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「ぐわああっ!?」
「汚らわしい豚が。気やすく私の女王に触れるな」
カイル様は氷のように冷たい声で言い放ち、ジュリアンの頭を踏みにじったまま、靴底でじりじりと踏みにじった。ジュリアンの腐った皮膚から膿が溢れ出すが、カイル様の周囲を漂う影がそれを一瞬で消滅させる。
「ジュリアン様」
エレノアは、扇で口元を隠し、クスクスと可哀想なものを見るような笑いを漏らした。
「私を『不気味な煤泥』と呼んだのは、あなたではありませんでしたか? ご安心くださいな。今のあなたは、泥以下……ただの『動く腐肉』ですもの。お似合いですわよ、その無様姿が」
「あ……あ……っ!」
ジュリアンは絶望のあまり泡を吹き、血の涙を流しながら床に伏した。自分の傲慢さが招いたあまりにも惨めな末路に、彼の精神は完全に崩壊した。
「エレノアアアアアッ!!」
頭上から、地獄の底から響くような叫びが上がった。
数千の腕をのたうち回らせ、クロエ(化異)が天井から跳び降りてくる。
「よくも……よくも私の命の回路を邪魔してくれたわね! お前も、その死者どもも、全員私の胃袋の中で溶かしてあげる!!」
クロエの巨体が、吐き気を催す死臭とともにエレノアへと襲いかかる。
無数の鋭い爪と紫色の舌が、エレノアの身体を切り刻まんと迫った。
だが、エレノアは一歩も動かなかった。
「カイル様。……お召し上がりになって」
「御意、私の愛しい女王」
カイル様がエレノアの腰を抱き寄せ、その前に一歩踏み出した。
彼が左手の銀の瞳を大きく見開いた瞬間。
ズシャアアアアアアッ!!
カイル様の背後から、王宮全体を呑み込むほどの巨大な『漆黒の影の口』が現実世界へと解き放たれた。
それは実体を持たない無の底なし沼。あらゆる負念、怨霊、怪異を呑み込み、咀嚼するための『影喰い』の絶対領域。
「な……何これ!? 体が……引きずり込まれ――きゃああああああっ!?」
クロエの数千の腕が、爪が、巨大な眼球が、カイル様の影の口によって一瞬で絡め取られた。
クロエが蓄えてきた数千人分の生命力と呪詛。それらは、エレノアが事前に施しておいた『反転の術式』によって、クロエ自身を破壊する猛毒へと変貌していた。
「痛い! 熱い! 身体が……身体が溶けるうううっ!」
クロエの悲鳴が大聖堂に響き渡る。
彼女の化け物としての巨体が、内側から紫色の炎に包まれ、メリメリと縮んでいく。
彼女が他者から奪ってきた命が、すべて反転し、彼女自身の肉体を焼き尽くす薪となったのだ。
「ヴィンセント卿! 今です!」
エレノアが叫ぶ。
「ハッ! 全軍、突撃ぃぃぃっ!!」
ヴィンセント卿の掲げた黒銀の剣に応え、数千の不死騎士団が一斉に飛び出した。
彼らの刃には、エレノアの紫色の血が塗り込められている。
死者たちの十年の怨念がこもった一撃が、クロエの巨大な肉塊へと次々と突き刺さった。
ズバッ! ズババババッ!!
「ギャアアアアアアアアアアッ――!?」
最後の悲鳴とともに、千の顔持つ腐食母神の肉体が爆発した。
飛び散る紫色の血液と腐肉。だが、それらが床に落ちる前に、カイル様の影がすべてを喰らい尽くし、跡形もなく消し去った。
大聖堂を埋め尽くしていた死臭が、潮が引くように消えていく。
ステンドグラスから差し込む月光が、再び純粋な銀色の光となって、大聖堂を照らし出した。
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静寂が、訪れた。
クロエという怪異は完全に消滅した。
床には、精神が崩壊し、自らの膿の中で震えるジュリアンと、腰を抜かしてひれ伏す国王や貴族たちだけが残されていた。
「ひぃっ……ひぃふっ……!」
国王が、震える声でエレノアとカイルを見上げる。
「カ……カイル……! エレノア伯爵令嬢……! 助けて……助けてくれたのだな!? おお、我が息子よ! よくぞあの化け物を倒してくれた!」
国王はすがりつくようにカイルへ手を伸ばした。
しかし、カイル様はその手を、冷酷な笑みとともに踏みつけた。
「ぐはっ!?」
「勘違いしないでいただきたいな、父上……いや、元・国王陛下」
カイル様の手から、すうっと黒い影の剣が生成される。
その先を、国王の喉元へと突きつけた。
「十年前、北離宮で近衛騎士団を見殺しにし、自らの保身のために怪異に生贄を捧げ続けた罪。……王としての尊厳も、人としての心も捨てた貴方に、この国を治める資格など最初からなかったのだよ」
「な……なんだと……!?」
「これより、ルナリア王国は新たなる時代を迎える」
カイル様が振り返り、エレノアに向かって深々と膝をついた。
王族としての気品と、絶対的な忠誠を込めて、彼女の手を取る。
「我が輝かしい暗黒の女王、エレノア・ヴァレンタイン。……この腐敗した国を焼き払い、死者と影の上に立つ新たな王冠を、受け取っていただけますか?」
大聖堂に集まった数千の不死の騎士たちが、一斉に剣を掲げ、甲冑を鳴らしてひれ伏した。
「エレノア様万歳!」
「我らの女王陛下に、永遠の栄光あれ!」
地鳴りのような死者たちの歓声。
逃げ場を失った貴族たちは、恐怖と絶望に顔を歪めながらも、生き残るためにエレノアに向かって必死に頭を擦り付けた。
エレノアは、大聖堂の中央、かつて神聖な祭壇があった場所へとゆっくりと階段を上っていった。
漆黒のドレスをなびかせ、彼女は王座の如き椅子へと腰掛ける。
彼女の足元には、完全に壊れてピクピクと痙攣するだけの元婚約者、ジュリアン。
そして目の前には、自分を虐げ、捨て去ろうとした腐敗した王国。
(ふふ……あはははは!)
エレノアの胸の奥から、底知れぬ歓喜が込み上げてくる。
『煤の家系』と蔑まれ、闇の中に追いやられた私が。
今や、この国すべての生者と死者の頂点に立ったのだ。
「良いでしょう、カイル様」
エレノアは足を組み、妖しく唇を歪めて微笑んだ。
「この腐り切った王国を、私とあなたの色に塗り替えて差し上げますわ。……誰一人として、私たちの支配から逃れることはさせません」
カイル様がエレノアの膝元に寄り添い、その指先に熱い接吻を贈る。
二人の悪意と、重なり合った狂気が、月光の下で美しく煌めいていた。
追放された伯爵令嬢と、忌み子の影公爵による、恐ろしくも甘美な『絶望の治世』が、今ここから始まるのだった。




