現場は止めるな。ここで書け
縄のこぶが、朝のうちに十二まで増えた。
ふだんの倍だ。荒れる気配を聞いて、奥の様子を見にいく隊が増えた。入る隊が多ければ、結び目も多い。
昼を回って、解けないこぶが出始めた。戻る予定の隊が、戻ってこない。一つ、二つと、縄に古いこぶが残っていく。
直人は、結び目を数えるのをやめなかった。数えることだけが、いま受付の内側でできる確かな仕事だった。
◇
戻ってくる隊の、装備が変わっていた。
灯りの電池が、ふだんより早く空になっている。空の電池を、受付の籠へ放る音が続く。手ぶらに近い格好で戻る隊もいた。荷を置いて、身一つで退いてきた、ということだ。
荷を捨てて退くのは、臆病ではない。荷より体を選んだ、というだけだ。捨てた荷の数を、誰も責めない。責めないことも、この拠点の、壁に書かれない決まりの一つだった。
「奥、どうだった」
「暗い。いつもより、重い」
「それだけか」
「それだけ、しか見えなかった。電池が、保たないんだ」
誰も、奥で何が起きているかは、はっきり言わなかった。言えるほど、見てきていない。見てきたのは、暗いのと、重いのと、電池が保たないことだけだ。
直人は、戻った人の様子を控えへ写した。何層で引き返したか。灯りはいくつ残っていたか。言葉にできる事実だけを、順に。
奥のことは、書かなかった。見てきていない者の言葉を、見てきたことのように書けば、紙が嘘をつく。暗い、重い、保たない。その三つだけが、今日の確かな事実だった。三つしかなくても、三つは三つだ。
◇
無線が、重なり始めた。
第七中継の携帯無線に、境界まで戻った隊の断続発信が、いくつも乗ってくる。切れ切れで、どれがどの隊か、受けた端から崩れていく。
復唱が、追いつかなくなった。
補給の数と、戻りの報せと、負傷の一報が、同じ数分に来る。言った者と聞いた者で三回言う決まりが、二回になり、一回になり、こぼれる。
こぼれるのは、怠けではない。器の話だ。平時に合わせて作られた器に、荒れた日の量が来れば、縁から溢れる。溢れた分が、どこへ落ちるか。今日の問題は、それだけに絞られていた。
市川が、坂を上がってきて、受付で数を言い直した。言い直して、言葉の途中で止まった。
「……止血、六。いや、八。――すみません、どっちか、分からなくなりました」
「坂上から、水の追加。――いや、坂上じゃない。水場だ。水場の、三」
「水場、三。追加」
「すみません、もう一回。……水場、三で、合ってます」
市川が数を取り違えたのを、直人は初めて見た。
責める者はいなかった。平時で四十一件を一人で抱えていた頭に、今日はその倍が来ている。満杯の記憶が、満杯を超えた。それだけのことだった。
◇
真壁が、受付の内側へ入ってきた。
壁の三規則の前に立って、それを見上げ、それから、通路のほうへ声を張った。
「通路の検査、二人を一人にする。一人、こっちへ回せ」
「拠点長、通路が薄くなります」
「薄くなるぶんは、俺が立つ」
真壁は、自分の上着を脱いで、受付の釘に掛けた。拠点長が通路に立つのは、開設の年以来だと、古株が小さく言った。
回ってきた一人が、受付区画で紙を持った。市川が言う数を、もう一人が受けて、紙が覚える。市川の頭から、数が一つずつ降りていく。
◇
紙を持つ二人目が入って、半刻で、受付の空気が変わった。
市川が数を言う。一人が復唱を締め、一人が控えに落とす。落ちた数は、もう市川の頭に残らない。残らないから、次の数が入る。
取り違えは、二人目が入ってから、起きていない。市川の頭が良くなったのではない。頭から降ろす先が、できただけだ。
真壁が通路で引き受けた危なさと、受付で降りた数と、どちらが重いかは、今日は計れない。計るのは、全部終わってからだ。
「現場は、止めるな」
真壁は、通路へ出る前に、もう一度言った。
「止めるな。――ここで、書け」
一度きりの、短い宣言だった。規則を破る、とは言わなかった。通路の規則は、通路のままだ。ただ、受付区画で書く人を一人増やし、そのぶんの危なさを、自分が通路で引き受ける。割り振りを、変えただけだった。
決める日が来たら決める、と昨日言った人が、今日、決めていた。
◇
市川が、受付の台に手をついて、息を整えていた。
「俺、今日、覚えられないです」
「覚えなくていいです」
「いや、そうじゃなくて。覚えるのが、間に合わない。こんなの、初めてで」
言いながら、市川は懐から自分の控えの束を出した。走る順に、自分で並べ替えた、あの束だ。
しばらく束を見て、それから、台の向こうへ押した。直人の手前まで。
「――俺、見てきます。覚えるのは、そっちで」
「受けます」
「どの道が通れて、どの道が駄目か。見てきたのは、戻るたび、全部ここへ置いていきます」
「置いた先は、紙が持ちます。市川さんには、戻しません」
「それでいいです。走りながら持つのは、今日はもう、やめるんで」
市川は、空いた両手を、にぎって、開いた。
頷いて、走り出す背中が、荷を一つ下ろしたように軽かった。覚えるのをやめた市川は、たぶん、この拠点でいちばん速い。
◇
第一層のほうでは、巡回の班が、様子を見にきた一般の見物客を外へ誘導していた。
遠くに、園田の班の青い腕章が見えた。手順どおり、声を張らず、列を作って、ゲートの口へ向かって人を流している。言葉を交わす距離ではなかった。交わす必要も、なかった。
誘導は、静かだった。慌てさせないことが、いちばん速い。直人は、腕章を一度見て、受付の内側へ目を戻した。見ている暇は、なかった。
誘導は、巡回班の当番表どおりだ。今日が特別だから動いたのではない。特別な日に動けるように、ふだんの表が回っていた。
◇
夕方、解けないこぶが、三つになった。
三つのうち二つは、戻りの時刻を申告していた隊だ。乃木の斥候隊と、広間を仮の宿にする隊。どちらも予定を過ぎて、段で言えば、気にかける、を越えて上へ寄っていく。
三つ目は、柴田の隊だった。時刻の申告がない。予定を過ぎたかどうかは、誰にも言えない。言えないかわりに、別の途絶があった。昼の下り便が、預かった行先の道で擦れ違うはずの場所で、擦れ違っていない。
予定で数えられる二隊と、途絶で気にかける一隊。数え方は別でも、こぶは同じ縄にぶら下がっている。
直人は、中継から地上へ、確認要請を出した。家族の電話を待たなかった。中継が自分で要請を起こせる形は、冬のうちに作ってあった。
「第七中継より救難管制。未帰還、三隊。確認要請、出します」
「救難管制、受けました。――捜索の段取り、こちらで組みます」
玲奈の声だった。要請を出すのに、誰かの許しは要らなかった。要らない形に、先に作ってあった。
作ったときは、使う日が来ないことを願って作った。使う日は、作った季節の次の季節に、もう来た。早すぎる、とは思わなかった。間に合った、と思うことにした。
◇
三隊のこぶを、直人は縄から外さずに、印だけ付けた。
外せば、戻ってきたとき、解く結び目がなくなる。だから、外さない。戻る前提で、残しておく。
三つのうち、一つは乃木の斥候隊だった。帰ってからだけ書く人のいる隊だ。もう一つは、時刻を書かない常連隊――行先は預けたが、予定は縛られたくないと笑っていった、あの隊だった。
預けた行先と、預けなかった時刻が、同じ縄の上で、別々の重さになって残っている。
外に出した隊のこぶを、直人は縄の上で指でなぞった。固い結び目が、濡れて光っている。何年も結ばれ、解かれてきた縄だ。この縄が、今夜は三つ、解けないまま夜を越える。
解けないこぶは、まだ、戻ってこない隊だ。戻ってこない、であって、戻らない、ではない。二つの間には、まだ、夜のぶんの猶予がある。
直人は、三つの印を、もう一度数えた。数えても、増えも減りもしなかった。




