書くな。覚えろ。走れ
入坑証は、紙ではなく、金属の札だった。
首から下げて、落とさないこと。説明はそれだけで、受け取りの判も要らなかった。
ゲート前の装備検査では、締め具を一つ直された。検査員の手は流れ作業で、相手が誰かは見ていない。三秒止まって、通った。
それでいい、と思いながら、直人は列を出た。誰の名前も要らずに回っている仕組みを、一つ通り抜けてきたことになる。
◇
第七中継点までは、補給の下り便に付いて歩いた。
下りは一時間。前に四人、後ろに六人。全員が荷を背負い、灯りは列の先頭に一つだけ。
坑道の歩き方は、七年前に体が覚えたままだった。覚えていたことに、少しだけ驚いた。
靴の音が、数えられるほどはっきり聞こえる。十一人ぶんの靴音を数えているうちに、直人は気づいた。誰も喋らないのではない。要る言葉だけが、前から順に送られてくる。
「段差」
「段差」
「右、濡れてる」
「右、濡れてる」
声は三人目まで届くと、三人目がまた繰り返す。列の最後まで、同じ言葉が同じ形で下りていく。
休みは二回。どちらも立ったまま、水を回して、三呼吸で列が動いた。
二度目の休みで、前の男が水筒を回してきた。名前はまだ知らない。知らないまま、同じ水を飲んだ。
紙のない場所の言葉は、こうやって運ばれるらしかった。
◇
第七中継点は、通路が三つに分かれる場所にあった。
岩肌に沿って受付の区画が切ってあり、そこだけ天井に有線の灯りが点いている。灯りの届く縁に沿って、床に白い線が一本引いてあった。
線の内側で、人が働いている。補給の受け渡し、担架の置き場、無線機、白板。
拠点長の真壁は、直人の辞令を最後まで読まなかった。かわりに、紙を一枚寄越した。
書くな。覚えろ。走れ
「引継書だ」
「……これだけですか」
「足りないか」
「足りるかどうかを、まだ知らないです」
「いい答えだ」
真壁は辞令を箱に放り、肩書の欄だけもう一度見た。
「中継管理補助、というのは」
「私も、中身を聞かされてないです」
「知らん名前だ。地上が付けた名前だろう。——仕事は、見て覚えろ」
「見るのは、得意です」
真壁は返事をしなかったが、それが悪い沈黙でないことは、何となく分かった。
◇
見て覚えるために、直人は白い線の外へ出た。
癖は、配属より長生きする。三つ目の分岐の形を手帳に取ろうとして、通路の真ん中で足が止まっていた。
肩を掴まれた。真壁だった。
何も言わず、直人を壁際の取っ手まで引く。それから、自分が通路の真ん中に立った。
「三つ数えろ。呼吸でだ」
一呼吸目で、奥から荷の列が来た。真壁の手前で詰まる。見えない闇のほうで、誰かの荷が岩に擦れる音がした。
二呼吸目で、反対側から戻りの隊が来た。真壁を避けて、濡れた側の壁へ寄る。足音が乱れた。
三呼吸目で、真壁は壁際へ戻った。詰まっていた列が流れ、通路の音が元に戻る。
「俺が止まると、後ろが止まる。後ろには、急いで戻りたい奴がいる」
「……一人が三呼吸止まると、流れの全員が三呼吸ずつ遅れます。掛け算になります」
「そうだ。書くな、じゃない。止まるな、だ。書くと、止まる」
「規則を破った人は、どうなるんですか」
「列の後ろの奴に、名前を覚えられる」
「……それは、効きますね」
「罰より効く。ここは、名前の数が少ないからな」
受付の壁書きは三行だった。止まっていいのは三呼吸まで。灯りは一つまで、音は出すな。両手を空けておけ。
書くな、の行はない。三行を守ると、線の外では書けない。それだけのことだった。
壁書きの字は、ずいぶん古い。
「誰が書いたんですか」
「俺だ。開設の月にな」
「……ここは、何年目ですか」
「運んで二十年。ここに立って、開設からだ」
直人は、取っ手に掴まったまま、手帳を胸に戻した。
◇
夕方——地上の時刻でいう夕方に、奥から足音が一つで来た。速い。
市川と名乗った伝令は、受付の口で三件を続けて言い、復唱を聞き終える間に水を飲んだ。
二件目の復唱で、彼は水筒から口を離した。
「さっきの水、二十じゃなくて十九です。一本、医療が先に抜いてます」
言い直された数が、もう一度三回まわる。市川は頷いて、それから直人を見た。
「新しい人ですか」
「相馬です。中継管理補助、だそうです」
「管理」
水筒の蓋を閉める音が、妙にはっきり聞こえた。
「それ、俺らを異動させる人ですか」
「違います」
「……伝令は、辞めないですよ」
返事を待たずに、もう走り出していた。
「気にするな」
真壁が、白板の前から言った。
「管理って言葉は、ここじゃ挨拶が難しい」
「……私の前の仕事が、下りてきてるんですね」
「人を動かして、組織を作った人。そういう聞こえ方で、な」
「作ったのは形だけです。動いたのは、本人たちです」
「それを本人に言って通じるなら、苦労はない」
速いのは足だけではないらしい。地上の噂も、ここまで下りてくるのだけは速い。
◇
常駐は、直人を入れて九人になった。
医療がひとり、補給がふたり、伝令がふたり、設備と帰還確認がひとりずつ。それに真壁。
食事は受付の奥で、二席を交代で使う。初日の直人の順番は、全員が食い終わったあとに来た。悪意ではない。順番が、まだないだけだ。
二日目の昼、医療係が自分の順番を半分に割って、椅子を顎で指した。
「待つのも仕事だがな。食うのも仕事だ」
直人は、半分の順番に座った。
◇
二日目の午後、直人は白い線の際に立って、数えた。
復唱の回数。通過の間隔。受付に同時に立つ人の数。
線の内側に戻れば書ける。だが、紙に目を落とすと、そのあいだの数が飛ぶ。
だから指を折って数え、十を超えたら、壁の凹みに小石を置いた。紙に写すのは、流れの切れ目でいい。
昼過ぎに、真壁が横に立った。
「お前、さっきから何してる」
「数えてます」
「……そういう形で来るか」
「数えるあいだ、目を離したくないので」
真壁は小石の列を見て、鼻から息を出した。笑ったのかどうかは、分からなかった。
◇
二日目の終わりに、直人は真壁へ一つだけ頼んだ。
「私がいなくなる日の形を、先に決めさせてください」
「来たばっかりで、辞める話か」
「辞める話じゃないです。私がいないと回らない形を、作らない、という話です」
「……ここは、誰が欠けても回る形しか、最初から作ってない」
「なら、私もそこに合わせます」
真壁は、それ以上聞かなかった。
聞かないのが、この人の受け取り方らしい。
◇
官給の荷物の底に、癖で入れてきた予備の手帳が三冊あった。
四年間、紙は直人の道具だった。ここでは、場所を取る荷物だった。
持ってこなかったものもある。判子。様式の予備。月次の綴り。地上の机を空けたとき、仕事の道具だと思っていたものの大半は、自分ではなく机のほうに属していた。
三冊を寝台の枕の下に入れた。使う日が来るのかは、考えないことにした。
◇
消灯前の定時交信は、受付区画の無線機で行う。
決まった時刻に、決まった文言。余計なことは言わない——当直の係は、文言の紙を一枚だけ寄越した。この拠点で二枚目に見た紙だった。
その夜は、直人が座らされた。地上の言葉が分かる奴のほうが早い、というのが理由だった。
時刻が来て、回線が開いた。
「こちら救難管制。第七中継、応答どうぞ」
聞いたことのある声だった。
「——第七中継、相馬です。異常なし」
無線の三秒は、長い。
「……配属、聞いてないです」
「言ってないです。言う欄が、なかったので」
「欄」
「異動の希望に、部署名は問いません、と書いたら、ここになりました」
「……書いたとおりの場所、ですね」
回線の向こうで、息が小さく揺れた。笑ったのだと分かるまでに、一呼吸かかった。
「——了解、第七中継。異常なし。定時交信を終わります」
切れる間際の声は、卓の声に戻っていた。
地の底で聞く地上の声は、思っていたより近かった。




