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「私と手を組まないか、エレノア?」
カイル・ルナリア公爵の言葉が、湿った地下室の静寂に落ちる。
彼の左右で色の異なる瞳――右目の血のような赤と、左目の氷のような銀――が、暗闇の中でらんらんと怪しい光を放っていた。
彼が差し出した細くしなやかな指先から、ゆらゆらと黒い影が立ち上っている。それはまるで意思を持つ油のように蠢き、私の足元から流れる紫色の血の光に接触すると、パチパチと青白い火花を散らした。
「カイル殿下……」
ヴィンセント卿が黒銀の剣を構えたまま、低く警戒の声を上げる。
「このお方は、王宮でも『忌み子』として恐れられた存在。ルナリア王家に極稀に生まれるという、人間の負念や影を喰らう『影喰い(グラットン)』の血を引いておられます。油断めさるな、エレノア様」
「影喰い……」
私はカイル様の顔を改めて見つめた。
ルナリア王国の歴史において、影喰いの異能を持つ王族は、その強大すぎる力ゆえにことごとく若くして処刑されるか、あるいは幽閉されてきた。カイル様が第二王子でありながら「公爵」の爵位を与えられ、王宮の最果ての離宮に追放されていた理由はそれだったのだ。
だが、私の目に映るカイル様は、恐ろしい化物などではなかった。
(……綺麗)
彼の周囲を漂う黒い影。それは、クロエの周囲に群がる「腐肉と粘液の怪異」とはまるで違う。凛と澄み渡り、まるで真冬の夜空のように冷たく、美しい漆黒。
「ヴィンセント卿、剣を収めなさい」
私は静かに命じた。
「はっ……しかし!」
「いいのよ。このお方は、私を害するためにここへ来たのではないわ」
私は一歩前へ踏み出し、カイル様が差し出した手の上に、自分の血に濡れた左手をそっと重ねた。
じゅうう、と皮膚が焦げるような音が鳴り響く。
だが痛みはない。彼の冷たい影が私の傷口に巻きつき、流れる血を吸い上げると同時に、不思議なほど優しく傷口を塞いでいったのだ。私の血に含まれる『呪いの反転力』と、カイル様の『影の力』が溶け合い、地下室全体に紫黒色の光が爆発的に広がる。
「……素晴らしい」
カイル様が感嘆の息を漏らした。その整った顔に、少年のように無邪気で、しかし狂気を含んだ笑みが浮かぶ。
「私の影は、これまで誰の身体にも馴染まなかった。触れる者すべてを黒く腐らせ、発狂させてきたからね。……だが、君の血は違う。私の陰湿な影を柔らかく包み込み、温かい糧へと変えてくれる」
カイル様は私の手を握ったまま、その手の甲に深く、恭しく唇を寄せた。
王族としての気品と、捕食者としての濡れた情熱が混ざり合った、妖しい接吻。
「エレノア。君は私の『光』だ。……いや、私を導く『最高の暗黒』だ」
「お戯れを、カイル様。私はただの、婚約破棄されて追放された哀れな伯爵令嬢ですわ」
私がクスクスと微笑むと、カイル様も楽しそうに喉を鳴らして笑った。
「哀れな伯爵令嬢が、何千もの死者の軍勢を従えて王宮の地下で呪詛の回路を書き換えるかい? ……最高だよ、エレノア。あの愚かなジュリアンは、自分がどれほど途方もない宝をドブに捨てたのか、一生気づくまい。もっとも、彼に『一生』なんて残されていればの話だがね」
カイル様の瞳が、冷酷な色を帯びる。
「クロエの正体について、君はどこまで知っている?」
「彼女の周囲には、腐肉と無数の指、そして紫色の舌を持つ怪異がへばりついています。そして、他人の生命力を吸い上げている。ただの人間でないことは確かです」
「そうだ。彼女はルナリア王国の東の果て、禁忌とされた古の洞窟に封印されていた『千の顔持つ腐食母神』の端末……いわば、肉体を喰らう悪霊の塊だよ」
カイル様は冷ややかに解説を続けた。
「数十年前、彼女の封印が解けかけた。王家はそれを隠蔽し、彼女に定期的な『生贄』を捧げることで王国の平穏を保とうとしたんだ。……十年前の北離宮の大火も、実は火災などではない。ヴィンセント卿たち近衛騎士団をまとめて彼女への『ご馳走』として捧げるための、王宮の仕組んだ屠殺だった」
「……何ですと!?」
ヴィンセント卿の透明な顔が、怒りと怨念によって激しく歪んだ。
彼の全身から飛び散る殺気が、地下室の石壁に亀裂を入れる。
「私たちは……国王を守るために戦ったのではない……! 生贄として、あの化物の餌袋に投げ込まれたというのか……っ!」
「悲しいかな、それが現実だ、騎士団長」
カイル様は哀れむように肩をすくめた。
「そして今、クロエは次の脱皮の時期を迎えている。完全に復活し、この王国全体を己の肉体の一部とするためにね。そのための『最上の苗床』として選ばれたのが、エザリントン公爵家の莫大な魔力を継ぐ男……ジュリアン・エザリントンだ」
すべてがつながった。
ジュリアンが私を捨て、クロエに異常なまでに執着した理由。
それは彼が愚かだったからだけではない。クロエの放つ強力な精神汚染の香気に脳を冒され、自ら進んで「苗床」としての肉体を差し出していたのだ。
「ジュリアンは、もう長くはないわね」
私は祭壇の横で不敵に微笑んだ。
「私が祭壇の回廊を書き換えたもの。クロエがジュリアンから吸い上げる生命力は、そのままこの北離宮へと流れてくる。彼女がジュリアンを貪れば貪るほど、ジュリアンは急速に腐敗し、クロエ自身の体内からも力が抜け落ちていく」
「くすくす……実に甘美な地獄だ」
カイル様が私の腰にそっと手を回し、自身の引き締まった体へと引き寄せた。
耳元で囁かれる彼の吐息が、冷たく、そして酷く熱い。
「エレノア。準備を始めよう。王宮が内部から腐り落ちるまでの間、この北離宮を我らの『城』へと変形させるんだ。死者と影が支配する、真の王宮へとな」
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その夜から、北離宮は人知れず変貌を遂げていった。
外見は相変わらず、木の板が打ち付けられた廃墟のままだった。
しかし、その内部は、カイル様の「影」と、私の「血の術式」、そしてヴィンセント卿率いる死者たちの手によって、絢爛豪華かつ妖異な宮殿へと塗り替えられていた。
打ち捨てられていた破れた絨毯は、黒真珠のように光る深紫色のシルクへと変わり、腐ちかけた木製の家具は、黒壇と銀の装飾が施された美しい品々に作り直された。
明かりは一切の火を使わない。壁や天井に埋め込まれた紫光石が、幽玄な光を投げかけ、部屋の隅々には影でできた従者たちが整然と立ち並んでいる。
死者たちは、もう「焼け焦げた肉塊」などではなかった。
私の血を得たことで、彼らはかつての気品と力を取り戻し、完璧な甲冑をまとった「不死の軍勢」として復活していたのだ。
「エレノア様、お茶のご用意が整いました」
そう言って深々と頭を下げたのは、かつて王宮で「伝説の執事」とまで称されながら、十年前の災厄で命を落とした老紳士、バーナードの霊だった。
透明なガラスのような手で注がれる紅茶からは、蒸気とともに甘美な薬草の香りが立ち上る。
「ありがとう、バーナード。王宮の様子はどうかしら?」
私は豪華な黒革のソファーに深く腰掛け、ティーカップを傾けながら尋ねた。
私の膝の上には、カイル様が身を乗り出し、まるで甘える黒猫のように頭を乗せている。私の指先が彼の美しい漆黒の髪を撫でるたび、彼は心地よさそうに目を細めていた。




