三」


 やはり。


「大学の事務局長」


「ええ」


「何を?」


「研究費」


「……」


「父は当時、若い助教授でした」


「立場が弱かった?」


「非常に」


 研究費。


 昇進。


 雇用。


 すべて。


 大学側が握っていた。


「神谷は」


 隆一が言う。


「『外国人留学生一人の誤解で、大学全体を危険にさらすのか』と父に迫った」


「誤解?」


 ロキシーが眉を寄せる。


「偽造なのに?」


「大学側の言い分です」


「ひどい」


     ◇


「父は」


 隆一の声が低くなる。


「エリザベスに、資料を大学へ返すよう説得した」


「だから」


 朗が言う。


「エリザベスは『葛城先生を信じるな』と手紙に」


「そうだと思います」


 つまり。


 あの時点では。


 エリザベスから見れば。


 葛城は裏切り者だった。


「でも」


 隆一が続ける。


「父は途中で考えを変えた」


「なぜ?」


「エリザベスが」


 一瞬。


「泣いたからだそうです」


     ◇


 月影荘。


 十月二日。


 夜。


 葛城宗一郎は。


 資料を返すよう。


 エリザベスを説得した。


 しかし。


 彼女は言った。


『これは私の国の問題ではありません』


『日本の問題でもありません』


『嘘を嘘だと言えないなら』


『学問は何のためにあるんですか?』


 ロキシーが。


 静かになった。


「それで?」


 隆一は。


 小さく笑った。


「父は負けた」


「負けた?」


「十九歳の留学生に」


     ◇


 葛城は。


 資料を大学へ返すふりをして。


 エリザベスを逃がそうとした。


 だが。


 神谷側が先回りしていた。


 祠。


 揉み合い。


 転落。


 混乱。


 そして。


 夜明け。


 エリザベスは山を下りた。


「写真220」


 朗が言う。


「お父さんが持っていたんですよね」


 隆一の表情が。


 変わった。


「……その話まで」


「美津子さんから」


「そうですか」


 隆一は。


 長く息を吐いた。


「父は」


「はい」


「最後まで手放しませんでした」


     ◇


「見せてもらえますか?」


 ロキシーが聞く。


 隆一は。


 答えない。


「葛城さん?」


「……遅かった」


「え?」


「写真は」


 彼は。


 目を閉じた。


「もうありません」


     ◇


「いつ?」


 朗が身を乗り出す。


「いつなくなったんです?」


「二週間前」


「最近……」


「はい」


「盗まれた?」


「おそらく」


「警察には?」


「届けました」


「どこに保管してたんです?」


「父の書斎」


「誰でも入れる?」


「いいえ」


 鍵。


 防犯。


 家族。


「荒らされた?」


「それが」


 隆一の顔が険しくなる。


「写真だけだった」


「写真だけ?」


「はい」


「他の金品は?」


「無傷です」


 目的は明らか。


 写真220。


     ◇


「二週間前」


 ロキシーが言う。


「私たちが調べ始める前?」


「ほぼ同じ頃だ」


 朗が考える。


 第1話。


 脅迫状。


 ロキシーが日本へ来て。


 エリザベスについて。


 調べ始めた頃。


「偶然じゃない」


「はい」


 誰かが。


 先に動いている。


     ◇


「でも」


 朗が言う。


「なぜ今なんだ?」


 五十年間。


 守られてきた写真。


 それが。


 今。


 突然盗まれた。


「何かきっかけがあった」


「私?」


 ロキシーが聞く。


「……可能性はある」


「どうして?」


「外国人留学生が」


 朗は彼女を見る。


「またエリザベスについて調べ始めたから」


「でも最初は知らなかった」


「じゃあ」


 別のきっかけ。


     ◇


「実は」


 隆一が言った。


「写真が盗まれる一週間前」


「はい」


「大学から問い合わせがありました」


 二人が反応する。


「誰から?」


「大学史編纂室」


「何の?」


「創立記念史を作るので」


「古い写真を?」


「ええ」


 朗の目が細くなる。


「担当者の名前は?」


 隆一が答えた。


「神谷さん」


     ◇


「神谷?」


 ロキシーの声。


「下の名前は?」


「神谷圭介」


 朗は。


 すぐスマートフォンを出した。


 大学公式サイト。


 職員一覧。


 検索。


 出た。


 神谷圭介。三十三歳。大学史編纂室主任。


「大学職員」


「はい」


「神谷隆三と」


 姓。


 大学。


 歴史資料。


 偶然。


 では済まない。


「親族ですか?」


 隆一が。


 静かに言った。


「神谷隆三の孫です」


     ◇


 空気が。


 変わった。


「写真を見せました?」


「いいえ」


「でも存在は?」


「話しました」


「220という番号も?」


「そこまでは」


「内容は?」


「父が五十年前の事件について残した写真だと」


「それだけで十分か」


 朗が呟く。


     ◇


「神谷圭介」


 スマートフォンのプロフィール写真。


 若い男。


 整った顔。


 眼鏡。


 朗は。


 どこかで。


 見た気がした。


「……?」


「アキラ?」


「待って」


 記憶。


 大学。


 旧図書館。


 展示室。


 遠く。


 人影。


 あるいは。


 第3話。


 研究棟。


 黒い帽子。


 マスク。


 顔は見えなかった。


「まだ分からない」


「怪しい?」


「かなり」


 ロキシーがスマートフォンを見る。


「会いましょう」


「待て」


「なぜ?」


「今回は」


 朗が。


 はっきり言う。


「僕たちだけで行かない」


 ロキシーが。


 少し驚く。


 そして。


 笑った。


「はい」


     ◇


「父の遺言があります」


 葛城隆一が言った。


「遺言?」


「正式な遺言書ではありません」


「手紙?」


「はい」


 書斎。


 古い机。


 隆一は。


 一通の封筒を持ってきた。


 表。


 ――隆一へ。


「読んでも?」


「どうぞ」


     ◇


 葛城宗一郎。


 晩年。


 震える字。


 私は、学問より大学を選びかけた。


そのことを、生涯恥じている。


 朗は。


 黙って読む。


 十九歳の少女のほうが、私より勇気があった。


 私は教師でありながら、教え子に教えられた。


 ロキシーが。


 静かに聞いている。


 彼女を守れなかった。


 しかし彼女は生きた。


それだけが救いだ。


 最後。


写真を守ってほしい。


写真は、誰かを罪人にするためのものではない。


嘘を嘘のまま歴史にしないためのものだ。


 朗は。


 手紙から顔を上げた。


     ◇


「これ」


 ロキシーが言う。


「エリザベスが言ったことと似ています」


「学問は何のためにあるのか」


「はい」


 朗も頷く。


 葛城宗一郎。


 裏切った。


 怖がった。


 逃げかけた。


 でも。


 最後には。


 戻った。


「人間らしいですね」


 ロキシーが言う。


「うん」


「悪い人でも」


「英雄でもない」


「はい」


「怖かった普通の人」


 ロキシーは。


 少し笑う。


「アキラみたい」


「僕?」


「怖くても来てくれる」


「……」


「私を探しに」


「その話またする?」


「大事だから」


     ◇


 葛城家を出る。


 夕方。


「神谷圭介」


 朗が言う。


「明日、宮原先生に相談しよう」


「はい」


「警察にも」


「はい」


「絶対二人だけで接触しない」


「はい」


 朗が横を見る。


「素直すぎて怖い」


「反省しましたから」


「本当に?」


「アキラに怒られるの嫌です」


「そこ?」


「それと」


 ロキシーが朗の腕を取る。


「心配させるのも嫌です」


「……」


 距離。


 近い。


 でも。


 もう。


 離れてくれとは言わなかった。


     ◇


「アキラ」


「何?」


「さっきの手紙」


「うん」


「怖くても戻った」


「葛城先生?」


「はい」


「そうだね」


「勇気って」


 ロキシーが空を見る。


「怖くないことじゃないんですね」


「……たぶん」


「怖いけど行くこと?」


「かもね」


「じゃあ」


 ロキシーが。


 朗を見る。


「アキラは勇気があります」


「僕は」


「あります」


「……」


「私が知ってます」


 朗は。


 言葉が出なかった。


「こういうとき」


 ロキシーが笑う。


「日本人は何て言います?」


「……ありがとう」


「それでいいです」


     ◇


 その夜。


 朗は自宅。


 ベッド。


 スマートフォン。


 神谷圭介。


 大学史編纂室。


 論文。


 大学史。


 家族。


 検索。


「……出ないな」


 当たり前。


 祖父が五十年前の不正に関与していた。


 そんな情報。


 公開されているはずがない。


 そのとき。


 メッセージ。


 ロキシー。


『アキラ』


『何?』


 画像。


 金色の猫のスタンプ。


『おやすみなさい』


「……」


 朗は。


 少し笑った。


『おやすみ』


 返信。


 直後。


『夢で会いましょう』


「またか」


『今日は嫌だとは言わない』


 送る。


 数秒。


 既読。


 そして。


『!!!!!!!!』


 大量の感嘆符。


「何だよ」


 思わず笑った。


     ◇


 その直後。


 スマートフォン。


 もう一件。


 知らないアドレス。


「……」


 朗の表情が変わる。


 メール。


 件名。


 写真220について


 本文。


 高瀬朗君。


 名前。


 君は勘違いしている。


 一行。


 写真を隠したいのは神谷家ではない。


 朗が。


 身体を起こす。


神谷圭介を疑うのは構わない。


だが、彼もまた利用されている。


「……何?」


 さらに。


本当に写真220を必要としている人物は、


 一行。


君たちのすぐ近くにいる。


 朗の背筋に。


 冷たいものが走った。


 最後。


 添付ファイル。


 一枚の写真。


「……」


 開く。


 写真220。


 コピー。


 確かに。


 夜明けの山道。


 エリザベス。


 葛城宗一郎。


 崖の下の男。


 神谷隆三。


 そして。


 画像の赤い丸。


 神谷隆三のさらに後方。


 一人。


 若い学生。


 顔は小さい。


 でも。


 写真の裏面から。


 名前だけが読み取れるよう加工されていた。


 M. Miyahara


「……宮原?」


 朗の呼吸が止まった。


 宮原。


 今。


 自分たちの調査を助けている。


 民俗学の教授。


 宮原教授。


「いや」


 年齢が合わない。


 今の教授本人ではない。


 五十年前。


 なら。


 父親?


 親族?


 メールの最後には。


 一文だけ。


 君は、最初から一番近くにいる人間を疑っていない。


 朗は。


 画面を見つめたまま。


 動けなかった。


 事件は。


 大学の外にあるのではない。


 ずっと。


 自分たちの隣に。


 あったのかもしれない。


第16話 葛城家の遺言 了

挿絵(By みてみん)

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