数字は、間違ってません
エレベーターの階数表示が、地下二階から十七階まで上がるのに四十秒かかる。
その四十秒で、直人は持ってきた資料の順番を三回入れ替えた。
三回目で、最初の順番に戻した。
十七階に来るのは三度目だ。着任のときと、先月、黒瀬悠真の書類を持って。
◇
適性査定部の部長室は、思っていたより狭かった。
壁の一面が棚で、背表紙のないファイルが並んでいる。番号だけが振ってある。
あとで知ったことだが、あれは全部、査定への不服申立だった。制度が始まった年から一件も捨てていない。
東堂啓介は、そのうちの三冊を机に出していた。
直人が座る前に、東堂は言った。
「読みました。全部です」
「……はい」
「水瀬玲奈の同行日報の照合。黒瀬悠真の発射秒数の分布。突撃型A級二十七名の負傷率。それから、あなたが三年で出した再配置の追跡記録」
「はい」
「面白かったです」
直人は顔を上げた。
「感想です」
東堂は付け足した。
「制度の話ではありません」
◇
「では、制度の話をします」
東堂はファイルを閉じた。
「あなたのやり方を一言でまとめます。訂正があれば言ってください」
「はい」
「ランクによる配置は正しい。ただし、それだけで仕事まで決めるのは早い。だから記録を全部読んで、三時間の面談で適職を出す」
「そのとおりです」
「一つ聞きます。その三時間は、誰の三時間ですか」
直人は、資料を机に置いた。
「私の目を信じてくれとは言っていません」
「では何を」
「手順を見てください。面談で聞く項目は決まっています。読む記録も決まっています。照合はシステムでできます」
「誰でもできる、と」
「はい」
「では、なぜ誰もやっていないんですか」
直人は、答えるまでに二秒かかった。
「時間がかかるからです」
「そうです」
東堂はうなずいた。
「そこから始めましょう」
◇
東堂は、机の上の紙を一枚、直人のほうへ滑らせた。
昨年度
戦力外理由つき構成変更届 二千四百十一件
退職・職種変更相談 千六百二十件
計 四千三十一件
「二万人の話はしません」
東堂は言った。
「あなたが見るのは覚醒者全員ではない。困っている人だけです。そこは私も同意します」
「……はい」
「その困っている人が、去年は四千三十一人いました」
直人は、紙を見ていた。
自分で出したことのない数字だった。出す必要が、これまでなかった。
「四千人に三時間。年間一万二千時間です。あなたは何人いますか」
「……増やせば」
「そう来ると思っていました」
東堂は、次の紙を出した。
「増やしましょう。仮に十人。一人あたり千二百時間。可能な数字です」
「はい」
「その十人を、どうやって選びますか」
直人は口を開いて、閉じた。
「あなたと同じ判断ができる人を、どこから連れてきますか」
「……育てます」
「何年で」
答えられなかった。
「では次です」
東堂は、指を二本立てた。
「十人育ったとします。A職員が『この人は救難管制』と言った。B職員が『いや、整備だ』と言った。どちらを採用しますか」
「……両方、本人に見せます」
「それでいいと思います」
あっさり通った。直人は、逆に身構えた。
「選ぶのは本人でいい。そこは争いません」
「……はい」
「では、聞き方を変えます」
東堂は、指を三本にした。
「その二つが、どちらも安全な選択肢だと、誰が保証しますか」
直人は、口を開かなかった。
保証したことは、一度もない。安全だと思ったから出していただけだ。
「本人がA案を選んだとします。半年後、配置先で事故が起きた。あとになって、B案なら起きなかったと分かった」
東堂は、指を四本にした。
「そのとき、A職員の判断のどこが間違っていたのか、再現できますか」
直人は、机の木目を見ていた。
言い返す材料が、一つもなかった。
三年ぶんの記録も、五百十二枚の日報も、百九十七件の映像も、この部屋では役に立たない。
全部、直人が一人で読んで、直人の頭の中だけで並べたものだからだ。
◇
部屋が静かだった。
直人は、答えを探していたのではない。
探しても出ないことが、途中で分かっていた。
「……分かりません」
初めて言った言葉だった。
三年やって、記録を読んで、面談をして、配置を決めて、追跡までして、それでも今、この部屋で答えられることが一つもない。
「君一人の見る目に、人命を預ける制度は作れないんです」
東堂は、静かに言った。
「あなたのやっていることが無価値だとは言っていません。制度にならないと言っています」
◇
処分ではなかった。
「業務整理」という三文字で、再配置支援室の新規相談受付が止まった。
掲示は地下二階の廊下に一枚出ただけだ。誰も見に来ない場所だった。
◇
三日、やることがなかった。
新規は受け付けられない。真ん中の山に残っているのは十三人。決まっていない人たちだ。
決まらないものは、書類を並べ替えても決まらない。
三日目に、四人目の書類を左から三番目に移した。その日の仕事は、それで終わった。
東堂の質問は、机に置きっぱなしにした紙みたいに残っている。
――そのとき、A職員の判断のどこが間違っていたのか、再現できますか。
答えは出ない。
ただ、三日かけて一つだけ分かったことがあった。
直人はこれまで、自分の判断が正しかったかどうかを、自分だけで確かめてきた。
配置した人を追いかけて、三ヶ月後と一年後に聞いて、辞めていなければ正しかったことにしていた。
それは検証ではない。確認だ。
誰かに間違いだと言ってもらう手順が、三年間、一つもなかった。
◇
三日後の夕方に、玲奈が来た。
救難管制の制服のまま、端末を持っている。
「相馬さん」
「水瀬さん。研修は」
「今日は非番です」
嘘だと思ったが、言わなかった。
「これ、見てください」
玲奈は端末を机に置いた。
協会内部の申請システム。再配置支援室宛の受付欄だ。
掲示が出た日から、そこは受付停止と表示されている。
そのすぐ下に、待機件数の数字があった。
二十二
「止まってません」
「……そうですね」
「停止って出てるのに。みんな、止まってるって分かってて出してます」
直人は、その数字を見ていた。
顔も名前も、何に困っているのかも知らない二十二人だ。
「なんで出すんでしょうね」
「……相馬さん、本気で言ってます?」
「はい」
玲奈は、少し息を吸った。
「あなたに見てもらいたいからですよ」
直人は、答えなかった。
「相馬さん」
「はい」
「一個だけ、聞いていいですか」
「はい」
「相馬さんは、ここに向いてるんですか」
直人は、画面から顔を上げた。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味です」
玲奈は、端末を指で押さえたまま言った。
「私に三時間かけましたよね。佐倉さんの日報も、黒瀬さんの映像も、全部読んで」
「はい」
「じゃあ、相馬さんのことは、誰が読むんですか」
直人は、考えた。
考えたのは答えではなく、質問の意味のほうだった。
「……考えたこと、ないです」
「一回も?」
「一回も」
玲奈は、それ以上聞かなかった。
◇
その夜、直人は机の一番下の引き出しを開けた。
異動希望調査票の控えが、三枚入っている。年に一度、全職員に配られるものだ。
第一希望、第二希望、理由。欄は三つある。
三枚とも、白紙だった。
直人は、今年のぶんを取り出した。
ペンを持って、第一希望の欄をしばらく見た。
それから、白紙のまま封筒に入れた。
◇
翌週、直人はまた十七階に呼ばれた。
東堂の机には、同じ画面が出ていた。
待機件数は、二十二のままだ。
「私が確認しました」
東堂は言った。
「需要があることと、制度として成立することは、別です」
「はい」
「それは変わりません。先週の話は、一つも撤回しません」
「はい」
東堂は、しばらく画面を見ていた。
「受付停止と表示されている窓口に、二十二件入っています」
「はい」
「読んだうえで、出している。私は、これをどう扱えばいいのか分かりません」
東堂は画面を閉じた。
「制度は、需要を根拠にしません。根拠にすると、声の大きい側にしか届かなくなるので」
「はい」
「ただ、私は査定部長です。査定に不服がある人の数を見て、何もしないという選択肢は、私にはない」
東堂は手帳を開いた。
「三十件だけです」
「……え」
「三ヶ月、三十件。全件、判断の手順を記録に残してください」
「……はい」
「配置後の追跡もやってもらいます。条件は明日出します」
直人はうなずいた。
◇
「東堂さん」
「はい」
「これは、私に許可を出したんですか」
「いいえ」
東堂は顔を上げた。
「制度に、実験させています」
東堂は、そこで手帳を閉じた。
「三ヶ月後に、私は答えを持っていないといけない。今は持っていません。それが理由です」
直人は立ち上がって、礼をした。
ドアの手前で、後ろから声がかかった。
「相馬さん」
「はい」
「先週の四つの質問ですが」
東堂は、こちらを見ていなかった。
「あれは、私が十四年前に出した企画に返ってきた質問です」
「……どういう」
「査定に、指標を三つ足そうとしました。今の三つとは別のものです」
東堂は、棚のほうを見ていた。番号だけが振ってあるファイルの列だ。
「通りませんでした。同じことを聞かれて、答えられなかったので」
直人は、ドアノブに手をかけたまま止まった。
「答えは、まだ持っていません」




