見習いは黙ってろ
管理棟の階段を、二段飛ばしで上がった。
新宿第二ダンジョンの屋上で、赤い回転灯が四つとも回っている。近くで見ると、あれは音がする。
三年間で、回っているところを見たのは二度だけだった。
今日が、三度目だ。
◇
現地救助本部は、管理棟の二階だった。
中に入ると、思っていたより静かだった。
怒鳴っている人は一人もいない。二十人ほどが、それぞれの卓で低い声を出している。誰かが数字を読み上げ、誰かがそれを復唱する。それだけが規則正しく続いていた。
壁一面のモニタに、第四層の断面図が出ている。
赤い線が何本か走っていた。閉鎖された通路だ。
その内側に、灰色の点がひとつだけ光っている。
「灰色って」
玲奈は、小さい声で聞いた。
「最終確認地点です」
直人も、同じくらいの声で答えた。
「生きてるとも死んでるとも判定しない印です。ビーコンが返らなくなった場所に、そのまま置かれます」
空調が効きすぎていて、汗が急に冷たくなる。
三年間、玲奈はこの建物の下にいた。上にこんな部屋があることを、考えたこともなかった。
「相馬さん」
入口の脇にいた男が振り返った。四十代半ば。作業ベストの背中に「現地管制」とある。
「片桐さん。お疲れさまです」
「なんであんたがいるの」
「近くにいたので」
「近くって、あんたの部屋、地下二階だろ」
言いながら、片桐の視線が玲奈へ移った。
「そっちは」
「水瀬玲奈さんです。来週から救難管制の研修に入ります」
「来週?」
「来週です」
「じゃあ今週は部外者だな」
片桐はそれ以上何も言わず、モニタへ戻った。
玲奈は、壁際に立った。
◇
状況は、簡単ではなかった。
第四層の東区画で、層替わりの最中に通路が閉鎖。パーティ一組が内側に取り残された。
層替わりの最中は、壁の材質のせいで通信もビーコンも通らない。最後に位置が返ってきたのは、二十六分前。
「組み替え完了まで」
「二十二分です」
若い管制官が答えた。片桐は断面図を見上げたまま言う。
「東区画から出られる経路は」
「三本。A、B、C」
モニタに三本の線が引かれた。
Aは旧昇降坑。距離は最短だが、一度戻る形になる。
Bは中央通路。協会が指定している標準退避経路。途中に七メートルの梯子。
Cは西へ回って旧採掘跡を抜ける道。いちばん遠い。
「Bだ」
片桐が言った。
「通信途絶時は指定退避経路へ向かう。訓練でそう教えてる」
「二班、Bへ」
断面図に、青い点が生まれた。投入された班を示す色だと、隣の管制官の手元を見て分かった。
誰も異論を出さなかった。
正しい判断だからだ。
◇
玲奈は、モニタのBの線を見ていた。
七メートルの梯子。
昨日の午後、佐倉はずっと左足をかばっていた。玲奈を引き倒したときに体重を乗せ直したのも、その左足だ。
梯子は、片足に全部の体重を預けて降りる。
言うべきだ、と思った。
同時に、言えるわけがない、とも思った。
ここにいる二十人は全員、資格を持ってこの部屋にいる。玲奈は昨日クビになったE級で、研修は来週からで、書類はまだ出ていない。
誰かの命について口を開く権利が、一つも揃っていない。
それに、もし外れたら。
――佐倉さん、と叫んだときも、考えてから叫んだわけではなかった。
「……たぶん、Bじゃないです」
部屋の声が、少し減った。
片桐が振り返った。怒っている顔ではなかった。それがかえって怖かった。
「今、何か言った?」
「あ、いえ、その」
「言ったよな」
玲奈は、モニタを指した。指先が震えているのが自分で分かる。
「Bに、梯子があるので。佐倉さん、昨日、左足を痛めてます。だから」
「診断は」
「え」
「受傷の記録は。協会に上がってるのか」
「……上がってない、です」
「本人の申告は」
「してない、と思います」
片桐は、玲奈をまっすぐ見た。
「E級の見習いは黙ってろ。ここは人が死ぬ現場だ」
言葉に、悪意はなかった。
声を荒げてもいない。玲奈を見下してもいない。
だから、何も言い返せなかった。
診断記録がない。本人の申告もない。
あるのは、昨日の玲奈が見たというだけの話だ。
それを根拠に二十人を動かしたら、動かした人が責任を取ることになる。
片桐は正しい。
協会の手順も正しい。玲奈が三年間かけて教わってきたことも、全部正しい。
正しいものだけで組み立てた部屋の中で、玲奈の三年間だけが、どこにも置き場がなかった。
◇
「片桐さん」
直人が、壁際から一歩出た。
片桐が振り向く。玲奈は、直人の声が今までと同じ調子なのに驚いた。この部屋で、この人だけが昨日と同じ話し方をしている。
「信じてくれとは言ってません」
「じゃあ何だ」
「照合の結果を、見てもらえませんか」
直人は端末を出して、片桐の卓に置いた。
「水瀬玲奈の同行日報三年分と、協会の負傷記録を突き合わせました。彼女が日報の余白に負傷の予兆を書いた件数が、十四件」
片桐の視線が、画面へ落ちる。
「そのうち十一件が、三日以内に実際の負傷として協会に記録されています」
部屋の若い管制官が、手を止めてこちらを見た。
玲奈は、直人の横顔を見ていた。
この人は昨日、五百十二枚を読んだと言った。
読んだだけではなかった。読んだものを、協会の記録と一枚ずつ突き合わせていた。
自分の三年間が、誰かの手で数えられていたことを、玲奈は今初めて知った。
「もう一件」
直人は続けた。
「佐倉隼人のパーティが、通信途絶下で退避経路を選択した記録が七件あります。うち五件が、指定経路以外です」
片桐は、画面を二度スクロールした。
「……これ、いつ作った」
「昨夜、読みながら印をつけた箇所を、今朝システムで照合しました」
「照合、システムでできんの」
「負傷記録の検索はできます。三年分で四十分くらいです」
「なんで作った」
「再配置の評価に要るので」
片桐は、鼻から息を吐いた。
「……普通、日報の余白なんか検証しないぞ」
「検証できる形で書いてあったので」
「あんた、そういうとこだよ」
それから、片桐は玲奈のほうを向いた。
「水瀬」
「は、はい」
「どこだ」
「……Cです」
「理由。二つ以上」
玲奈は、唾を飲んだ。
「一つは、梯子です。左足をかばってる人は、梯子で下りるとき片足に全部乗せます。佐倉さんはたぶん、下りられると言って下りると思います。でも、そのあと必ず遅れます」
「二つ目」
「三田村さんです」
「回復役だろ。それが」
「三田村さん、怪我人が出たら、必ず平らなところまで運んでから処置します。走りながらは絶対にやりません。危ないからって」
「それで」
「佐倉さんは、三田村さんが処置を始めたら、急かさないです。終わるまで待ちます。三年間、そこだけは一度も崩さなかったので」
玲奈は、モニタのCを指した。
「層替わりに巻き込まれてるので、たぶん誰か怪我をしてます。だったら佐倉さんは、処置できる場所を通る道を選びます」
指を、Aへ、Bへ、順に移した。
「Aは戻る道です。Bは梯子です。広くて平らなところがあるのは、Cだけです」
片桐は、モニタのCを見ていた。
「外れたらどうする」
少ししてから、そう聞いた。
玲奈は、答えるまでに三秒かかった。
「……外れます」
「は?」
「四人目の人のこと、私、何も知らないので」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
「あの人がどう考えるか、分かりません。あの人が別の道を主張したら、佐倉さんはたぶんそっちを選びます。だから、絶対じゃないです」
部屋が、静かになった。
片桐は、玲奈を五秒くらい見ていた。
それから卓に向き直った。
「二班はBのまま。三班、Cへ回せ」
「三班、二人しかいません」
「二人でいい。旧採掘跡まで走らせろ」
◇
時計が、十九分を切った。
玲奈は、壁際で立ったままだった。手のひらが汗で濡れている。
自分が今、何を賭けたのか、まだ実感が追いつかない。
「水瀬」
片桐が、こちらを見ずに言った。
「そこ、座れ」
「……え」
「立ってると邪魔だ。座って、通信聞いてろ。二班と三班、両方」
玲奈は、空いていた椅子に座った。
ヘッドセットを渡された。耳が、雑音でいっぱいになる。
直人は、壁際に戻っていた。
誰にも見られていない場所で、端末に何か書き込んでいる。玲奈がここへ来てから、彼が卓に近づいたのは、あの一回きりだった。
◇
十五分。
二班が梯子の上に着いた。下は瓦礫で埋まっていて、降りても進めないと報告が入る。
片桐は「そのまま待機」とだけ言った。誰も、玲奈のほうを見なかった。
九分。
三班の呼吸が荒くなっている。走っているからだ。
二人のうち片方が、通信のたびに語尾を落としていた。玲奈は無意識に、そちらの隊員番号を紙の端に書いた。書いてから、自分が何をしているのか分からなくなって、手を止めた。
紙は、片桐の卓の隅にあったメモ用紙だった。
三分。
誰も、何も言わなくなった。時計だけが減っていく。
◇
ゼロ。
雑音の質が変わった。壁が動き終わったのだと、隣の管制官が言った。
ヘッドセットの奥から、音が返ってくる。
「――誰か、聞こえるか」
聞き覚えのある声だった。
玲奈は、椅子から腰が浮きかけた。
本部の全員が、同時にモニタを見る。
「佐倉隼人、生存を確認。位置は――」
誰かが声を上げかけて、止まった。
佐倉の声が、続けて言った。
「三人だ」
雑音が一度、大きくなった。
「一人、いない」




