紙より先に、持つ人を決める
二月の最初の朝、直人は正の字の紙を受付の台に広げた。
市川と、真壁と、手の空いた補給係が一人。それだけの席だった。
「市川さんが届けたあとも持ち続けてる情報が、十二件あります」
「白板の、正の字のやつですか」
「それです。補給の変更。戻り予定の言い直し。問い合わせの受け口」
「で」
十二件の内訳も、正の字の横に書き出してあった。補給の変更の類が五件。戻り予定の言い直しが四件。問い合わせの受け口そのものが三件。
真壁が先に、短く確かめてきた。
「紙を増やす話か」
「紙の話は、最後です。先に、持つ人を決める話です」
「……順番だけは、合ってる」
「十二件のうち、持つのと答えるのを、受付へ移しませんか」
市川の返事は速かった。
「覚えとくのは、俺のほうが速いんで」
速い、の言い方に険はない。ただの事実として言っている。そこが、いちばん手強かった。
補給係が、横から遠慮がちに言った。
「実際、速いんだよな」
「でしょう」
「速いから、俺たちも全部あいつに頼んできたんだよな」
頼ってきた側の声に、市川が少しだけ居心地悪そうにした。
◇
市川の反対には、続きがあった。
「それに、預けたら遅くなるんですよ」
「遅く、ですか」
「受付に預けて、誰かが俺に聞いてきたら、俺が受付まで取りに戻る。一往復増えるじゃないですか」
「もう一つ、あります?」
「……あります。受付が間違えたら、それ、俺の間違いになるんですよ。運んだのは俺だから」
「戻らない形にします」
「……どうやって」
「問い合わせの受け口ごと、移します」
「受け口ごと?」
「聞きたい人は、市川さんじゃなくて受付へ聞く。受付は控えを見て答える。市川さんには、最初から聞こえてこない形です」
「間違いのほうは」
「控えに、聞いた人と書いた人の名前が入ります。間違いは、間違えた場所に残ります。市川さんには飛ばないです」
市川は、水筒の蓋を半分回したまま、少し考えた。
「——補給の変更だけなら」
「半分からで、十分です」
「戻り予定は、俺が持ちます。あれは、顔を見て受けた言葉なんで」
半分で止まっていた水筒の蓋が、最後まで回った。
◇
道具は、受付が書く控えにした。
余った紙を手で切って、線を引いただけの表。項目は、聞いた時刻、相手、中身の一行、済んだかどうか。
書くのは受付で、書く時機は、もとからある補給の受け渡しの間。市川にも、隊にも、一文字も書かせない。立ち止まる時間も、一秒も増やさない。
一行は、こうなる。
一四〇五 市川→受付 水、二追加 済
読み上げれば三秒の行だ。書くのは復唱と同じ口、同じ時でいい。
「書く手は、誰が出すんだ」
真壁が聞いた。受付区画に人が足りないのは、真壁がいちばん知っている。
「受け渡しの復唱と同じ口で、同じ時に書きます。新しい時間は使わないです」
「……復唱のついでに、手が動くだけか」
「はい。三回のうちの一回を、紙が覚えるだけです」
書く側の受付係からも、注文が一つ付いた。
「一行で終わる話だけに、してください。長いのを書いてると、目の前の復唱が死ぬんで」
「一行で終わらない話は、控えに入れないです。こっちで受けます」
書けること、より先に、書かないことが決まっていく。紙の決まりは、書かない側から数えたほうが早かった。
◇
試しの初日に、補給の変更が一件来た。
深部の隊から、戻りの便で水を二つ追加。市川が受付へ言う。
「水、二追加。坂上の隊、戻りの便で」
「水、二追加。坂上、戻り便。——控え、入れました」
復唱の二回目に、紙の音が一枚ぶん挟まった。それで市川の手を離れた。
控え、入れました、まで声に出すのが取り決めになった。声が出るまでが、受け渡しだった。
午後、医療が水の数を聞きに来た。
「坂上の水、いくつで通ってる」
「控えだと、二です」
「見て言ってるなら、それでいい」
受付が顔を上げたときには、医療はもう戻っていた。市川は、そのとき坂の下を走っていて、この問い合わせがあったことを知らない。
午後の遅くには、戻り予定の言い直しが一件あった。こちらは市川が選んで手元に残した側だ。市川が自分で受けて、自分で答えた。
預けた五件と、残した四件。境目が、初日から形になって見えた。
夕方、市川が控えを覗きに来た。
「……俺、今日、水の件って何回聞かれました?」
「受付に一回です。市川さんには、ゼロです」
「ゼロ」
ゼロ、ともう一度言って、市川はしばらく控えを見ていた。喜んでいいのかどうか、決めかねているらしかった。
◇
真壁は、三日見てから言った。
「規則には触ってない。続くかどうかは、別の話だ」
「続くかどうかは、何で決まりますか」
「忙しい日だ。暇な日の形は、何だって続く」
白板の下に、控えの置き場が一つ増えた。常設ではない。置き場、というだけだ。
◇
五日目の昼、受付の線の内側から、市川の受け渡しを見ていた。
速さは変わらない。変わったのは、口数だった。
届けて、復唱して、離れる。前はそのあとに、ついでの問い合わせが二つ三つ、ぶら下がっていた。ついで、の行き先が控えに変わって、受け渡しの口が軽くなった。
軽くなったぶん、市川は走り出す前に一拍、台の控えを見るようになった。誰も教えていない。本人も、たぶん気づいていない。
教えないでおくことにした。癖は、名前を付けると崩れることがある。
置き場の控えは、角が折れ始めていた。読まれている紙は、角から古びる。
◇
夜の定時で、玲奈に控えの話をした。
「再照会、減ると思います。卓からの問い合わせも、受付の控えで返せる形なので」
「……うちから第七中継への問い合わせ、先週は十一本です」
「数えてたんですか」
「数えるの、そっちの専売じゃないので」
「内訳は」
「在庫の確認が六。戻り予定が三。残りが二です」
「六本は、控えで返せると思います」
回線の向こうの声が、少しだけ得意そうだった。
「その控え、卓の控えと同じ形ですか」
「時刻と、相手と、中身の一行です」
「……ほとんど同じですね、うちのと」
「どこで作っても、似た形に落ちるみたいです」
十一本のうち何本が控えで返せるかは、来週の数字が教えてくれる。約束はせず、数えることだけ約束した。
◇
六日目に、二重が一件起きた。
補給の変更を受付へ預けたのに、市川が癖で覚えていて、受付と市川が別々に答えた。中身は同じで、実害はない。ただ、答えが二つある状態は、違う日には事故になる。
「……癖で、覚えちゃったんですけど」
「二重は、どっちかに寄せましょう。この件、どっちが持ちますか」
「——預けます。預けたのに覚えてるの、何か、損した気分なんで」
控えの一枚目に、一行増えた。預けた件は控えが正。口頭は参照。
決めたのは市川で、書いたのは受付だった。
損、という言い方に、直人は笑いそうになった。覚える力の持ち主が、覚えない練習をしている。
◇
消灯前の受付で、市川が控えの束を読んでいた。
「覚えないんじゃ、なかったんですか」
「覚えない練習に、形から入ってるんです」
「形から」
「どこに何が書いてあるかだけ覚えとけば、中身は覚えなくて済むんで」
「それは、たぶん正しいです」
「でしょう」
覚えない、のやり方まで、この人は速かった。
控えの束は、まだ薄い。薄い束の厚みのぶんだけ、市川の頭から降りた荷物がある。
◇
週の終わり、控えの束を綴じようとして、直人は指を止めた。
控えの何枚かで、略号が書き換わっている。
済、の丸が、矢印に。相手の名前が、場所の名前に。坂上、水場、二分岐——区間の呼び名で並び直してある。
受付の字ではない。誰の字かは、すぐに分かった。




