未帰還の段
夜中の受付で、こぶの解ける気配がした。
水の音。低い笑い声が一つ。騒ぎのない帰還は、音まで静かだ。
直人は寝台から出なかった。出なくていい夜は、いい夜だった。
◇
朝の定時で、玲奈の声がいつもより半音高かった。
「昨夜の問い合わせの件、自力帰還です。二十二時四十分、中継通過」
「第七中継、了解。こちらの通過記録と一致します」
「ご家族への連絡も、今朝十時の約束に、間に合いました」
定時の項目が終わってから、直人は一つ聞いた。
「朝の電話は、水瀬さんが?」
「私がしました。約束は十時でしたけど、早めに」
「早いほうが、いいですね」
「いい報せのときだけは」
定時の声が、そこでやっと、いつもの高さに戻った。
戻った三人は、夜のうちに受付で水を飲んで帰った。遅れの理由は、崩れた道を避けた回り道が二回。一回で、ほぼ半日を食ったという。
怪我はない。騒ぎもない。縄のこぶが一つ解けて、白板の時刻が一本消された。それだけで終わった。
終わってから、直人は考えた。
今回、家族は予定を知っていた。協会は知らなかった。知らないまま、目撃と気づきだけで答えていた。
次も同じようにできる保証は、どこにもない。
◇
昼、直人は白板の前で数えようとして、数えられないことに気づいた。
あの隊は、何時間遅れていたのか。
白板にあるのは潜行開始だけだ。戻る予定は、協会のどこにも書かれていない。家族の頭の中にだけあった。
遅れは、予定があって初めて数えられる。予定のない遅れは、心配する人の数だけ、別々の長さをしている。
白板の前に立っていると、真壁が通りがかった。
「あの隊、何時間遅れてたんですか」
「さあな」
「さあ、で終わっていいんですか」
「終わるも何も、始まりがない。予定ってやつがな」
終わっていい、とは真壁も言わなかった。言わないまま、奥へ行った。
◇
夜の定時のあと、回線を開いたまま、三人で話した。受付に直人と真壁。卓に玲奈。
「何時間で未帰還か、決めませんか」
直人が言うと、真壁と玲奈が、ほとんど同時に短く返した。
「線は引くな」
「線は、危ないです」
二人で顔を見合わせる——真壁と無線が、という妙な形だったが、理由は別々だった。
真壁のは、現場の理由。
「何時間、と決めれば、その時間で要請が動く」
「動くと、まずいですか」
「要請が動けば、救助の隊が夜の通路へ入る。遅れただけの隊のために、別の隊を危険へ入れることになる」
玲奈のは、卓の理由。
「決まった線は、全部の隊に、同じ長さで掛かります」
「隊ごとに、違うものですか」
「慎重な隊には早すぎて、速い隊には遅すぎます。誤報が増えれば、本物の要請が薄まります」
線を引かない今の形が、怠慢で出来ているのではない。引けば危なくなるから、引かれてこなかった。
直人は、二人の理由を聞き終えてから言った。
「数字を一本決めて、それで全部の隊を測るのは、やめます」
「……というと」
「段にしませんか」
◇
段は三つにした。
気にかける 帰る予定を過ぎて半日。卓と中継で、互いの控えを突き合わせる
準備する 予定を過ぎて一日。救助の荷と人の割り当てだけ決めて、動かない
動く 要請があったとき
「半日と一日の根拠は、何ですか」
「昨夜の隊です。ご家族の言う予定から、ほぼ一日の遅れ。中身は、半日の回り道が二回でした」
「……遅れの、いちばん小さい単位が半日」
「はい。予定を過ぎて半日までは、回り道一回と見分けがつかない。見分けがつかないうちは、いちばん下の段までです」
「実例は、一件ですけど」
「一件です。増えたら、段の幅ごと直します」
一段目の言葉は、三度書き直した。最初に書いたのは、警戒、だった。
「警戒は、こちらが隊へ向ける言葉になります」
「……向きが、逆ですね」
「気にかける、なら、向きが、心配する側と同じです」
直したのは、回線の向こうだった。書いた言葉を声に出して読むと、向きまで聞こえるのだという。
動く、の起点は三つ並べた。家族や隊からの申し出。管制の判断。それから、中継からの確認要請。
「中継からも、出せるんですか」
玲奈が聞いた。
「出せるようにしてください。声を上げる家族がいない人も、潜るので」
真壁が、横から一つだけ釘を刺した。
「中継が出すと、中継が隊を疑う側になるぞ」
「疑う、じゃないです。気にかける、です。段のいちばん下の言葉のままなので」
「……言葉どおりに運用できるなら、な」
「できなくなったら、段ごと止めてください。それも書いておきます」
真壁が、無線の前で初めて長く黙り、それから言った。
「——段なら、いい。段は、人を急に走らせない」
◇
段の三行は、受付区画の壁に貼った。
貼る前に、真壁の条件が一つ付いた。
「受付の中に貼れ。通路には持ち出すな」
「持ち出さないです。読むのは、立ち止まれる場所でいい」
白板の隣に、紙が一枚増えた。この拠点で三枚目の紙だった。
◇
午後、深部へ入る前の乃木隊が、補給を受け取りに来た。
斥候の三人組で、受け取りは静かで速い。復唱も揃っている。
その中で一人だけ、受付の端に腰を掛けて、小さな帳面に何か書いている女の人がいた。
乃木、と呼ばれていた。書き終えると帳面を胸にしまい、揃って出ていく。
受け取りの復唱は、隊長が言い、乃木がなぞり、受付が締めた。三人の声の順番が、決まった形で揃っている。
「潜る前に、書くんですね」
「——戻ってからだけです、書くのは。いまのは、前の潜りのぶんの書き残し」
「それは、隊の決まりですか」
「私の決まりです。隊のは、また別」
行きの頭は軽くしておきたいので、と言って、乃木は通路の暗いほうへ消えた。
書く人が、書かない場所を選んで書いている。その選び方には、理由の気配があった。
帳面の表紙は、遠目にも膨らんで見えた。頁の端が波打つほど書き込まれている。
戻ってからだけ、の決まりで、あの厚さになる。潜りの数だけ、戻った数がある帳面だった。
◇
夕方には、柴田の隊が来た。
五十絡みの隊長と、若いのが二人。月に何度も潜る常連で、受付との軽口が手慣れている。
段の貼り紙を見て、柴田は顎で指した。
「予定、って書いてあるが。うちは予定なんか出したことないぜ」
「出してもらえると、段に乗ります」
「予定どおりに潜れた日なんか、十年で一日もないんでね」
「でしょうね」
「分かるのかよ。——書いた時刻に縛られるのは、御免だ」
直人は、押さなかった。かわりに、紙の下の三行を指した。
「では、時刻はいいです」
「ん?」
「行先と、人数と、装備だけ預からせてください。探すことになったとき、探す場所が半分になるので」
「……行先は言っときます。時刻は、縛られるんで」
「それで十分です」
横で聞いていた若いのが、口を挟んだ。
「隊長、時刻くらい俺が書きますって」
「お前の読みは三日ずれる。書くだけ無駄だ」
「ひでえ」
笑い声ごと、受付が行先と人数と装備の三点を控えに写した。
写し終わって、受付が三点を読み上げる。柴田が面倒くさそうに、合ってる、と返した。
読んで、返す。復唱の形は、紙の上にも生きていた。
柴田は、行先の欄に短く書いて、笑いながら出ていった。
悪い人たちではない。縛られたくないだけだ。縛られたくない理由も、十年ぶんある。
◇
夜、縄のこぶを数えた。
いま深部にいるのは六隊。うち、戻りの時刻まで申告しているのは二隊。行先の預託まで広げると、柴田の隊を足して四隊になる。
二と、四と、六。同じ縄の上に、三種類の見え方がぶら下がっている。
段に乗るのは、六のうちの二だけだった。
乗らない四隊が、危ない隊だというわけでもない。柴田の隊は、月の潜りの数ならいちばん多い。
ただ、戻らない日にだけ、差が出る。差の出る日は、来ないのがいちばんよくて、来ないと決まってもいない。
◇
同じ夜、段の表を見ながら気づいた。
段の一段目は、予定から半日、で始まる。
予定を出さない隊は、一段目にすら乗らない。柴田の隊は、行先は預けたが、段の外にいる。
申告の様式を作るか——考えて、やめた。紙を増やせば乗るという話なら、前の職場で嫌というほど見た。欲しいのは紙ではない。
◇
消灯前、受付で真壁と二人になった。
「乗せる道具より先に、持つ人を決めませんか」
「……誰の話だ」
「市川さんの話です」
真壁は、壁の段の紙と、白板の隅の正の字を、順に見た。
「あいつの十二件か」
「あれと同じ形が、段にもあります。情報を持ってる人が、走ってる本人しかいない」
返事のかわりに、真壁は灯りを一つ落とした。消灯の合図だった。
考えるときに灯りを落とすのが、この人の癖だと、直人は最近気づいていた。




