八十七件
八十七件を、日付順に並べ替えた。
それから、また元に戻した。
日付順に意味がないことに、並べ終わってから気づいた。
早く出した人が、先に困っているとは限らない。
◇
机が足りなかった。
真ん中の山と右の山を床に下ろして、天板を全部空けた。それでも八十七件は載りきらない。
直人は、廊下の奥から会議机をもう一つ引いてきた。地下二階には、使っていない部屋が三つある。
運び終えて、部屋を見た。
椅子が四脚で、机が二つ。相談室というより、荷物置き場に近くなった。
「全部見るんですか」
玲奈が、ドアのところから言った。まだ私服のままだ。
「見ます」
「三十件が上限ですよね」
「二十六です。四件、もう使ってます」
「……じゃあ、六十一件は断ることになりますよね」
「はい」
「断るのにも、見るんですか」
「見ないと断れないので」
玲奈は、そこで黙った。
それから端末を出して、指で二回叩いた。
「二百六十一時間です」
「え」
「八十七件を、三時間ずつ見たら。一日八時間で、三十二日と少し」
「……はい」
「三ヶ月のうち、三十二日を読むだけに使うことになります」
直人は、メモ帳を開いた。
「水瀬さん」
「はい」
「今の計算、もう一回言ってもらえますか。書きます」
「……計算、合ってますよ」
「合ってるから書くんです」
玲奈が、変な顔をした。
それでも、もう一度言ってくれた。直人は数字と、玲奈の名前を横に書いた。誰が出した数字かも残す。そういう手順にした。
◇
玲奈は帰りかけて、ドアのところで振り返った。
「そういえば」
「はい」
「あれ、まだ続いてます。六卓とも」
「そうですか」
直人は顔を上げなかった。
玲奈は出ていった。
◇
八十七件を、直人は一件ずつ開いた。
申請書は一枚だ。名前、登録番号、現在の所属、希望する配置、そして自由記述の欄がある。
自由記述は、五行しかない。
三十一件目 「班長が怖い」
四十四件目 「装備のリース代が払えない」
五十二件目 「妻に言われて出しました」
六十件目 「三年前に一度、ここに来ました。覚えてないと思います」
六十件目は、覚えていた。
二年前だ。決まらないまま、真ん中の山に一年置いて、本人が取り下げた。
直人は、その件の古い記録を出した。
二年より前のものは、机の一番下の引き出しにまとめてある。開けると、手前に協会の封筒が四通、立てて入っていた。
倒さないように指で押さえて、奥から抜いた。
机の端に置いて、それから、まだ順番を決めていないことを思い出して、元に戻した。
六十九件目は、自由記述の欄が空欄だった。
名前と登録番号だけが書いてある。希望する配置の欄も、空いている。
直人は、その紙をしばらく見た。
困っているのは分かる。困っている、と書いていないので、内容が分からない。
困っている、という言葉の中身が、八十七通りある。
直人は、それを初めて紙の枚数として見た。
◇
三日で、こうなった。
一次確認 三十七件
面談 三件
一次確認は、申請書と直近の記録に目を通すところまでだ。一件二十分。
三十七件で、十二時間二十分。
面談には、一件三時間の枠を取る。三件で、九時間ぶんの予定を空けた。
三時間かかるかどうかは、開けてみないと分からない。早く終わっても、空いた枠に別の件を入れられるわけではない。相手の都合が先にある。
合わせて二十一時間と少し。ほかに、通常の業務がある。
◇
三件のうち、一人は一時間で終わった。
二十代の女性だった。索敵E。四年目。相談の内容は、装備の更新費用が出せないというものだった。
直人は、いつもどおりの順番で聞いた。
今の配置。一日の動き。最後に休んだ日。装備の内訳。今の手取り。
「あの」
「はい」
「そういう話じゃないんですけど」
「……はい」
「私、どこに行けばいいか聞きに来たんです。今の話じゃなくて」
「今の話を聞かないと、次が出ないので」
「三時間かかるって聞きました」
「かかります」
女性は、鞄を持った。
「思ってたのと違いました」
それで、帰った。
直人は、その言葉をそのまま記録に書いた。
何が違ったのかは書けなかった。聞く前に帰られたからだ。
◇
別の一人は、決まった。
守屋という三十一歳の男だった。C級・防御。前衛で三年。
希望する配置の欄には、こう書いてあった。
希望する配置 潜行の少ない部署
「どこでも、というのは」
「どこでもいいです。潜行が週二日までなら」
「週二日」
「はい」
聞く順番は決まっている。今の配置から、手取りまで。
一日の動きのところで、守屋は詰まった。
「朝は、六時半に家を出ます」
「はい」
「その前に、子どもを保育園に連れていくので、七時までに戻れないと預けられなくて」
言ってから、順番が逆だと気づいたらしい。
「すみません。保育園が先です。七時に預けて、それから出ます」
「夕方は」
「六時までに迎えに行きます。妻が夜勤なので」
直人は、その二つの時刻を書いた。
七時と、十八時。三年間、一度も動いていない二つの数字だ。
◇
直人は、守屋の潜行記録を出した。
三年で、遅刻が〇件。
早退が二十二件ある。二十二件とも、十七時台だった。
理由の欄は、二十二件とも「私用」になっている。
「これ、隊に言いましたか」
「言ってないです」
「言えない理由がありますか」
「……隊が週四日で組まれてるので。俺だけ二日にしたら、回らないです」
守屋は、そこで初めて早口になった。
「別に、辞めたいわけじゃないんです。前衛も、嫌いじゃないです。ただ、六時に間に合わない日が去年から増えてて」
「増えてます。二十二件のうち十四件が去年です」
「……数えたこと、なかったです」
◇
直人は、第一層と第二層の常設巡回班の資料を出した。
層替わりの対象外の区画を、決まった経路で回る仕事だ。
八時から十六時。編成は日ごとではなく月ごとに組まれる。深いところへは行かない。
「人、足りてないんですか」
「足りてないです。誰も行きたがらないので」
「なんでですか」
「報酬が下がるからです」
守屋の顔が、そこで動かなくなった。
「どのくらい」
「日額で三割弱です」
直人は、次の紙を出した。
「ただ、これは日額の話です」
紙には、守屋の去年の支給明細から、項目が全部書き出してあった。
基本の日額。深層手当。時間外。それから、早退した日に引かれている控除。
「去年の早退十四件で、十一万ちょっと引かれてます」
「……はい」
「巡回班は十六時上がりなので、この控除がなくなります。深層手当は消えます」
直人は、二つの数字を上下に並べて書いた。
「差し引きで、年間の手取りは八・五パーセント下がります」
「……八・五」
「概算です。今年の等級表で計算しました。違っていたら言ってください」
守屋は、紙を持ったまま、しばらく黙っていた。
「三割減るんだと思ってました」
「日額はそうです」
「三年、それで言わなかったです」
◇
「守屋さん」
「はい」
「向いてないとは言いません。三年もってるので」
「はい」
「配置が合ってないんじゃなくて、時間が合ってないだけです」
守屋は、資料をもう一度見た。
「それ、書式のどこに書くんですか」
「今は、どこにも書けないです」
「じゃあ、どうするんですか」
「欄を作ります」
◇
残る一人は、真ん中の山に置いた。
三時間話して、材料が足りないことだけが分かった。
◇
二日目の夜に、一度、手が止まった。
六十九件目の空欄の紙が、まだ机の端にあった。
机に積まれた八十七件のどこにも、直人自身の欄はない。
当たり前だ。申請したのは八十七人で、直人はその中にいない。
なぜそんなことを考えたのかは、分からなかった。
直人は、手が止まっていた時間も記録に書いた。
四分。
◇
三日目の夕方に、直人は一次確認の三十七件を並べ直そうとした。
どの順番にすればいいのかが、決まらない。
困っている度合いを比べる方法を、直人は持っていなかった。
三年間、必要がなかった。
来た人から順に見て、決まるまでやる。それで足りていた。
八十七人が同時に来ると、それは方法ではなくなる。
◇
四日目の朝、玲奈は八時前に地下二階へ降りた。
研修の早番は九時からだ。三十分あれば足りる。
それでも、四日続けて八時前にここへ来ていた。
一日目は、書類を出しに来た。
二日目は、その書類の受領印をもらいに来た。
三日目は、理由がなかった。篠塚の机にあった備品の伝票を、勝手に預かって持ってきた。頼まれてはいない。
四日目は、何も持っていない。
ドアが、少し開いていた。
直人は、増やしたほうの会議机の向こうで、椅子に座ったまま寝ていた。
背もたれに頭を預けて、口は閉じている。右手に赤いペンを持ったままだ。
机の上には、読み終わった書類が三つの束に分かれていた。
右端の束の一番上に、付箋が一枚貼ってある。
――二百六十一時間
玲奈が言った数字が、直人の字で書いてあった。
その下に、小さく「水瀬」と書いてある。誰が出した数字かも残す、という書き方だった。
玲奈は、しばらくそれを見ていた。
書類には触らなかった。
電気も消さなかった。消したら起きる気がした。
ドアだけ、静かに閉めた。
◇
閉めてから、廊下でしばらく立っていた。
三年前、玲奈は毎晩、日報の余白に人のことを書いていた。
頼まれてもいないのに、書いていた。書かないと落ち着かなかった。
誰にも見せていない。見せる相手がいなかった。
あれと同じ書き方をする人が、あの部屋で寝ている。
玲奈は、階段を上がった。
九時から、六卓ぶんの記録が始まる。
◇
地下二階の机の上には、まだ順番の決まっていない八十七件が残っていた。




