健常者の中の障害者
彼女は、障害者が下に見られることを痛感する。
彼女の息子は、午前はろう学校の幼稚部、午後は保育園で過ごしていた。
彼女の息子が補聴器をつけるようになってから、お迎えの時にいつも話していたママ友が距離を置くようになった。
優しい方も、
「面倒を見てあげてね。」
と、自分の息子に彼女の息子の面倒を見るよう声をかける。
彼女の息子は、耳が悪くても、周りの動きで状況を判断し、行動することができる。
面倒を見てもらう必要はない。
一見、「面倒を見てあげてね。」という言葉は、優しく聞こえるが、下に見ているからこその言葉だ。
小学校に入学してからは、教師の道具になることもある。
「耳の悪い生徒のために、私はこうしている。」
と、アピールのために。
周りの保護者は、耳が悪いため学力が低く、それを補うため、先生が苦労していると思うようだが、彼女の息子は、小学校入学当初から、学力は秀でていた。
それは、ろう学校の先生が、勉強ができることで、自分に自信が持て、積極性が生まれると先取り教育をしたからである。
しかし、授業中、発表をできないため、彼女の息子の学力を知る者はいなかった。
また、席は常に前列をお願いしたが、後列に座らせる先生もいたという。
それは、社会に出てからは特別扱いされないため、他の子と同じように接するというものであった。
聞こえを奪う行為である。
知人の息子に識字障害の子供がいるが、担任は、たくさん書いて勉強しないからだと、毎日、たくさんの書き取りを命じた。
それは、見えない人に、努力が足りないから見えないと言っていることと同じだと、わかっていない、障害は、努力で克服できるものではない。
障害者は、成長する中で、障害を理解してもらえないがゆえに、様々な困難にぶつかる。
では、特別支援学校に進めばいいと言う人もいるが、特別支援学校も良い先生ばかりではない。
目の悪い生徒の前では、スマホを見ながら授業をしたり、耳が聞こえないからと小言を呟きながら、授業をする先生もいる。
中には、普通学校で、うまくできなかったからと特別支援学校に赴任してくる先生もいる。
どこにも、いい人も、悪い人も存在する。




