数字と、腰痛
玲奈から送られた数字を、直人は白板の脇で三日ぶん並べ直した。
申告隊の戻りが、後ろへ寄っている。それは、見てすぐ分かった。
分からないのは、理由のほうだった。遅れているのか。それとも、遅れが見えるようになっただけなのか。
段を作ってから、申告する隊が増えた。増えた隊は、慎重な隊も、ぎりぎりの隊も混ざっている。新しく申告を始めた隊が遅めなら、平均は、何も起きていなくても後ろへ寄る。
◇
直人は、紙を二枚に分けた。
一枚は、申告している全部の隊の、戻りの遅れ。これは参考にしかならない。分母が、月ごとに変わっているからだ。
もう一枚は、段を作る前から申告していた隊だけを抜いた。同じ隊、同じ行先。分母が動かない一枚。
二枚目でも、遅れは伸びていた。
念のため、三日を五日に伸ばして引き直した。向きは変わらない。少しずつ、確かに、後ろへ寄っている。
「見えるようになっただけ、じゃないです」
誰にともなく、直人は言った。受付の線の内側で、紙に向かって言う癖が、ここでも出た。
同じ隊が、同じ道を、前より時間をかけて戻っている。見え方の問題ではない。道のほうが、変わってきている。
◇
二枚を持って、直人は真壁のところへ行った。
「段の前から申告してる隊だけで見ても、戻りが伸びてます。道が、重くなってるんだと思います」
「どれくらいだ」
「平均で、半日に届かないくらい。でも、全部の隊が同じ向きです」
真壁は、二枚目の紙をしばらく見た。それから、受付の奥にいた古株の設備係を呼んだ。年かさの、電池の話をしてくれた人だ。
二人は、紙を覗き込んで、顔を見合わせた。言葉より先に、設備係のほうが、腰に手を当てた。
「……来るな、これは」
「来るか」
「俺の腰が、先週から言ってた。天井の湿りが、いつもの月と違う」
◇
直人は、その遣り取りを、急いで理解しようとはしなかった。
腰で天気が分かる、という話は、信じも疑いもしない。ただ、設備係の腰と、自分の二枚目の紙が、同じ向きを指しているのは事実だった。
どちらが先でもない。体に溜まっていた見当と、紙に出た数字が、初めて同じ場所で重なっただけだ。
直人は、腰の勘を数字で裏取りしたとは思わなかった。思えば、設備係の二十何年かを、自分の二枚の紙で値踏みすることになる。そうではない。別々のところに溜まっていた同じものが、たまたま今日、並んだ。並んだことを、両方、記しておけばいい。
「紙にならない形で、残ってたんですね。その、来る感じは」
「残ってたも何も、毎度のことだ」
「毎度」
「何年かに一度、ゲートの奥が機嫌を悪くする」
「機嫌、ですか」
「前触れは、だいたい道の重さに出る」
「それ、記録には」
「ない。誰も書かん。書く前に、腰が言うからな」
「前は、どうしてたんですか」
「どうもしない。古いのが勘で身構えて、間に合ったり、間に合わなかったりだ」
「間に合わなかった年も、あったんですね」
「あった。それも、書いてない」
「……腰が覚えてる」
「腰と、あとは、来なかった隊の名前だけな」
間に合わなかったり、のところで、設備係は紙から目を上げなかった。
◇
その日の午後は、準備の割り振りに使った。
動くわけではない。段で言えば「準備する」の段だ。荷と人を割り当てて、まだ動かさない。
受付区画の控えは、二人で書けるようにした。一人が復唱を締め、一人が紙を持つ。医療の消耗品は、次の定期を待たずに前へ倒して積む。止血剤の数が、また一つずれないように。
前に数が合わなかったのは、冬の初めだ。あのときは一箱で済んだ。荒れる月に同じずれが出れば、一箱では済まない。
受付区画で紙を持つ二人目の当ては、その日のうちに一人、見つかった。通路の検査に回っている、手の早い若いのだ。ただし、回すかどうかは別の話だと、直人は当てを立てるだけにとどめた。回す決裁は、自分の仕事ではない。
伝令の走り順は、市川が自分で組み替えた。
「荒れる日は、坂を往復しないで済む順にします。空荷で上がる足を、半分に」
「それ、頭の中でやってたやつですか」
「です」
「なんで、今日は紙に」
「俺一人が荒れる日は、俺一人しか走れないんで。倒れたら、順番ごと消えます」
「……市川さんが、紙に残す理由を言うの、初めて聞きました」
「覚えとくのが、惜しくなくなったんで。前は、惜しかったんですけど」
「惜しくなくなったの、いつからですか」
「……控えが、ゼロ回だった日ですかね」
ゼロ回の話は、冬の試しの初日のことだ。預けた件を、誰も市川に聞きに来なかった日。あの日が境い目だったと、本人の口から聞くのは初めてだった。
俺一人しか走れない、と市川は、少し笑って言った。笑いながら、控えの一枚目に、荒れた日の走り順を書き足した。
◇
管制側の卓を一つ増やす話は、玲奈からの内部便で一行だけ届いた。
輻輳に備えて、六卓を七卓に。まとめ役の判断で、増やす当番を先に組んでおく、と。
直人は、その一行を受付の控えに写した。写しながら、玲奈が「備えて」と書いて「起きたら」と書かなかったことに気づいた。起きると決めつけない書き方を、卓のほうも選んでいる。
◇
準備の割り振りで、一つだけ、その日に決まらなかったことがある。
受付区画で紙を持つ二人目を、どこから連れてくるか、だった。
中継点に、余っている人はいない。受付区画に一人増やすなら、その一人は、通路のどこかから抜くことになる。
直人が案を出すと、真壁は初めて、すぐに返事をしなかった。
「書く人を増やすのは、構わん」
「はい」
「通路から抜くのが、構う」
真壁は、壁の三規則のほうを見ていた。
「あれを書いたのは、通路に立つ人数が足りてる前提でだ。一人抜けば、前提のほうが欠ける。抜いた一人のぶんの危なさを、誰が引き受けるか――それを決めるのは、俺だ」
「……決めてもらう話を、持ってきました」
「分かってる。今日は、決めない。決める日が来たら、決める」
決めない、と真壁は言った。
◇
直人は、押さなかった。
押して決めさせる話ではない。通路から誰を抜くかは、抜かれた側の危なさを引き受ける人が決める。それは、拠点長の仕事だった。
ただ、決める材料だけは、先に揃えておいた。受付区画へ回せる人の当て。回したときに通路が薄くなる時間帯。薄くなる時間に、ふだん何件の仕事が通路で起きているか。
決めるのは真壁で、数えるのは自分だ。前の職場から、そこは変わっていない。
◇
夜明け前、定時の外に、玲奈から回線が入った。
深部からの戻りが、二隊続けて遅れている。どちらも、段の下の言葉に乗ったばかりの隊だ。
玲奈の声は、職務の高さで来て、最後の一言だけ、半音だけ低かった。
「第七中継。今日、そちらの白板を、消さないでください」
「消さないです。出発の時刻、全部残します」
「……お願いします。消すと、戻ってこられる人の、起点が消えるので」
白板は、月に一度、天井の雨で消える。今夜はまだ、乾いている。
直人は、チョークの粉の溜まった受けを、受付の内側へ寄せた。消さないでくれ、と言われて、消さない準備をした。それが、夜明け前にできることの全部だった。
白板は、戻ってくる人の起点だ。出発の時刻が消えれば、何時間かけて戻ったのかが、誰にも引けなくなる。
準備する、の段は、動かないための段だ。動かずに、荷と人を割り当てて、白板を乾いたままにしておく。何も起きなければ、この夜の支度は、全部、無駄になる。無駄になってくれ、と直人は思った。準備は、無駄に終わるのがいちばんいい。




