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手のひらから溢れ出る熱い血が、冷え切った大理石の床を紫色に染めていく。
その滴りが地面に落ちるたび、ちちろ、ちちろ、と油が弾けるような不気味な音が響き、広間に充満していた「焦げた肉の死臭」が、甘く重厚な紫苑の花の香りに塗り替えられていった。
「あ……ああ……っ」
私の血を口にした一命の亡霊が、喉から掠れた声を漏らす。
かつて皮膚であったろう黒く固まった焦げ肉が、ボロボロと落ち葉のように剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、爛れた肉ではなく、透き通るような銀色の光を放つ透明な皮膚だった。
顔の真ん中に裂けていた悪夢のような口は消え、代わりに凛とした彫刻のような男の容貌が姿を現す。
黒髪に、澄んだ琥珀色の瞳。胸元には、十年前の火災で焼け焦げたはずの、王国近衛騎士団の金糸の紋章。
「……私の、正気が……戻ったというのか……?」
男の霊は自分の透明な手を見つめ、それからゆっくりと私に向かって膝をついた。床に響く鎧の音が、まるで生身の人間のように重々しい。
「私は、近衛第三騎士団長、ヴィンセント・レーモンド。……いや、今はただの敗残の亡霊か。乙女よ、いや、我が新たなる主(主君)よ。狂気の中で私を繋ぎ止めていた『呪い』を解いてくださったこと、心より感謝申し上げます」
ヴィンセント。その名に私の記憶が跳ねた。
十年前の北離宮の大火。国王の異母弟であった第一王子を守るため、火の中に飛び込み、全員死に絶えたとされる伝説の近衛騎士団長。彼らは救出されることもなく、この地に閉じ込められ、怨霊へと変無させられていたのだ。
「ヴィンセント卿。ヴァレンタイン伯爵家令嬢、エレノアです。……感謝なら結構よ。私はあなたたちを無償で救ったわけではないわ」
私はナイフで自分の指先をもう一度突き刺し、血の滴る手を彼に突きつけた。
「私の血は、呪いを反転させる。けれどそれは、同時にあなたたちの霊魂を私に強く縛り付ける『奴隷の鎖』でもある。……私に従いなさい。私を殺そうとし、あなたたちを放置して嘲笑ったこの腐敗した王宮に、本当の地獄を見せてあげるために」
ヴィンセント卿は一瞬、その琥珀色の瞳を大きく見開いた。
だが次の瞬間、その端正な顔立ちに、ぞっとするほど冷酷で、狂おしい笑みが浮かんだ。
「……願ってもない。あの夜、私と部下たちの背後の扉に鍵をかけ、燃え盛る炎の中に置き去りにしたのは、他ならぬ現在の国王とエザリントン公爵……ジュリアン殿下の父親です。この怨念、何千年の時が経とうと消えはしない」
ヴィンセント卿が私の手を取り、血のついた指先に、恭しく唇を寄せた。
「我が命、我が怨嗟、すべてをあなた様に捧げましょう、エレノア様」
その瞬間、彼の背後にひしめいていた何千という「焼け焦げた亡者たち」が一斉にひれ伏した。
彼らの焦げた顔が次々と剥がれ落ち、銀色の鎧をまとった死者の軍勢へと変貌していく。
冷たい北離宮の空気が、私という唯一の生者を頂点とした「死の王宮」へと変貌した瞬間だった。
「さて……」
私はドレスの破片で手のひらの傷を硬く縛り、不敵に口元を緩めた。
「まずは、今の王宮がどれほど『腐っている』か、じっくりと観察させてもらいましょうか」
私はヴィンセント卿に向かって手招きをした。彼が差し出した透明な腕に、そっと自分の手を添える。
死者の冷たさが心地よかった。生きている人間の、脂ぎった欲望と嘘に満ちた温もりよりも、ずっと。
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その頃、華やかな王宮の夜会会場では、宴が最高潮を迎えていた。
「いやあ、ジュリアン殿下! あんな気味の悪い女と婚約破棄できて、本当に祝着至極ですな!」
「そうですとも。ヴァレンタイン家の『煤の血』など、エザリントン公爵家の名誉に傷がつくだけでした」
貴族たちがジュリアンを囲み、口々に媚びを売っている。
ジュリアンはワイングラスを傾け、満足そうに鼻を鳴らした。
「ふん、当たり前だ。エレノアのような陰湿な女、最初から私の前に立つ資格などなかったのだ。これで私も、真の聖女であるクロエと結ばれることができる」
ジュリアンは隣に寄り添うクロエの腰を抱き寄せた。
クロエは「まあ、ジュリアン様ったら……」と愛らしく頬を染め、彼の胸に顔を埋める。
だが、ジュリアンは気づいていなかった。
自分の耳の裏が、先ほどから猛烈に熱く、そして痒いことに。
(なんだ……? 妙に耳の後ろがむず痒いな……)
ジュリアンは酒のせいかと思い、軽く首元を掻いた。
ボリ、と嫌な音がした。
かゆみは収まらず、彼はさらに強く爪を立てる。
ポロリ、と彼の指先に「何か」がこびりついた。
(……え?)
指先を見ると、それは彼の自身の皮膚だった。しかし、血は出ていない。
代わりに、腐ったチーズのような黄色い脂肪の塊と、むっと鼻をつく「生の豚肉が腐敗した匂い」が指先から立ち上った。
「ジュリアン様? どうかされましたの?」
クロエが琥珀色の瞳をうるうると輝かせて見上げてくる。
その顔はどこからどう見ても可憐な少女そのものだ。だが、彼女が口を開くたび、ジュリアンの耳元で「くちゃ、くちゃ」と、湿った生肉を咀嚼するような音が聞こえる。
「あ、いや……なんでもない。少し、酒が回ったようだ……」
「まあ、大変。では、もう少し私の『光の加護』をお分けしますわね」
クロエがそっとジュリアンの首筋に手を回す。
その細い指先が、ジュリアンの肌に触れた瞬間――。
ジュリアンの視界が一瞬、真っ赤に染まった。
クロエの爪が、彼の首の皮膚をスッと滑る。
ジュリアンには見えていない。自分の首筋の皮膚が、まるで熟しすぎた桃の皮のように簡単にめくれあがり、その隙間からクロエの指がずぶずぶと彼の肉の奥深く、筋肉の繊維の間へと潜り込んでいったことを。
「あ……がっ……!?」
ジュリアンは息を詰まらせた。痛みの代わりに、脳が溶けるような異常な「快楽」と「疲労感」が彼を襲う。
首筋から、自分の生命力が、血が、魂が、ズルズルとクロエに向かって吸い上げられていく感覚。
「ふふ、ジュリアン様……私の素敵な、可愛いお人形さん……」
クロエの小声の囁きは、もはや人間の声ではなかった。
無数のハエが羽ばたくような、重低音の羽音の混ざった不気味な残響。




