向いてました、ほんとに
離職、という欄に丸がついていた。
四通のうちの三通目だ。
戸松孝之。三十五歳。装備整備の専任へ移って、三ヶ月と四日で辞めている。
自由記述の欄は、空欄だった。
◇
東堂が出した追跡項目は、四つある。
離職/重大事故/本人の申告/配置先評価
三ヶ月のあいだ、重大事故は一件も起きていない。
誰も怪我をしていない。それでも、一つ目に丸がついた時点で、検証が発動する。
直人は、条件の紙を壁から外して読み直した。
外す必要はなかった。文言は覚えている。
重大事故が発生した場合は、即時に検証を行う
離職については、そこまで書かれていない。
書かれていないから検証しない、というのは、書式の読み方ではない。
◇
「検証、私がやりますか」
宇野が聞いた。
「私がやります」
「あなたがやると、あなたの検証になりますよ」
直人は、手を止めた。
「……はい」
「聞き方も、記録の取り方も、あなたのやり方です。それで自分の失敗を調べたら、自分に都合のいい失敗が出ます」
言い方に、勝ち誇るところはなかった。事実の確認をしているだけの声だ。
「反証確認の欄、あなたが作ったんですよね」
「作りました」
「自分の件で、それを自分でやるのは無理です」
宇野は、ストップウォッチを机の端に寄せた。
「分けましょう。記録は私が出します。あなたは本人に会ってください」
「順番は」
「先に私です。あなたが会う前に、記録だけで何が言えるか出しておきます」
「あとから合わせると」
「記録が動きます。あなたが聞いてきた話に合う数字を、私が探しはじめるので」
直人は、その順番を書き取った。
書きながら、これは自分が三年やってこなかったことだと思った。三年、誰にも順番を決めてもらっていない。
◇
戸松孝之は、市内の物流倉庫にいた。
夜勤明けの時間に、休憩所で会った。作業着のまま、缶のコーヒーを両手で持っている。
肩から腕にかけての作りは、まだ探索者のものだった。半年経てば落ちる、と本人は言った。
休憩所には自販機が二台あって、片方は釣り銭切れの札が貼ってある。
戸松は、貼ってあるほうの前を通らずに歩いた。毎日通っている人の歩き方だった。
「わざわざ来たんですか」
「はい」
「電話でよかったのに」
「聞くことが、二十くらいあるので」
戸松は、笑った。
「相馬さん、そういう人でしたね」
◇
直人は、三ヶ月前と同じ順番で聞いた。
今の仕事。一日の動き。最後に休んだ日。前の職場との違い。今の手取り。
三ヶ月前と違うのは、装備の内訳を聞く必要がなくなったことだけだった。
戸松は、二十のうち十八に、すぐ答えた。
残りの二つは、記憶違いを訂正するのに時間がかかっただけで、答えは返ってきた。
どの答えにも、辞めた理由が入っていなかった。
◇
直人は、三ヶ月前の紙を出した。
自分で作って、戸松と一緒に見た紙だ。前職と新職の額面が、左右に並んでいる。
探索者(攻撃D) 月額 三十二万八千
装備整備専任 月額 二十六万三千
「これ、覚えてますか」
「覚えてます」
「間違っていますか」
「間違ってないです」
戸松は、紙を指でなぞった。
「二割減るって、そのとき言われました。分かってますって答えました」
「はい」
「実際、そのとおりでした」
◇
「じゃあ、なぜ辞めたんですか」
戸松は、缶を置いた。
「仕事は、良かったんです」
「はい」
「楽になりました。ほんとに。朝に起きて、夕方に帰って、誰も死なない」
言い方に、嘘の気配がなかった。
「三ヶ月で、整備の資格の二級まで取りました」
「聞いてないです」
「言ってないので」
戸松は、作業着の胸を軽く叩いた。
「向いてました。今でもそう思います」
◇
「じゃあ、何が続かなかったんですか」
戸松は、しばらく答えなかった。
それから、指を三本立てた。
「危険手当が、月に四万二千」
「……はい」
「装備補助。協会が半分持ってたやつです。年で十八万くらい」
「はい」
「あと、住むところです」
直人は、ペンを止めた。
「借上のやつです。探索者登録が外れると、資格がなくなります。猶予は三ヶ月」
戸松は、作業着の内ポケットから折った紙を出した。
協会の様式だ。四つに折ってあって、折り目が白くなっている。何度も開いた紙の折り目だった。
貴殿は、探索者登録の抹消に伴い、
借上住宅の入居資格を喪失します。
退去期限 登録抹消日から九十日以内
「これ、いつ来ましたか」
「配置が決まった週です」
「私は、見てないです」
「送り先は住んでる本人なので」
戸松は、紙を折り直した。
「たぶん、相馬さんのところには行かない紙です」
「……はい」
「俺も、来るとは思ってなかったです」
◇
直人は、その場で計算した。
額面は、六万五千の減。二割だ。
消えたのは、そこではない。
危険手当 月 四万二千
装備補助 月に直して 一万五千
住宅補助(借上分) 月 五万八千
合わせて、月に十一万五千。
額面の減と足すと、十八万になる。
「実質で、四割近く減ってます」
「そのくらいだと思います」
「引っ越しましたか」
「しました。ここから電車で四十分のところに」
「通勤は」
「一時間十分です。前は二十分でした」
「探すのに、どのくらいかかりましたか」
「四週間です。整備の仕事しながらなので、土曜しか動けなくて」
直人は、その数字も書いた。四週間、という欄はどこにもない。
書きながら、自分の紙の左右を見た。額面が二つ並んでいるだけの紙だった。
三ヶ月前、この紙の話だけで一時間近く使っている。
話した内容は覚えている。整備の資格の等級、勤務時間、通勤経路。全部、仕事の話だった。
◇
「なぜ、言わなかったんですか」
聞いてから、直人はその聞き方を後悔した。
責めているように聞こえる。
戸松は、そう受け取らなかった。
「聞かれなかったので」
「……はい」
「あと、言うことじゃないと思ってました」
戸松は、缶をもう一度持った。
「相馬さんが見てたのは、仕事の話だったので」
直人は、その一行をそのまま書いた。
言い直しも、言い訳も入れなかった。入れると、記録が自分の側に寄る。
書いているのを見て、戸松は少し慌てた。
「責めてるんじゃないです」
「分かってます」
「あの三時間で、仕事のことは全部聞かれました。あんなに聞かれたの、初めてでした」
「はい」
「だから、こっちも仕事の話をしたんです」
戸松は、缶をテーブルに置き直した。
「家賃の話は、たぶん、俺が言わなきゃいけなかったやつです」
「言える欄が、なかったです」
「欄」
「うちの様式に、住むところを書く欄が一つもないです」
戸松は、それを聞いて、少し考えた。
「……じゃあ、俺のせいじゃないですね」
「違います」
◇
「今の仕事は、どうですか」
「悪くないです」
「続けられそうですか」
「分からないです」
「分からない理由は」
「三ヶ月しか、まだやってないので」
その言い方は、三ヶ月前の面談のときと同じだった。
戸松は、そこで初めて言葉を探した。
「整備のほうが、面白かったです」
「はい」
「でも、面白いだけだと、家賃が払えないので」
◇
休憩の終わりが近づいて、戸松が立ち上がった。
「相馬さん」
「はい」
「怒ってないですよ、俺」
「……はい」
「あの三時間、悪くなかったです。あんなに話したの、久しぶりだったので」
直人は、返す言葉を持っていなかった。
「向いてました。ほんとに」
戸松は、缶を分別の箱に入れた。
「向いてる仕事って、続けられる仕事のことじゃないんですか」
◇
帰りの電車は、四十分かかった。
直人は、途中の駅で一度降りて、戸松が引っ越した先の駅名を確認した。
確認しても、何も変わらない。それでも、書式の「配置先」の欄に住所が入っていないことに、三年間気づいていなかった。
地下二階に戻ったのは、二十二時を過ぎてからだった。
宇野が、まだ残っていた。
机の上に、記録から出した分だけの資料が置いてある。
「先に言っていいですか」
「どうぞ」
「試験運用で面談した全員ぶんの記録を、質問で分類しました」
宇野は、一枚目を出した。
「対象は二十三人です。戸松さんも入っています」
「延べの質問数は」
「四千二百くらいです。数えても比べられないので、種類で数え直しました」
「種類」
「同じ質問は一つに数えます。言い回しが違うだけのものも、一つにまとめました」
宇野は、その紙を裏返して見せた。
「仕事に関する質問が、百二十六種類。生活に関する質問が、四種類です」
「四」
「通勤時間、休みの取り方、通える範囲、家族の予定。手当と住居は、〇です」
直人は、その紙を受け取った。
「分け方は」
「質問の主語で分けました。仕事が主語なら仕事、生活が主語なら生活です」
「迷ったものは」
「七種類あります。寄せてないです。迷ったまま別に出してあります」
◇
宇野は、二枚目を出さなかった。
「二枚目、あるんですけど」
「はい」
「明日にします」
「今でいいです」
「今出すと、あなたが今夜のうちに書式を直します」
宇野は、資料を伏せた。
「直す前に、検証をやってください。順番が逆です」
直人は、その順番も書き取った。
書いてから、手が止まった。止まった時間も書いた。十一分。




