時刻が二つある
六番卓の椅子は、座ると少し右へ沈む。
何代も前からそうらしい。一年と少しで、玲奈の体のほうが先に覚えた。沈むぶんだけ腰を立てる。ヘッドセットの左耳を半分浮かせる。右耳は卓に、左耳は部屋に。
それで、朝の形になる。
夜勤からの申し送りは三件。読み合わせて、済んだ行に横線を引く。三件目の下に、第七中継の定時交信の時刻が、いつもどおり書いてあった。
◇
六つの卓は、順番に目を覚ます。
一番卓は咳払いから始まる。二番卓は椅子を二度引く。四番卓は回線の確認が誰より速くて、五番卓はお茶の蓋の音が先に鳴る。
音で分かるようになったのは、まとめ役になってからだ。役職は付いていない。当番表の端に、取りまとめ、と書いてあるだけ。書いた字は宇野のものではない。卓の誰かが書いて、消されずに残っている。
仕事の中身は、六番卓を聞きながら、残りの五つの音も聞いていること。
午前のうちに一度、二番卓の声が詰まった。
「二番、その件、四番が空いてます」
「——助かる。四番、回します」
決めるのは各卓だ。玲奈がするのは、空いている耳を貸すことだけだった。
提案を断られる日もある。断られたら、引く。順番は、その卓のものだ。
◇
卓の正面の盤には、ゲートの中の印が並ぶ。
印があるのは、第七中継まで。その先は、盤の上でも暗い。
印は等間隔ではない。無線の届きやすさで並んでいるから、盤の地図は実際の地下と形が違う。初めて見る人は、必ず歪んでいると言う。歪んでいるのは、音の都合のほうだ。
聞こえる線の内側が、卓の守れる範囲だった。外側は、声が戻ってくるまで、卓にとっては、ない場所と同じになる。
朝の点検のたび、玲奈は暗い側を見る。癖になったのが、いつからかは思い出せない。
◇
九時台に、転送が一本入った。
深部から境界まで戻った隊の発信を、第七中継が拾って回してくる。
「……ろ、二名。戻り、昼す……」
「第七中継、補足します。発信は境界標二番の付近。隊票は乃木隊」
「救難管制、了解」
「戻りは十二時台、と聞き取りました。以上です」
切れ切れの声のあとに、拾った側の声が続く。
玲奈は、時刻と語尾を控えに写した。語尾まで写すのは卓の決まりだ。切れた声は「です」と「ません」で意味が逆になる。写し間違いから、声は崩れる。
この転送は、中継がもとからやっている仕事だった。暗い場所の声も、境界まで戻れば、こうして届く。
昼過ぎ、同じ隊の転送がもう一本。乃木隊、中継通過、全員——朝の切れ切れの声が、昼には全員、の二文字になって戻ってきた。
これが、うまくいっている日の形だ。
控えは夕方に綴りへ移す。月に一度、無作為に三件を抜いて、控えから当日の順番へ戻れるかを試すのは、去年から続く卓の決まりだった。戻れない控えが出たら、直すのは書き方のほうだ。
◇
十時台、負傷の引き上げが一件入った。
足の裂傷が一名、深部側から担ぎで上がってくる。地上の救護車は協会側の玄関で受ける。卓の仕事は、救護の到着と担架の到着をそろえることだ。
十時十分、中継経由の第一報を、三番卓が復唱した。
「負傷一名、搬出中。搬出開始は、潜って三時間十分。上がりは、開始から約九十分」
三番卓が到着予定を書く。十一時四十分。
左耳が、引っかかった。
搬出中、と中継は言った。始めます、ではない。もう始まっているなら、開始は受信より前だ。
深部に無線はない。報せは、担ぎが中継まで上がって、初めて電波に乗る。
玲奈は、自分の復唱を止めた。
「三番、確認。九十分の起点、どの時刻で取りましたか」
「受信の十時十分です。ほかに、時刻がないので」
「潜行開始は」
「こっちの控えには、ないです」
潜行開始は、中継の白板にしかない。卓は持っていない。
回線の向こうで、相馬の声が出た。
「白板で換算します。当該隊、潜行開始は六時三十分」
「六時三十分、了解」
「三時間十分を足して——搬出開始、九時四十分です」
「九時四十分。到着予定、十一時十分に直します」
九時四十分に始まった九十分は、十一時十分に終わる。受信から数えた九十分とは、三十分ずれる。
遅れていたのは報せで、担架ではなかった。そのまま書けば、救護車のほうが三十分遅れるところだった。
◇
昼前の回線に、相馬から追いの一本が入った。
「換算表を作ります。白板の隅に、潜行開始と地上時刻の対応を五行」
「隅、空いてますか」
「空けます。以後、搬出の報告は、開始を地上の時計でも言います」
「お願いします。——受けた時刻と、始まった時刻、別なんですね」
「深部に無線はないので。報せも、担がれて上がってきます」
回線の後ろで、低い声が何か言った。白板の隅は俺の天気の欄だぞ、と聞こえた気がしたが、電波のせいかもしれない。
◇
十一時十分、玄関。
救護側の回線から、扉の音と担架の音が、ほとんど同時に入った。
「引き渡し完了。車、出ます」
夕方には、救護から折り返しが入った。縫合七針。本人は歩いて協会を出たという。
三番卓が小さく息を抜くのが、部屋の音で分かった。
あとで、三番卓が謝りに来た。
「私が、受信を開始と置きました」
「三番の控えに、開始の時刻がそもそも無かった。直すのは、卓へ届く情報のほうでいいよ」
玲奈は、控えの予定欄に横線を一本引いた。線の下に、済、と書く。
待たせなかった。今日の卓の仕事は、その三文字と線一本で足りる。
◇
昼休みに、三番卓の後輩が聞いてきた。
「水瀬さんって、なんで盤の暗いところばっかり見てるんですか」
「——私の卓は、電波の内側しか守れないので」
「内側は、守れてますよ。今日だって」
「うん。……外側の人も、戻るときは内側を通るから」
「見てて、何か分かるんですか。暗いところ」
「分からない。——分からないのを、忘れない用」
「忘れない用……」
復唱して、後輩は卓に戻った。復唱の癖は、どの卓にもある。
◇
終業前の定時交信。
「こちら救難管制。第七中継、応答どうぞ」
「第七中継、相馬です。異常なし」
「了解、第七中継。異常なし。定時交信を終わります」
決まった文言は、三十秒で終わる。
回線を閉じてから、玲奈は自分がいつも、閉じる前に半呼吸だけ待っていることに気づいた。
また明日、は業務の文言にない。
ないままで——たぶん、いい。気づいて、やめようとは思わなかった。
◇
終業の十分前に、外線が一本入った。
「——夫の隊と、連絡が取れないんです。予定より、一日遅くて」
玲奈は控えを引いた。その隊は昨日の朝、境界通過の転送が入っている。観測の上では、戻り筋にいる。
名前と連絡先を、控えに取った。
そう伝えると、電話の声は少しだけ和らいで、それから、小さくなった。
「でも……何時間遅れたら、探してもらえるんですか」
すぐに答えられなかった。
待たせている数秒のあいだ、受話器の向こうの生活の音が聞こえた。やかんの音。テレビらしき声。向こうは向こうの夕方で、こちらの返事を待っている。
規程の綴りを引く。頁をめくる音が、自分の卓でいちばん大きい音になる。
救難要請の出し方は、ある。要請が出てからの動き方も、ある。
何時間遅れたら未帰還なのか——は、どこにも書いていなかった。
「決まりの時間は、ないです。ただ、気にかける順番には、もう入ってます」
「少し待てますか。いま、聞ける場所に聞きます」
保留にして、第七中継を臨時で呼んだ。定時の外で呼ぶのは、決まりの内だ。
「第七中継、相馬です」
「臨時ですみません。確認を一件」
「どうぞ」
返答は二分で来た。夕方の補給の下り便が、第二分岐で当該隊と擦れ違っている。人数三、歩様に異常なし。その先は、分からない。
「夕方の時点で、戻り筋での目撃があります。異常は見えていません」
「……それなら」
「その先は——まだ、分からないです」
分からない、まで言った。言わないほうが優しい言葉は、あとで必ず高くつく。
継続の確認は夜勤へ引き継ぎ、家族への次の連絡は明朝十時と約束した。約束に、時刻を付けた。いま付けられる約束は、それしかなかった。
できることは、した。それでも受話器を置いてから思う。いま出来たことは全部、目撃と気づきで出来ている。決まりは、一つも使っていない。
控えの端に、玲奈は一行書いた。未帰還、定義なし。
盤の暗い場所を、もう一度見る。
暗さは、規程の中にもあった。




