あなた、エース辞めた方がいいですよ
机の上に、書類の山が三つある。
左が、まだ会っていない人。
真ん中が、会ったけれど決まっていない人。
右が、配置が終わった人。
右の山が、いちばん低い。
三年やって、そういうものだと分かっている。
相馬直人は、右の山から一枚だけ抜いた。
昨日の事故報告。新宿第二ダンジョン第四層、孤立四名、全員生還。
四人目の若宮蓮は左腕骨折、全治六週間。
結果だけ確かめて、ファイルを閉じた。
水瀬玲奈は、もう自分の相談者ではない。来週からは救難管制の人だ。
◇
八時四十分に、ドアが二回鳴った。
「おはようございます。書類、持ってきました」
「水瀬さん」
直人は受け取って、名前と日付だけ確認した。
「研修、来週からですね」
「はい」
玲奈は、そこで何か言いたそうに立っていた。
直人は封筒を閉じて、顔を上げた。
「三ヶ月後に、一回だけ聞きます」
「え」
「辞めたくなったかどうか。それだけです」
「……はい」
「配置したら終わり、じゃないので」
「……追跡、するんですか」
「します。全員」
直人は右の山を指した。三十枚に満たない。
「そこにいる人は、全員三ヶ月後に一回、一年後に一回聞かれます」
「はい」
「答えなくてもいいです。答えない人も記録に残るので」
玲奈がまだ何か言おうとしていたが、直人はもう左の山に手を伸ばしていた。
◇
九時に、一人目が来た。
昨日の朝、ドアの前で迷っていた男だ。玲奈と同じくらいの年で、話し始めるまでに四分かかった。
装備の返却期限が二週間過ぎている。辞めるかどうかは、まだ決めていない。
五十分で、話は途中で止まった。
直人は書類を真ん中の山に置いて、次に来られる日だけ聞いた。
十時二十分に、二人目が来た。
地下二階に人が来るのは、多い日で三人だ。午前中に二人来ることは、あまりない。
ドアが開いて、直人は手を止めた。
背が高い。肩に厚みがある。装備は着ていないが、立ち方で分かった。
重心が前に置いてある。走り出すのに一拍も要らない立ち方だ。
現場の人だ。
その男は、部屋に入る前にドアの上枠を見た。それから中を一周見て、ようやく足を踏み入れた。
「相馬さん、でいいですか」
「はい」
「黒瀬です。黒瀬悠真」
名前は知っていた。協会の職員なら、たいてい知っている。
A級探索者。能力《雷槍》。国内三位のクラン「暁星」の攻撃主任。
その男が、封筒を一つ、机に置いた。
折り目が三本ついている。三回、折り直した紙だった。
「辞表です」
直人は封筒を見た。それから、まだ立ったままの男を見た。
「ドア、内開きですね」
「え」
「この部屋、逃げ場がないです。奥に窓もない」
「地下なので」
「……すみません。癖です」
黒瀬は、自分の言葉に自分で気づいたような顔をして、口を閉じた。
「クランには」
「まだ出してません。先にここへ来ました」
「順番が逆ですね」
「そうですか」
「たいていは、出して、揉めて、それからここに来ます」
黒瀬は座らなかった。
◇
「二ヶ月前です」
立ったまま、黒瀬が言った。
「六月十四日、十五時二十分。池袋第一の第五層。味方は六人。俺の右四メートルに、入って半年の後輩がいました」
直人はペンを取った。
「その状態で、俺は四秒撃たなかった。後輩は右肩を持っていかれました。全治五ヶ月」
「四秒、というのは」
「敵が視界に入ってから、撃つまでです」
黒瀬の右手が動いていた。
親指が、人差し指、中指、薬指と順に押していく。数えている。本人は気づいていない。
「昔からです。俺は遅い。周りもそう言ってます」
「臆病なA級、でしたか」
「はい」
言い切った。
自分のことを言うときだけ、この人の言葉は短くなる。
「次は死にます」
黒瀬は続けた。
「後輩じゃなくて、誰かが死ぬ。その前に辞めます」
直人は、封筒を見た。開けなかった。
「記録、見せてもらえますか」
「記録?」
「戦闘映像です。A級には記録義務がありますよね」
「……見ても無駄ですよ」
黒瀬が、初めて口の端だけで笑った。
「全部に『黒瀬は遅い』って書いてあります」
「評価欄は、先に読みません」
直人はペンを置いた。
「先に、撮ってあるものを見ます」
◇
四日かかった。
黒瀬悠真が参加した任務は、四年分で百九十七件あった。
《雷槍》の発射そのものは、二千発を超えている。全部は見られない。
直人が拾ったのは、各任務の初弾だけだ。百九十七件。
一件あたり平均四分。全部見るだけで十三時間になる。夜に分けて、三晩かけた。
最初に、敵の種類で並べた。何も出なかった。
次に、階層で並べた。これも何も出なかった。
時間帯、装備、同行クラン。全部やって、全部だめだった。
四日目の朝に、味方の人数で並べ替えた。
直人が拾っていたのは、二つだけだ。
・敵が視界に入ってから《雷槍》を撃つまでの秒数
・そのとき、周囲にいた味方の人数
百九十七件を、味方の人数で並べ替える。
それだけで、数字が形になった。
味方三人以下 平均一・二秒
味方四~六人 平均三・〇秒
味方七人以上 平均四・八秒
少なくとも、いつも同じ理由で止まっている人の数字には見えなかった。
味方が増えるほど、遅れも伸びている。
何かを、数えている可能性がある。
もう一つ、開いていない数字があった。
協会の査定は、攻撃職を三つで評価する。討伐数、撃破速度、単独制圧率。
どれも「倒す」ための数字だ。
直人が出したのは、そこにない項目だった。
黒瀬が同行した任務における、味方側の負傷率。
全A級と比べても意味はない。防御職や支援職と混ぜれば、条件が違いすぎる。
同じ突撃型に絞る。国内で二十七名。
その二十七名の中で、黒瀬悠真がいちばん低かった。
二番目とは、〇・八ポイント開いている。
四年前から、協会のシステムにある数字だった。
誰も、この並べ方をしなかっただけだ。
◇
黒瀬は、その日の午後に来た。
直人は、二枚の表を机に置いた。
黒瀬は立ったまま、しばらくそれを見ていた。
「これ、何ですか」
「あなたの記録です」
「……見たことないですけど」
「並べ方を変えただけです」
黒瀬の指が、また動き始めた。途中で止まった。
「臆病だという判断が間違っている、とは言いません」
直人は言った。
「怖いのは本当だと思います。二ヶ月前のことも、たぶん一生忘れません」
「……はい」
「ただ、怖いから遅いのか、全部見えてるから遅いのか、この数字だけだと決められないです」
「どっちも、ってことは」
「あります。むしろ、そっちのほうが多いです」
黒瀬は、そこで初めて椅子に座った。
座ってから、表をもう一度見た。
「四年、言われてきたんですよ」
それだけ言って、また黙った。
直人は、続きを待った。待つのは仕事のうちだ。
「遅い、遅いって。最初は言い返してました。三年目からは、自分でもそう思うようになりました」
「今は」
「今は、そう思ってます」
黒瀬は表を指で押さえた。指はもう動いていなかった。
「でも、この紙は違うことを言ってますよね」
「言ってません」
「え」
「紙は何も言いません。並んでるだけです」
黒瀬が顔を上げた。
「意味は、あなたが決めてください」
◇
「もう一枚あります」
直人は、もう一枚出した。裏返しのままだった。
「六月十四日に負傷した、高梨昴さんの事故報告です。本人が書いたほう」
黒瀬の指が止まった。
「……読んでません」
「読まなくていいです。一行だけ言います」
直人は紙を裏返さずに続けた。
「『黒瀬さんが引いてくれなければ、右肩ではなかったと思います』」
黒瀬は、二秒くらい息を止めていた。
「……あいつが、気を遣っただけです」
「かもしれません」
直人はうなずいた。
「本人の申告なので、そのまま信じる材料にはしません。ただ、記録には残ってます。四年分ぜんぶ読みましたけど、あなたを庇ってる報告は、これで六枚目です」
黒瀬は、机の上の紙を見なかった。
見られなかったのだと思う。
◇
「一つ、聞いていいですか」
直人が言った。
「六月十四日の、四秒間です。何を見てましたか」
黒瀬は答えなかった。
答えられなかったのではない。答えが長すぎたのだと、直人は思った。
「……味方六人の位置と、敵の残り体力と、後輩の後ろの壁の材質と、俺の魔力残量と」
「あと」
「撃ったあと、誰がどこへ動くか」
直人はペンを置いた。
「黒瀬さん」
「はい」
「あなた、エース辞めた方がいいですよ」




