現場は見て、運ぶ。中継は持つ。管制は決める
四月の壁に、四行目があった。
三つの規則の下に、真壁の字で、一行。
「持つのは、中継の仕事」。
直人の名前は、どこにもない。誰が言い出したかは、書いていない。書かないのが、この拠点の流儀だった。残ったのは、言葉のほうだ。
書いたのは真壁だが、言い出したのは自分だと、名乗り出る気はなかった。名前が残らないことを、支援室にいたころの自分なら、少し惜しがったかもしれない。いまは、惜しくない。残ったのが言葉のほうなら、それでいい。
直人は、その一行を、少し長く見た。見てから、受付の内側へ入った。新しい職場の壁に、自分の仕事が一行だけ残っているのは、悪くない気分だった。
◇
受付の台で、市川が、新しく入った伝令に何か教えていた。
若い。春からの配属だ。市川が、控えの束を開いて、略号の一覧を指している。
「坂上、水場、二分岐。場所の順で並んでます。名前の順じゃないです」
「全部、覚えるんですか」
「覚えないです。どこに何が書いてあるかだけ、頭に入れといてください」
「それで、走れるんですか」
「走れます。むしろ、走れます。頭が空くんで」
「市川さん、昔から、こうだったんですか」
「いや。――去年の冬まで、全部覚えてました。覚えなくていいことから、教えますね。そのほうが、速いんで」
直人は、台の向こうで聞いていて、口を挟まなかった。挟む場所が、もう、なかった。
◇
昼前に、乃木が中継へ上がってきた。
次の潜行の前だ。受付の端に腰を掛けて、帳面に何か書いている。戻ってからだけ書く人が、潜る前に書くのは、前の潜りのぶんの書き残しだと、前に言っていた。
書き終えると、乃木は玲奈宛ての内部便を一通、受付へ託した。
「また一件、預けます。条件は、前と同じで」
「履歴は、届いていますか」
「届いています。誰が読んだか、毎度、一枚来ます」
「読みにくいですか」
「読みにくいです。読みにくいのが、いいんだと思います」
「納得は、まだですか」
「まだです。納得したら、預けるのをやめるかもしれない。しない代わりに、続けます」
乃木は、帳面を胸にしまって、通路の暗いほうへ消えた。膨らんだ表紙が、前より少しだけ厚くなっていた。
◇
乃木の隊が通過して、縄にこぶが一つ増えた。
結ぶ前に、帰還確認係は三人の顔を見て、人数を声に出した。解く日も、同じ手順で解く。結ぶ手は、解く日の形まで知っている手だった。
春の縄には、固いこぶが五つ、並んで揺れていた。
◇
午後、窓口に、柴田の隊の若いのが来た。
三人のうち、一人だけ戻った人だ。山を越えて、仕事に戻っていた。杖をついていたが、自分の足で来た。
次の潜りの登録に、と言って、彼は窓口の紙を見た。行先の欄と、予定時刻の欄を、順に見た。
「行先は、預けます」
「はい」
行先の欄に、彼は短く書いた。書く手が、前に見た隊長の手つきと、少し似ていた。
ペン先が、隣の予定時刻の欄の上で、少しだけ止まった。
「予定時刻は――まだ、書きません」
「分かりました」
「……聞かないんですね。なんで書かないのか」
「聞かないです。行先を預けてもらえたら、こちらは十分なので」
「そうですか」
「はい。書きたくなったら、いつでも。待ってます」
彼はペンを置き、杖を取って、受付を出ていった。足音が、通路の規則どおりに静かだった。
◇
数字は、四月の頭に一度、揃えた。
申告する隊は、冬の初めの倍になった。段に乗る隊も増えた。遅延は、荒れた月を越えて、また落ち着いた――落ち着いたのは、道が静まったからで、こちらが何かをしたからではない。そこは、分けて書いた。
段の運用は、気にかける、が多く、準備する、が数件、動く、が、あの夜の三系統ぶん。動いた回数は、少ないほうがいい回数だ。少なかったことを、誇らずに記す。
直人は、数字の紙を玲奈へ回す前に、一度、声に出して読んだ。読むと、向きが聞こえる、と前に玲奈が言っていた。読んでみて、確かに、落ち着いた月の数字は、落ち着いた音がした。
市川の控えは、棚にあった。
雨の月は、過ぎた。三月の終わり、荒れと入れ替わるように天井から例年の筋が来て、白板の端の時刻をいくつか食った。控えの束は、あの晩、受付の奥へ避けてあって、濡れていない。紙が生きて春を越えたのを確かめてから、真壁は棚を一段、白板の近くへ上げた。常設、とは、まだ言わない。言わないまま、棚だけが上がった。
◇
地上から、内部便が三通、同じ日に届いた。
宇野から一行。柏木の考課に、新しい項目が四月から適用された、と。見られなかった仕事が、見られる形になった、その続きだ。
篠塚から一行。あの夜の件は、出動の手順に不備なし。そのうえで、別の判断なら結果が変わったかどうかは、今ある資料と方法では判断できない――判定不能・二。正否と、分からなさが、分けて書かれていた。空白の隣に貼る一行が、届いた。
東堂から、一枚。長い文はなかった。中継点の運用について、査定部として、現時点で異議はない、と。短い一枚だった。異議はない、は、賛成とは違う。違うまま、置かれた。
直人は、三通を、綴りの別々のところへ分けて挟んだ。異議なしと、区分と、考課。三つは、同じ束にすると、どれかが大きく見える。別々に挟めば、それぞれの重さのまま残る。
◇
四月の半ば、玲奈が、中継点へ上がってきた。
点検の同行、という名目だった。卓のまとめ役が現場を一度見ておく、という理屈は、通っている。
四ヶ月、無線でだけ話した相手が、同じ受付の内側に立っていた。玲奈は、白板を見て、縄のこぶを見て、控えの束をめくった。卓の控えと、同じ形だ、と小さく言った。
「どこで作っても、似た形に落ちるって、言ってましたよね」
「落ちました。――ほんとに、似てます」
「時刻と、相手と、中身の一行」
「同じです。卓の控えと、一文字違わないくらい」
「別々の場所で、相談もせずに、ですか」
「相談、してないですね。無線では、ずっと話してましたけど」
二人は、同じ紙を挟んで、短い打ち合わせをした。打ち合わせが済んでも、玲奈は夕方の便まで、受付の中をひととおり見て回った。縄。白板。棚の控え。無線で四ヶ月聞いてきた音の、出どころを一つずつ確かめる見方だった。
白板の前に並んで立った数分は、無線の声より、少しだけ近かった。近さの置き場所は、まだ決めない。決めない置き場所がある、ということも、この四ヶ月で覚えたことの一つだった。
◇
終業前の、定時交信の時刻になった。
夕方の受付は、下り便の支度の音がひとしきり続いて、それから静かになった。
直人が、無線機の前に座る。玲奈は、まだ帰らずに、隣にいた。
「今日のぶんの定時は、済んでますよ。点検があるんで、昼に繰り上げました。受けたのは、そちらの四番卓です」
「知ってます。繰り上げの届けを通したの、私なので」
「じゃあ、なんで座るんですか」
「……時刻だから、です」
玲奈は、笑わなかった。笑わずに、自分も、空いている椅子に座った。
二人とも、時計を見た。
四ヶ月、この時刻に、無線で短い言葉を交わしてきた。異常なし。了解。また明日は、文言にない。文言にないまま、半呼吸だけ待つ癖が、二人の両方に付いていた。
定時の時刻が来て、そして、過ぎた。
交信は、なかった。別の卓が受けているのだから、ここでの交信は、なくていい。なくていい定時が、そのまま、二人の前を静かに流れた。
直人は、無線機の電源を落とさなかった。落とさないまま、受けのチョークの粉が、夕方の光に白く溜まっているのを見ていた。




