聞こえた順に、助けない
七卓目に、玲奈は自分で座った。
増やした卓だ。まとめ役が一つ空ければ、全体の音が聞けなくなる。だから、埋めるのは自分でいい。右へ沈む椅子ではなかった。沈まないぶん、座り心地が落ち着かない。
輻輳の夜の音は、朝の音と違う。卓ごとの癖が消えて、どの卓からも、切れ切れの発信を拾う声だけが続く。
玲奈は、六つの卓の音を背中で聞きながら、七卓目の回線に耳を合わせた。どの卓も、拾う声で手一杯だ。拾って、復唱して、次を拾う。拾いきれないぶんが、七卓目へ回ってくる。
聞こえる線の内側に、要請が三つ、同時に立っていた。
◇
二つは、はっきり聞こえた。
一つは、第三分岐の手前で待機。負傷一名、意識あり、出血は止めた。夕方の未帰還の三つには入っていない隊だ。荒れの中を浅い側まで自力で戻って、そこで動けなくなった。
もう一つは、広間の隊。夕方から解けないこぶの一つが、境界まで戻って、声になった。全員無事、灯りと水はある。
どちらも、場所が分かって、容体が分かって、声が届く。
声のない隊が、もう一つあることも、控えには載っている。柴田の隊。声がないものは、要請の列に並ばない。並ばないまま、中継の確認要請から起こした捜索の段取りだけが、裏で進んでいる。
三つ目は、断片だった。
「……ぎ、二名……たい、第二分岐の……」
隊票も取れない。場所も、半分しか聞こえない。境界まで戻った隊員の携帯無線を、中継が拾って転送してきた、切れ切れの一本だ。
聞こえた順に助けるなら、三つ目は、いちばん後になる。いちばん聞こえないからだ。
「三番、断片の発信、拾えますか」
「切れます。隊票、取れないです」
「切れても、拾い続けてください。場所が動くかどうかだけ、見ます」
「……了解」
玲奈は、三つ目を、先に取った。
◇
なぜ先なのかを、玲奈は自分の中で一度、言葉にした。
聞こえやすさで決めるのではない。悪くなるまでの猶予が短いほう、見積もれないほうから取る。順番の付け方は、紙で覚えた。今夜は、それを音でやる。
はっきり聞こえた二つは、場所が安定していて、容体が確認できている。短い時間なら、待ってもらえる根拠がある。
断片の一つは、第二分岐。――そこは、乃木が預けた声の中にあった場所だった。撤退のときのやり取りで、隊長が「奥が落ちかけている」と言っていた分岐。
猶予のいちばん短いところから、取る。聞こえないことは、安全の理由にならない。
◇
待ってもらう二つには、理由を伝えた。
「第三分岐手前の隊、聞こえています」
「……こちら、どうすれば」
「いまから、第二分岐の確認を先にします。あなたたちは、場所も容体も、こちらで把握できています」
「後回し、ってことですか」
「順番は、後です。でも、放してはいません」
「……信じて、いいんですか」
「動かずに、灯りを一つにして待ってください。迎えの段取りは、組んであります」
「……了解。待ちます」
待ってください、だけでは言わなかった。なぜ待たせるか、どこまで把握しているかを、声に乗せた。
◇
断片は、拾い続けるうちに、形になっていった。
「……乃木隊……三名。負傷、一……意識、あり」
「救難管制、取れました。乃木隊、三名、負傷一」
「位置……境界標二番の、手前……動けます。ゆっくりなら」
「境界標二番の手前、了解。そのまま、浅い側へ」
二十分かけて、位置と、人数と、容体が揃った。切れ切れでも、揃うものは揃う。深部の危ない場所の見当は、預かっていた声が先に教えていた。あとは、退路だった。
◇
市川の現認は、中継経由で、短く入った。
「第七中継、市川。第二分岐、誘導標の分岐まで、通れます」
「その奥は」
「見てないです。見てないので、言わないです」
見ていないから言わない、という報せ方を、玲奈は控えに写した。
◇
退路の判断は、二つの材料でした。
市川の現認が、誘導標の分岐まで。第二分岐の浅い側から戻った隊の報告が、崩れかけの位置を具体的に。二つは、同じ場所で一致した。
一致したところまでを、玲奈は通れると見た。一致しない奥は、通れるとも通れないとも、卓の紙に書かなかった。
◇
救助隊を、中継経由で入れた。
入れる手前で、玲奈は一つだけ、自分の判断で手順を省いた。
ふだんなら、位置と容体と退路を確かめたあと、記録を揃えるために、同じことをもう一度、別の言い方で確認する。言い直しの確認は、あとで交話記録を読み返したとき、筋が通るようにするためだ。
今夜は、それを省いた。位置も容体も退路も、安全に要る確認は全部済んでいる。省いたのは、紙を完全にするための、重ねの一回だけだ。
省いて空いた数秒で、玲奈は返事を返した。
「――聞こえてます。そのまま、来てください」
断片の声の主へ、まっすぐ言った。交話の記録には、確認の筋が一つ抜けた、小さな空白が残る。
その空白は、返事に換えた空白だった。
◇
救助隊が入り、市川が退路の分岐で誘導標を置き直した。
市川は、戦わない。走って、置いて、戻る。置いた標の光は弱いが、暗い中では、それだけが「こっち」を示す。
「救助、入ります。誘導標、追います」
「お願いします。断片の隊、まだ聞こえています。場所は、動いていません」
「誘導標、一つ目。見えました」
「どうぞ、そのまま」
「誘導標二つ目、通過。全員、自分の足で歩いています」
「二つ目通過、了解」
救助隊の声が、標を一つ越えるたびに入る。標の番号が、境界へ向かって若くなっていく。
玲奈は、番号と時刻だけを控えに並べた。三つ目から二つ目までの間隔は、八分。置かれたばかりの標が、進み具合の物差しになった。
次の報せが、来なかった。
八分が過ぎた。十分が過ぎた。番号が減っていくなら、帰ってきている。間隔が開いたら、何かが起きている――自分で決めた物差しが、悪いほうを指しかけている。
呼ばなかった。呼べば、向こうの手が止まる。止めていい場面かどうかが、こちらからは分からない。隣の卓も、同じ時計を見ていた。
十三分目に、声が来た。
「一つ目、通過。遅れました。坂の前で、隊長を担架に替えたので」
「一つ目通過、了解。――替えた、だけですね」
「替えただけです。三人、います」
三人、います。その報せを、玲奈は控えの端に、数字より大きく書いた。
◇
明け方、第二分岐の隊が、境界を越えた。
乃木の斥候隊だった。三人。隊長が負傷していて、担架で上がってくる。搬送は、待たずに出た。地上の救護と担架が玄関で合う形は、もう卓の手が覚えている。
「第七中継より救難管制。乃木隊、三名、境界を越えました。隊長、負傷。搬送、出します」
「救難管制、受けました。三名――確認しました」
玲奈は、三人、と控えに書いた。書いて、書いた数字をしばらく見た。
できたことだけを、順に並べる。断片の声が拾えた。退路が二つの材料で確かめられた。返事が間に合った。市川が走った。隊が帰った。――そこまでだ。そこから先の、もし何々だったら、は、書かない。書けば、嘘になる。
◇
待ってもらった二つの隊も、朝までに戻った。
一つは救助で、一つは自力で。広間で待っていた隊は、灯りを一つにして、水を分けて、迎えが来るまで動かずにいた。待ってもらえる根拠のあった隊は、根拠のとおりに、待てた。
帰還の報せが入るたび、玲奈は控えの行に線を引いた。夜のうちに立った要請は、三つとも閉じた。
閉じられない行が、一つだけ残った。柴田の隊。要請の行ではない。声がないまま、中継の確認要請から起こした、捜索の行だ。
玲奈は、卓を立たなかった。
「第七中継。――まだ、聞いてます」
朝の交代まで、あと少しある。交代しても、たぶん、家には帰らない。帰れる夜と、帰れない夜があって、昨夜は後ろだった。
聞こえる線の、いちばん外の暗いところへ、玲奈は耳を置いたままにした。




