預けるかどうかは、私が決めます
新しい運用の草案は、四つの見出しで止まっていた。
保存はいつまで。識別はどの単位で。時刻はどこへ合わせる。閲覧は、誰まで。
玲奈は見出しだけ書いて、中身を数日埋められずにいた。頭が足りないからではない。四つ目の「閲覧」だけ、ほかの三つと手触りが違うからだった。
保存も識別も時刻も、うまく決めれば卓が楽になる。閲覧だけは、決め方しだいで、声を出した人の不利になる。
卓の向こうの声を、玲奈は返事のために聞いてきた。記録のためではない。けれど、返事をするには、聞いたことを少し残さないと、次の返事につながらない。残すことと、返すことは、近いようで、向きが逆を向く日がある。
楽になる三つと、誰かが損をしうる一つを、同じ紙に並べていいのか。そこで鉛筆が止まる。
卓の仕事は、声を順番に捌くことだ。順番は、早い遅いだけでは決まらない。どの声を、どこまで残すか。残す決め方しだいで、声を出した人の立場が動く。玲奈は、そこを一週間、決めあぐねていた。
◇
昼の交代で卓を立ったとき、受付の内線に取り次ぎが入った。
「水瀬さんに、面会です。乃木さん、という方」
「どちらの乃木さんですか」
「深部斥候の、記録係の方だそうです」
名前は、第七中継の控えで見たことがあった。戻ってからだけ書く人、と直人の内部便にあった人だ。
なぜ、その人が、卓の運用の話で降りてくるのか。心当たりは、一つしかなかった。記録を変える、という報せが、書く側の人に、先に届いたのだ。
面会室は、卓のある区画の外にある。廊下を歩きながら、玲奈は少し身構えた。中継の人が地上まで降りてくるのは、用件が軽くないときだ。
◇
乃木は、思ったより小柄だった。
机の上に、使い込んだ帳面を一冊置いている。表紙が膨らんで、角が丸い。
玲奈が座るより先に、乃木は用件を言った。
「卓で、交話の記録の運用を変えると聞きました」
「設計の途中です。まだ、見出しだけで」
「書かれた声は、切り取られて、査定に回ります」
挨拶の手前で、芯から入ってきた。玲奈は草案の紙を伏せなかった。伏せるほうが、よくない気がした。
「あなたが善い人でも、紙は人の手を離れます」
「……離れます。いつかは」
「離れた先で、どこを切るかは、あなたが決められない」
「……はい。それは、そのとおりです」
「否定しないんですね」
「できないので」
「反論の一つくらい、用意してあると思ってました」
「用意して、崩れるほうが、怖いので」
乃木は、少しだけ目を細めた。言い返されると思っていたらしい。
◇
それから乃木は、帳面を開かずに、手を置いたまま言った。
「この前の潜りで、撤退を決めるときの、隊長とのやり取りがあります」
「卓の交話に、残っている分ですね」
「残っているはずです。あのときの声のまま」
「時刻を言ってもらえれば、引けます」
「引かないでください。まだ」
玲奈は鉛筆を置いた。
「あのやり取りを残せば、第二分岐の奥がいつ荒れたか、救難の人が後から読めます」
「助かる人が出る」
「……でも、切り取られれば、隊長が退きどきを誤ったように聞こえます。本当は、正しく退いたのに」
「同じ声が、二つの意味を持つ」
「はい。だから、私が条件を決めます。預けるかどうかは、私が決めることなので」
「隊長は、ご存じですか」
「話してあります。記録のことは記録係が決めろ、と。――うちの隊は、そういう分け方なので」
預ける、と乃木は言った。残す、でも、消す、でもなかった。
玲奈は、その言い方を控えに写したくなって、やめた。写すこと自体が、まだ約束の外だった。
◇
条件は、四つ出てきた。
救難の組み立て直しにだけ使う。善し悪しの言葉は、記録に書き足さない。誰が読んだかの履歴を、乃木本人へ回す。査定の部署から見せてくれと言われても、本人が良いと言うまでは断る。
四つとも、玲奈の草案の四つ目――閲覧――の中身だった。埋められずにいた見出しに、声を出す側から言葉が入った。
「四つ目を、埋められずにいました」
「私が、埋める側だったわけですか」
「結果として」
「……そうですか」
「たぶん、埋める言葉は、損をしうる人からしか出ないんだと思います」
「買いかぶりですよ。私は、自分の隊の心配をしているだけです」
「それで、いいです。自分の隊の心配から出た言葉が、ほかの隊にも効くので」
「この四つ、こちらの運用に、そのまま書き込んでいいですか」
「書くのは構いません。守れるかどうかは、別です」
「守れなくなったら、預かりを返します。声ごと、お返しします」
「……返せる形にしておいてください。それだけ、先に」
「返すときは、どうすれば」
「言ってください。救難用に起こした写しを、目の前で消します」
「写し。……元の声は」
「元の交話は、三か月で順に消えます。延ばして残るのは、写しだけです」
「写しだけ」
「はい。条件が付くのも、写しのほうです」
「……分かりました。では、写しを見張ります」
玲奈は、四項目を清書した。識別は隊の符丁まで。時刻は中継の白板に合わせる。元の交話は三か月で順に消え、延ばして残すのは救難用の写しだけ。閲覧は、その写しについて、本人と救難管制のみ。乃木の四つを、残りの見出しの下へ割り振っていく。
埋まらなかったのは、頭が足りなかったからではなかった。埋める言葉を、まだ誰も預けていなかったからだ。
◇
翌日、さっそく照会が一本来た。
査定部の事務方からだった。悪意のない文面で、参考までに、直近の撤退事例について、救難用に起こした写しを一件、閲覧したいとある。乃木の隊の、あの写しだった。
玲奈は、断りの文を書いた。当該の写しは本人同意を要件としており、現時点で同意の確認が取れていない。要件が満たされ次第、改めて回答する。
事務方からは、短い返事が来た。承知しました、手続きを失礼しました、と。悪い人ではなかった。断られて、正しく引いた。
閲覧の履歴に一行、照会と、断った旨を残す。その一行を、乃木へ回す控えに写した。
◇
履歴を回す、という約束は、思ったより手がかかった。
誰が、いつ、どの声を読んだか。読んだ理由も、一行で添える。添えないと、ただ見張られているのと変わらない。
玲奈は、最初の一枚を乃木宛てに作った。閲覧者は救難管制のみ、照会は査定部から一件あり要件不備で却下、と。
作りながら、これは紙を増やす仕事だと気づいた。書かない場所の人へ、書いたものを回すために、こちらが書く。向きが、逆だった。それでいい、とも思った。信じてもらうための紙は、信じる側ではなく、信じてもらう側が持つ。
◇
夜の定時のあと、回線を切る前に、玲奈は乃木のことを直人へ短く伝えた。
「条件つきで、声を一件預かりました」
「乃木さんの、ですか」
「はい。それと、査定からの照会を一本、要件どおり断りました」
「……断るほうを、先にやれたんですね」
「はい。先にやらないと、信じてもらえないので」
「乃木さんは、納得してました?」
「していないです。監視じゃないことを、紙で証明し続けてくれ、と」
納得は、もらえなかった。もらえないまま、声は預けられた。
それでいい、と玲奈は思った。納得してから預ける人は、たぶん、最初から困っていない。
面会室を出ていく乃木の背中は、来たときと同じだった。軽くも重くもなっていない。預けて楽になった顔を、あの人はしなかった。楽になるために来たのではなく、確かめに来たからだ。確かめは、一度では済まない。だから、また来る。
◇
回線を閉じてから、集計の紙を片づけようとして、手が止まった。
継続して申告している隊の、帰還の時刻。この三日、少しずつ後ろへ寄っている。一隊なら癖だが、三隊で同じ向きに寄るのは、癖ではない。
玲奈は、閉じたばかりの回線を、もう一度開いた。
「第七中継、水瀬です。定時の外ですみません」
「相馬です。どうぞ」
「申告隊の戻りが、後ろへ寄っています。三日続けて、三隊、同じ向きです」
「……偶然の形では、ないですね」
「数字だけ、先にそちらへ送ります」
「……こっちの白板と、突き合わせます」
「お願いします。まだ、気にかける、の段です。それより上は、言っていません」
段の、いちばん下の言葉だけを使った。使いながら、玲奈は盤の暗い側をもう一度見た。
寄っていく時刻は、まだ何も起きていないと言っている。何も起きていないうちに気づくためだけに、段のいちばん下はあった。




