6
ルナリア王国の最奥に佇む『ルナリア大聖堂』。
天井高三十メートルに達するゴシック様式の聖堂内は、無数のろうそくの火と、巨大なステンドグラスから差し込む月光によって、荘厳かつ神秘的な光に包まれていた。
今夜は、年に一度の『神聖降臨祭』。
国王をはじめ、王宮の全貴族、さらには近隣諸国の使節までもが一堂に会する、王国最大の宗教的式典である。
だが、この絢爛たる聖堂内に漂っていたのは、神聖な祈りの空気などではなかった。
鼻をつくのは、重苦しい百合の花の香水の匂い。そして、その奥に隠しきれず滲み出ている、「人間の臓物が腐り落ちるような、生温かく甘い死臭」。
「ひっ……近寄るな……! 頼むから私を見るな……!」
聖堂の最前列、金糸の刺繍が施された豪華な車椅子の上で、一人の男ががたがたと震えていた。
ジュリアン・エザリントンだ。
彼の姿は、わずか数日前までの「王国の至宝」と称えられた美しい公爵令息の面影を完全に失っていた。
プラチナブロンドの髪は全て抜け落ち、頭皮には痛々しい赤黒い爛れが広がっている。全身をぐるぐる巻きに覆う白い包帯からは、黄色く濁った膿と黒い血液が滲み出し、車椅子の車輪を濡らしていた。
皮膚の深層で蠢く「人間の歯」と「爪」が、包帯の内側から蠢いて小さな突起を作り、ボキボキと不気味な骨鳴りを響かせている。
「おとなしくしていらっしゃい、ジュリアン様。今夜のあなたは、私の最高に誇らしい『器』なのですから」
車椅子のすぐ隣に立つ少女――クロエが、可憐な笑みを浮かべてジュリアンの耳元で囁いた。
純白の絹の聖女装束をまとった彼女は、一見すると舞い降りた天使のようだ。
しかし、彼女を間近で見つめるジュリアンの瞳には、狂気と絶望の涙が溢れていた。
ジュリアンには、もう分かっていた。
彼女が聖女などではなく、人を喰らい、魂を削ぎ落とす地獄の怪物であるということを。
だが、すでに声帯の筋肉まで爛れ落ちかけた彼には、叫び声を上げることも、逃げ出すこともできない。
「皆様! 我がルナリア王国の庇護者たる光の神へ、祈りを捧げましょう!」
中央の祭壇に立った大司教が、老いた声を張り上げる。
その大司教の首筋には、すでに紫色の斑点が浮かび、彼の瞳は濁ったガラス玉のように焦点を失っていた。国王をはじめとする貴族たちの多くも同様だった。クロエが振り撒く「光の加護」という名の精神汚染の香気によって、彼らの脳はとうに思考能力を奪われ、ただの操り人形と化していたのだ。
クロエが優雅な足取りで祭壇の前へと進み出る。
彼女が両手を広げ、祈りの言葉を紡ぎ始めたその時――。
ガチャン!
大聖堂のすべてのステンドグラスが一斉にひび割れ、怪しい赤紫色の月光が聖堂内へと雪崩れ込んできた。
「な、なんだ……!? 何事が起きた!?」
正気を失っていた貴族たちが、パニックを起こしてざわめき立つ。
それと同時に、クロエの祈りの声が止まった。
彼女の背中が、あり得ない角度でぐにゃりと反り返る。
ポキ、ポキポキポキッ!
嫌な関節の砕ける音が大聖堂全体に響き渡った。
クロエの純白の聖女装束が、内側から破裂するように破れ散る。
彼女の背中から飛び出したのは、人間の腕ではない。無数の、骨と皮だけの「腐った子供たちの腕」が、百本、千本と蜘蛛の脚のようにうじゃうじゃと生え広がり、大聖堂の天井や柱へとへばりついていった。
「ひえっ……! 化け物……化け物だああっ!」
「逃げろ! 扉を開けろ!」
悲鳴を上げて大聖堂の重い大理石の扉へ群がる貴族たち。
しかし、扉はびくともしなかった。それどころか、扉の隙間からどろりとした黒い粘液が溢れ出し、逃げ惑う貴族たちの足首を次々と掴んで引きずり倒していく。
「ふふ……あはははは! 逃げられるわけがないでしょう、愚かな肉ども!」
クロエの口が、耳の根元まで裂けた。
その口内には、ぎっしりと三重に生え揃った鋭い鮫のような歯。彼女の顔の皮膚がベリベリと剥がれ落ち、中から紫色の巨大な「眼球」が数千個、蠢きながら現れる。
「今夜、私は完全なる神となる! この国に生きる全ての生命(お肉)を喰らい尽くして、永遠の地獄を築くのだから!!」
クロエ――千の顔持つ腐食母神が咆哮を上げた。
その衝撃波だけで、大聖堂の石柱が崩れ落ち、貴族たちが血を吐いて倒れていく。
絶望が、大聖堂を完全に支配したその瞬間。
ドドド、と地鳴りのような音が外から響いた。
「なに……!?」
クロエの数千の眼球が一斉に大聖堂の正面扉へと向けられる。
ドカァンッ!!
何トンもある大理石の大扉が、まるで紙屑のように内側へ向かって粉々に吹き飛んだ。
吹き荒れる暴力的なまでの影の嵐。爆風とともに聖堂内へと流れ込んできたのは、百合の香水でも、腐肉の死臭でもない。
――清冽で、どこか凛と冷たい「紫苑の花と、冷たい夜風の香り」。
嵐の真ん中から、静かな足音が近づいてくる。
コツン、コツン。
高価なハイヒールが、血と粘液に汚れた大聖堂の床を叩く音。
「――相変わらず、趣味の悪い宴ですこと。クロエ」
暗闇から姿を現したのは、一人の女性だった。
聖堂内にいた誰もが、その美しさに息をのんだ。
夜空の闇をそのまま織り上げたような、漆黒のシルクのドレス。胸元と裾には、妖しく光る紫色のルーン文字が刺繍されている。首元には、血のように紅い巨大なダイヤモンド。
かつて「陰気な煤泥」と蔑まれた伯爵令嬢、エレノア・ヴァレンタイン。
その隣には、夜の闇を纏ったような漆黒のタキシードに身を包んだ、カイル・ルナリア公爵。彼の左右で色の異なる瞳が、捕食者の光を帯びてクロエを見つめている。
そして――二人の背後に従うのは。
十年前の炎で焼け死んだはずの、近衛第三騎士団長ヴィンセント率いる、数千の『銀嶺の不死騎士団』。彼らは完璧な白銀の甲冑を光らせ、整然と剣を抜いて並んでいた。
「エ……エレノア……!?」
車椅子の上で膿を垂れ流していたジュリアンが、かすれた声を絞り出した。
彼の濁った眼球に映るのは、かつて自分が捨てた、見向きもしなかった元婚約者の姿。
今の彼女は、惨めな追放者などでは到底なかった。
死者と影を従え、地上に降臨した『暗黒の絶対女王』そのものだった。
「エレノア……! 助けてくれ! 私だ、ジュリアンだ!」
ジュリアンは車椅子から転げ落ち、必死に腕を伸ばしてエレノアのドレスの裾へ這い寄ろうとした。
「あの女に騙されていたんだ! 愛しているのは君だけだ! 私を治してくれ! また私と結婚させてやる! 公爵夫人の座をあげよう! だから……だから助けてくれえええっ!」
惨め極まりない命乞い。
エレノアは、足元に這いつくばるジュリアンを、冷ややかな眼差しで見下ろした。
彼の汚れた手がドレスに触れる直前――。
バシッ!
カイル様の足が速く動き、ジュリアンの顔面を容赦なく踏みつけた。




