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夜会会場の誰一人として、ジュリアンの異変に気づかない。
彼らはただ「聖女と公爵令息の睦まじい姿」としてそれを見つめ、拍手を送っている。
ジュリアンの瞳から、徐々に生気の光が失われ、濁った灰色のガラス玉のようになっていくのを、誰も止めようとはしなかった。
───
一方、北離宮の地下――。
私はヴィンセント卿と数人の死者の騎士たちを従え、古い石造りの階段を下りていた。
北離宮の地下深くには、王家の記録にも残されていない「開かずの扉」が存在していたのだ。
「エレノア様、この先から凄まじい『穢れ』の気配がいたします。お気をつけて」
ヴィンセント卿が腰の剣(霊体で作られた黒銀の剣)に手をかけ、私を庇うように前に出る。
地下室の重い鉄扉は、長年の湿気で錆びついていたが、ヴィンセント卿が軽く手を触れると、怪力によってあっけなく崩れ落ちた。
扉の向こうに広がっていたのは、異様な光景だった。
部屋の中央に置かれた、巨大な石の祭壇。
その上には、数え切れないほどの「人間の干からびた心臓」が整然と並べられていた。それらは黒く変色し、まるで干し柿のように縮んでいたが、驚くべきことに、時折「ドックン……ドックン……」と微かに脈動している。
そして、部屋の壁一面に描かれていたのは、血で書かれた不気味な魔法陣。
それはルナリア王国の『光の神術』の紋様を反転させ、悪魔を呼び出すための悪質な呪詛の陣だった。
「これは……『命の刈り取り』の祭壇……!?」
私は息をのんだ。
ヴァレンタイン家に伝わる古文書で見たことがある。
他人の生命力を吸い上げ、特定の人物に集約させるための禁忌の呪詛。
「ご覧ください、エレノア様。あの心臓の根元に、札が貼られています」
ヴィンセント卿が指さした先。干からびた心臓の数々に、羊皮紙の札が添えられていた。
そこには、歴代の「不審死」を遂げた貴族や、行方不明になった貧民たちの名前が記されている。
そして、その最も新しい心臓の横には――。
『ジュリアン・エザリントン』
『エレノア・ヴァレンタイン』
私の名前が、すでに用意されていた。
「なるほどね……」
私は冷ややかな笑いを漏らした。
クロエという女。彼女はただの「聖女になりすました娘」ではない。
この国そのものを食い荒らすために、王家やエザリントン公爵家を利用し、貴族たちの生命力を少しずつ刈り取っていた『捕食者』だ。
ジュリアンは私を捨ててクロエを選んだつもりでいたが、実際は自ら進んで「一番美味しいご馳走」として彼女の皿の上に飛び乗っただけに過ぎない。
「愚かな男。自分が愛されていると信じ切って、肉を削がれていることも気づかないなんて」
「エレノア様、この祭壇を破壊いたしますか?」
ヴィンセント卿が剣を構える。
だが、私はそれを手で制した。
「いいえ。破壊するのは、まだ早いわ。こんなに素晴らしい『仕掛け』があるなら、利用させてもらいましょう。クロエがこの祭壇を通じて回収している『力』のラインを、少しだけ繋ぎ変えてあげるの」
私はナイフで自分の腕をなぞり、紫色の光を放つ血を滴らせた。
そして、壁の血文字の陣の上に、私自身の呪詛を上書きしていく。
クロエがジュリアンや他の貴族から奪う生命力。
それを、彼女のもとへ届く直前で横取りし、この北離宮に眠る無数の亡者たちの『糧』として再分配する回路を作り上げるのだ。
「クロエ……あなたが人を喰えば喰うほど、私の死者の軍勢は強く、美しく肉体を得ることになる。あなたが他人の命を奪うたび、その罪の重さがあなた自身の体に『呪い』として跳ね返るようにしてあげたわ」
私が最後の文字を書き終えた瞬間。
地下室全体がぐらりと揺れた。
壁の血文字が紫色に輝き、祭壇の干からびた心臓たちが一斉に「ギャアアアア!」と赤ん坊のような悲鳴を上げた。
「くす……ふふふ。あはははは!」
暗闇の中で、私の笑い声が反響する。
快感だった。
ヴァレンタインの血が、私の全身の細胞が、復讐の予感に歓喜して打ち震えている。
「エレノア様」
突然、背後の暗闇から、ヴィンセント卿とは異なる「第三者」の声が響いた。
「素晴らしい手際だ。まさかヴァレンタイン家の生き残りが、これほど見事な『黒術』を使いこなすとは」
「……誰!?」
ヴィンセント卿が一瞬で私の前に立ち、剣を声の主へと向けた。
死者の騎士たちが一斉に殺気を放つ。
暗闇の奥から、静かな足音が近づいてくる。
コツン、コツンと、上質な革靴が石床を叩く音。
月光も届かぬ暗闇から姿を現したのは、一人の男だった。
夜の闇をそのまま切り取ったような漆黒の髪。その奥で輝くのは、血のように鮮やかな赤と、氷のように冷たい銀の、左右で色の異なる複色の瞳。
身にまとっているのは、王国の第二王子でありながら「呪われた一族の生き残り」として王宮の最果てに追放された男――カイル・ルナリア公爵。
「素晴らしいな、我が哀れな元・義妹(?)。いや、エザリントン公爵家の愚かな息子の、元・婚約者殿と言うべきか」
カイル様は優雅に胸に手を当て、私に向かって深々と一礼した。
その身のこなしには、王族たる気品と、同時に人間離れした「底知れぬ危険な香り」が漂っていた。
「カイル様……なぜ、この北離宮の地下に?」
私は警戒を怠らず、ナイフを握り直した。
彼には見えているのだろうか? 私の周りを取り囲む、何千もの死者の軍勢が。
「なぜ、か。理由は簡単だよ、エレノア嬢」
カイル様は微笑んだ。その唇から覗く八重歯が、まるで肉食獣のように鋭い。
「私もね、あの『偽りの聖女』と、彼女に鼻薬を嗅がされて浮かれている父王やジュリアンたちに、とびきりの死を贈りたいと思っている一人だからさ」
カイル様が素手を差し出す。
彼の長くて美しい指先から、黒い霧のようなものが立ち上り、私の血の光と混ざり合っていく。
「私と手を組まないか、エレノア? 君が『死者』を従える女王になるなら、私は君の『影』となり、王宮の喉元を掻き切る刃になろう。……あの愚か者たちに、真の恐怖を教えてやるために」
カイル様の赤い瞳が、怪しく光った。
ジュリアン、クロエ。
あなたたちが私を追いやったこの暗闇の底で、私は最強の「死者の軍勢」と、王国の「最悪の忌み子」を手に入れたわ。
さあ、宴の始まりよ。
あなたたちが築いた偽りの天国を、一枚ずつ皮を剥ぐように壊してあげる。




