市川の直した形
朝いちばんに、控えの束を書き換えた本人が来た。
「勝手にすみません。……って言うところなんでしょうけど」
後ろに受付係が付いてきていた。昨日の夕方から、読めない略号に当たりを付けながら使っていたらしい。
「俺は、読み方さえ分かれば、こっちのほうが早いと思う」
先に言ったのは、受付係のほうだった。
市川は、あまりすまなそうではなかった。束を取って、並べ直した頁を開く。
「場所で並べたんです。坂上、水場、二分岐」
「道の順ですね」
「です。俺の足、名前の順じゃなくて道の順で動くんで」
「済の丸を矢印にしたのは」
「丸だと、終わった、で頭から消えるんです。矢印なら、次どこ、が残る」
直人は、書き換えられた略号を一つずつ確かめた。受付が読めるか。医療が読めるか。読める。元の形より、読んだあとに体が動く。
「俺より遅い紙に、って言いましたけど」
市川が、束を台に戻して言った。
「これ、俺が覚えなくていいことを、覚えなくて良くしてくれるんですね」
質問の形をしていたが、質問ではなかった。市川は自分で頷いて、朝の便へ走っていった。
◇
書き換えは、受付と二人で午前のうちに揃えた。
略号の一覧を控えの一枚目に書く。読めない略号は使わない。市川の発明でも、受付が読めなければ捨てる——その基準だけ直人が足して、捨てた略号が二つ、残った略号が七つ。
捨てた二つは、市川の体にしかない略号だった。坂の重さを表す「重」と、本人にしか読めない波線。
捨てるとき、市川は少しだけ粘って、すぐ譲った。
「読めない速さは、速さじゃない、ってことですか」
「速さです。ただ、一人ぶんの速さです」
◇
その日の昼のうちに、医療係が控えの前で首を捻っていた。
「この矢印、どこで終わるんだ」
「先が受付へ戻ったら、終わりです」
「丸のほうが、分かりやすくないか」
「丸だと、市川さんの頭から消えるんだそうです」
「……消えてもらっちゃ困るな。うちの荷は」
言いながら、覚えるかわりに手の甲へ矢印を一つ書いて戻っていった。
読める速さと、動ける速さは別だ。読めたとして、忙しい日に体が動くかどうかは、まだ分からなかった。
◇
翌日の昼前に、重なった。
十一時四十分、戻りの隊が一つ。十一時四十五分、もう一つ。台には深部向けの補給が、積み残しのまま載っている。
そこへ十一時五十分、搬出の第一報。足の骨折が一名、担ぎで上がってくる。
十分の間に、三つ。受付区画の空気が、半歩ぶん詰まった。補給係が台の前で足を止め、癖のまま言いかける。
「市川は、いま——」
「聞かなくていいです」
受付は言いながら、復唱の口調で控えに行を足した。
「搬出一件、骨折一名、担ぎ。先に通します。補給、一便あと」
搬出の行が控えに載るのは、初めてだった。形は変わらない。時刻、相手、中身の一行。
済の矢印が一本、後ろへ書き直される。異を唱える者はいない。順番はいつもと同じで、置き場所だけが、頭から台の上へ変わっている。
医療係が、手の甲と控えを見比べ、聞き返さずに担架を出した。補給係は、後ろへ回された行の順で、積み残しを捌き直す。戻りの二隊は、受付が控えに線を引きながら受けた。予定を預けていた隊は線一本で済み、口頭の隊だけ、聞き取りに三往復かかった。
同じ台の上で、預けた隊と預けない隊の差が、秒の形で見えた。
市川が坂から戻ったのは、その途中だ。台の控えを走りながら一瞥して、誰にも聞かずに、搬出の迎えへ最短の枝を選んだ。
「二分岐、下り空いてます。担ぎ、そのまま通してください」
声だけ置いて、もう坂の下にいる。
列は、最後まで出来なかった。待つ足音がない。音だけ聞けば、ふだんの昼と変わらない。
判断を待つ人が、どこにもいなかった。
◇
搬出の報告は、換算表の形で地上へ出た。
「第七中継より救難管制。搬出、一件」
「救難管制、どうぞ」
「負傷は足の骨折、一名。搬出開始、地上時刻で十一時十分。上がりは約二時間。到着予定、十三時十分」
卓の復唱は一回で通った。言い直しも、問い返しもない。
「救難管制、了解。救護、十三時十分で手配します」
玲奈の声が、数字をそのまま運んでいく。換算も確認の往復も要らない数字は、速かった。
受けたのは十一時五十分で、開始は十一時十分。四十分の差は、報せが坂を上ってきた時間だ。差を踏む人は、今日はどの卓にもいなかった。
十三時十分、玄関。救護車と担架が、また待たずに合ったと、夕方の折り返しで知らせが来た。骨折一名、手術なし、固定で済んだという。
待たずに合う。言葉にすると素っ気ないが、中身は換算表と、白板と、復唱でできている。
◇
夕方、市川が受付の柱にもたれて水を飲んでいた。
いつもより、長く飲んでいた。
「今日、俺、楽でした」
誰に言うでもない声だった。それから、自分の言葉に自分で引っかかったように、直人を見た。
「……楽したら、駄目なんですかね。こういうの」
「今日、何か落としましたか」
「いや。落としてないです。むしろ、拾えてました。骨折の人、いつもより早く下ろせたし」
「なら、楽でいいです」
「いいんですか」
「楽は結果です。持たなくていいものを、持たなかった結果なので」
市川は、水筒の蓋を閉めて、閉めた音の小ささに自分で頷いた。
「——戻り予定も、預けようかな」
「市川さんが決めてください。顔を見て受けた言葉だ、って言ってたので」
「覚えてたんですか、それ」
「数えてるので。言葉も」
市川は少し考えて、半分だけ、と言った。
「急ぎじゃないやつは預けます。急ぎのは、俺が持ちます」
「分け目は、どこですか」
「顔です。急ぎかどうかって、顔を見て決まるんで」
「いい分け方だと思います」
翌朝から、戻り予定の半分が控えに増えた。
◇
週の半ばに、柴田の隊が戻ってきた。
「おう。明後日また潜るんでな。頼んどいた水、通ってるか」
「控えで通ってます。出がけに、六本です」
「……早えな。市川の頭に聞かなくていいのか」
「聞かなくて、よくなりました」
「便利になったもんだ」
便利、と言って、柴田はどこか物足りなそうだった。市川の頭に聞くのは、常連の楽しみでもあったらしい。
物足りない顔で水をもらって、縄のこぶが一つ解けた。
◇
真壁は、夜に控えの束を最初から最後までめくった。
めくり終わって、束を白板の下ではなく、受付の棚の正面に置いた。
「棚に置く。常設、とは言わん」
「はい」
「——雨の月まで試しだ。天井から筋が来て、紙が生きてたら、考える」
「雨の月って、いつですか」
「三月の終わりだ。毎年な。天井のほうが先に知ってる」
この拠点で、紙が棚をもらったのは初めてだった。
直人は、控えの一枚目の略号一覧に、小さく出どころを書き足した。並びと矢印、市川。受付の控え、受付。最初の正の字、自分。
渡した形が、変えられて戻ってくるのは二度目だ。一度目より、ずっと早く手放せた。
棚の上の束は、まだ薄い。厚くするつもりはない。厚くならないまま続くかどうかが、雨の月までの宿題だった。
◇
週明けの朝、定時の前に内部便が一通届いた。
救難管制、水瀬玲奈。用件は二行だった。
卓の交話記録に、保存と隊の識別の運用を作ります。
深部の隊から相談が一件。救難には使ってほしい声を、査定には渡したくない、という相談です。
使ってほしい、と、渡したくない。同じ声に、向きの違う願いが二つ付いている。
深部の隊。直人の頭に、受付の端で帳面をしまった人の姿が浮かんだ。
戻ってからだけ書く人が、書く側の事情を話しに、卓へ行く。
二つの願いを、どこで分けるか。白線は、どうやら紙の上にも要る。




